9
王立アカデミーの大ホールは、開会前から異様な熱気に包まれていた。
天井高く掲げられた王家の紋章旗、重厚な赤絨毯、そして階段状に配置された何百もの観覧席。そこに集まっているのは、王国の重鎮である高位貴族たちや、白髪を蓄えた老学者、そして話題作りに敏感な社交界の面々だ。
「おい、見たか? あのグラディス公爵閣下の令息、ルシアン様もお見えだぞ」
「ルパート子爵の発表する『古代治水論文』が、それほどまでに画期的な内容だということだろう」
「なんでも、長年王国の頭痛の種だった下流域の氾濫を、完璧に防ぐカラクリが記されているらしい」
観覧席のあちこちで、期待に満ちたささやき声が交わされている。最前列の特別席には、あの金髪の公爵令息ルシアンが、退屈そうに優雅な手つきで扇を弄んでいた。
私は会場の最上段——暗がりになった柱の陰で、「不細工令嬢クロエ」として静かに佇んでいた。
(……すごい人出ね。私の撒いた『餌』に、まんまと乗っかってくれたわ)
匿名で送った予言めいた招待状。そこに「歴史的発見と、それを揺るがす大スキャンダルの予感」と一言添えておくだけで、退屈に飢えた高位貴族たちは吸い寄せられるようにやってきたのだ。
壇上を見下ろすと、仕立ての良すぎるシルクの礼服に身を包んだルパート館長補佐が、誇らしげに胸を張っていた。その傍らには、彼の腰巾着であるアレン様の異母兄、レイモンドの姿もある。二人とも、これから自分たちに与えられるであろう絶大な名声と富を思い描き、ニヤニヤと浅ましい笑みを浮かべていた。
一方で、会場の片隅——控室の入口近くには、古い書記官の服を着たアレン様が、書類の束を抱えて所在なさげに縮こまっていた。
(……アレン様)
彼の不安そうな横顔を見た瞬間、ドクン、と胸の奥で凶暴な熱が跳ね上がった。
(殺したい……)
激しい殺意が、私の思考を真っ赤に染め上げる。
あんなに素晴らしい知識と心を持つアレン様を泥足で踏みにじり、彼の成果を盗んでスポットライトを浴びようとしているあの豚ども。今すぐ擬態を解いてエルフの古代魔法を発動させ、あの壇上ごとあの二人を灰も残さず焼き尽くしてしまいたい——。
(あ、ダメ……! 鎮まりなさい……っ!)
私は奥歯をガチガチと噛み鳴らし、ドレスの袖の中で爪が手に食い込むほど拳を固く握りしめた。
額から冷や汗が垂れ落ちる。
だめだ。私の中に流れる、この猛烈で醜い「人間の血」に支配されてはいけない。
激情に任せて力を振るえば、私は故郷で恐れられた「化け物」と同じになってしまう。アレン様が愛してくれた、穏やかで静かな世界を、私自身の怒りで壊すわけにはいかないのだ。
(冷やしなさい……氷になれ、私の心……! 理性で、この煮え滾る感情を統御するのよ……!)
体内に極寒の魔力を巡らせ、暴れる血液を強制的に冷却していく。
激しい鼓動がゆっくりと落ち着きを取り戻し、視界の赤みが引いていく。冷徹なエルフの思考が戻ってきた。
(そうよ……力で殺すのではない。奴らには、自らが選んだ愚行によって、最も惨めで残酷な絶望を味わわせてあげるの)
私は静かに呼吸を整え、冷ややかな瞳で壇上を見つめた。
---
「誇り高き王立アカデミーの皆様、ならびに気高き貴族の皆様!」
大ホールに、ルパートの朗々とした声が響き渡った。彼は壇上の中央に立ち、アレン様から盗み取った論文の原稿を恭しく掲げてみせた。
「本日、私が発表いたしますのは、数百年の間、誰も解読し得なかった『古代帝国の治水術』の完全なる復元でございます! この理論を用いれば、我が国の川の氾濫は皆無となり、農地の収穫量は飛躍的に増大するでしょう!」
会場から大きな拍手と歓声が沸き起こる。ルパートは満足そうに口元を歪め、誇らしげに解説を進めていった。
複雑な魔導回路の配置、水門の開閉周期、そして精霊力の伝達効率。
ルパートは原稿に書かれた文字をただ朗読しているだけだが、元となったアレン様の理論があまりにも完璧であるため、序盤の解説を聞くだけで会場の学者たちは「おお……!」「なんという画期的な解釈だ!」と息を呑んでいた。
ルパートの全盛期。彼は自分の勝利を確信し、勝ち誇った顔でページをめくった。
——そして、ついに「第十三節」へと差し掛かった。
「……さて! ここで最も重要なのが、古代エルフ語によって記された魔導流路の最終調整であります!」
ルパートは大袈裟な身振り手振りで、巨大な黒板に書かれた式を指し示した。
そこには、私が夜の中に忍び込んで書き換えた「トラップ」が、そのまま拡大されて記載されていた。
「この第十三節の記述に従い、古代語の『ラ・ヴァルナ(豊穣)』の術式を組み込むことで、水流は優しく大地を潤すものへと変化するのです!」
ルパートが得意げに言い放った、その時だった。
「——待ちなさい」
静寂を切り裂くような、冷ややかな声がホールに響いた。
声を上げたのは、最前列に座っていた金髪の公爵令息、ルシアンだった。
彼は扇をパチンと閉じ、不快そうに眉をひそめてルパートを見つめている。
「子爵。君は今、その記述を『豊穣』と読んだのかね?」
「え……? ええ、もちろんでございます、グラディス公爵閣下! この完璧な論文においては……」
「戯言を言うな」
ルシアンの鋭い一言に、会場の温度が数度下がったような錯覚を覚えた。
「私は道楽で古代語を嗜んでいるが……黒板に書かれているその単語は『ラ・ヴァルナ』ではない。『ラ・ヴァル(洪水)』だ。根本的な単語の綴りが違う」
「な……!? こ、洪水……!?」
ルパートの顔から、一瞬で血の気が引いた。
ルシアンは退屈そうに溜息をつき、壇上の黒板を指差した。
「『洪水』の術式を組み込んで水門の魔導流路を再配置すれば、どうなると思う? 水の流れを抑えるどころか、魔力を暴走させて水門を内部から破壊する『自爆の式』になる。そんなものを設置すれば、最初の雨で王都の下流域は全滅だ。……君は、王国を大洪水で沈める気かね?」
会場が一瞬で静まり返り、次の瞬間、波のような動揺が広がった!
「な、なんだと!?」
「全滅だって!?」
「ルパート子爵、それは本当なのか!?」
「ひ、ひえっ……! ち、違います! これは……その、単なる転写の誤り(書き間違い)でして……!」
ルパートは滝のような冷や汗を流しながら、激しく狼狽した。
そこへ、観覧席に座っていた老教授の一人が立ち上がり、厳しい声を上げた。
「誤りだと? ルパート子爵、これは単なる文字の誤りではないぞ! もし君が本当にこの論文を執筆したのなら、この式を組み込んだ時点で計算が破綻することに気づくはずだ! なぜ気づかなかった!?」
「そ、それは……! その……っ!」
ルパートは口をパクパクと開閉させるだけで、何の反論もできない。
当然だ。彼はアレン様の書いた原稿を、内容も理解せずにそのまま丸写しして提出しただけなのだから!
壇上の脇で見ていた異母兄のレイモンドも、顔を蒼白にしてガタガタと震え始めていた。
(ふふ……見苦しいわね)
私は柱の影で、仮面の下の口元を歪めた。
胸の中で暴れようとしていた激情が、極上の快感へと変わっていく。
力で殴り倒すよりも、遥かに美しく、完膚なまでに奴らの愚かさが暴かれていく。
だが、仕掛けはこれで終わりではない




