8
そうじゃない。
奴らには、己の強欲と無知によって、自分自身の手で破滅の引き金を引かせてやるのだ。
「……ふう」
私は小さく息を吐き出し、殺意を完全に消し去った。
そして、「愚鈍で何も知らないクロエ」として、おずおずとアレン様の背中から顔を出した。
「あ……あの、ルパート様、レイモンド様……。お邪魔をしてしまって、大変申し訳ありませんわ……」
声のトーンを落とし、おどおどとした動作で頭を下げる。
レイモンドは鼻で笑った。
「ふん、自覚があるならさっさと消えろ、ブス。アレン、お前もさっさと部屋に戻って、私が命じた書類の整理をやれ!」
「ですが、それは僕の担当の仕事ではなく……」
「黙れ! 誰のおかげでこの図書館にいられると思っているんだ!」
ルパートが怒鳴りつける。
私はその様子を見ながら、気怯けした振りを装い、わざとらしくテーブルの上の『あるもの』に視線を落とした。
それは、アレン様が私に見せるために持ってきてくれていた、古代帝国の治水文献の控えだった。
「あの……ルパート様……」
私は震える声で尋ねた。
「その……ルパート様が近々、王立アカデミーと王空閣下に提出されるという『古代治水論文』とは……そちらの資料のことですの……?」
その問いに、ルパートとレイモンドがピクリと反応した。
ルパートの顔に、一瞬だけ焦りのような色が浮かぶ。
「な……なぜ、お前がその論文のことを知っている!?」
「あ、いいえ……! 社交界で、ルパート様が大変素晴らしい治水の論文をお書きになったと噂で伺いましたので……。私のような愚かな者には分かりませんが、そちらに書かれている『第四水門の魔導流路の再配置』の計算……とっても難しそうですわね」
私は、素人を装って絶妙な「罠」を仕掛けた。
ルパートが盗用しようとしているアレン様の論文。
そこには、アレン様が独自に編み出した「最新の魔導幾何学」に基づく複雑な計算式が含まれている。
アレン様以外の人間——特に、日頃から他人の功績を貪るだけで研究など一切していないルパートには、その計算の意味すら理解できていないはずなのだ。
「フ、フン! 当たり前だ! 私ほどの知識があってこその論文だからな!」
ルパートは威張ってみせたが、その額には微かに汗が浮かんでいた。
「まあ、すごいですわ! では……その論考の中にある『第十三節の古代エルフ語の動詞の解釈』についても、すでに修正はお済みなんですのね?」
「……は? 古代エルフ語の……なんだと?」
ルパートが素で首をかしげた。
アレン様がハッとして私を見た。アレン様には分かったのだ。その論文の第十三節には、意図的に解読難度の高い誤訳のトラップが残されているということを。
「だって……その論文の原本には、古代エルフ語の『洪水』と『豊穣』が混同して記されておりますもの。それを直さずに王立アカデミーへ出されたら……まあ、大変なことになってしまいますわよね?」
私は無知なふりをして、無邪気に微笑んでみせた。
実際には、そんなトラップは原本にはない。
私が昨夜、ルパートの部屋に忍び込んだ際、彼が提出用に清書していた論文の原稿に、魔法でそっとひと文字だけ書き加えておいた「爆弾」だった。
もしルパートが自分で論文を熟読し、理解していれば、私のハッタリなど即座に見破れただろう。
あるいは、アレン様に「ここはどういう意味だ?」と教えを乞うこともできたはずだ。
だが、ルパートは無能で、あまりにもプライドが高すぎた。
「く、くだらん! ヴァルデックの出来損ないが、知ったような口を利くな!」
ルパートは顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「私の論文に不備などあるはずがない! 来週の王立アカデミーの発表会で、私は国王陛下と公爵閣下から絶大な賛辞を受けるのだ! お前たちのような無能どもは、遠くから指を咥えて見ていればいい!」
「あ……申し訳ありません、差し出がましいことを……」
私は縮こまる振りをして、深々と頭を下げた。
完璧だ。
奴は自分の意志で、罠の掛かった論文をそのまま最高権力者たちの前で発表することを選んだのだ。
王立アカデミーの発表会には、王国の高位貴族や学者たちが一堂に会する。
そこで「古代エルフ語の決定的な誤訳」と「論理の破綻」を大々的に曝露されれば、彼の学者としての生命は永遠に絶たれる。
そして、その論文の真の著者がアレン様であることが証明されたとき——ルパートと、彼に同調していたセドリック子爵家は、盗用と不敬の罪で一網打尽となるだろう。
「行くぞ、レイモンド様! こんな不快な連中と話していても時間の無駄だ!」
「ああ、そうだな! ハハハ、来週の発表会が楽しみだぜ!」
捨て台詞を吐き捨て、二人の男は去っていった。
---
静けさが戻った庭園で、アレン様が呆然と立ち尽くしていた。
「クロエ様……今のは……?」
アレン様が不思議そうに私を見つめてくる。
私はすぐに「いつもの愚鈍なクロエ」に戻り、不安そうに眉を下げてみせた。
「あ……申し訳ありません、アレン様。私、何か変なことを言ってしまいましたでしょうか? 昔、家にあった古い本で読んだ知識を、うろ覚えで口にしてしまって……」
「いえ! 違います!」
アレン様は強く首を振り、私の手をギュッと握りしめた。
「すごいです、クロエ様……! あの論文の第十三節、実は僕も解読に自信がなくて、ずっと悩んでいた部分だったんです。クロエ様の仰った通り、あの単語は『豊穣』ではなく『洪水』と訳すべきだったのかもしれません……!」
アレン様の琥珀色の瞳が、眩しいほどの輝きを放っていた。
「クロエ様は……僕の仕事を、僕の研究を、本当に理解してくださっているのですね」
「アレン様……」
「僕、諦めません。どんなに周りから無能と言われても、この論文を完璧なものにして、いつか正しい形で世に出してみせます。クロエ様が教えてくださったヒントを胸に……!」
握られた手が、とても温かい。
彼の手の温もりが、私の体内に流れる「人間の血」を、優しく、穏やかに鎮めていくのが分かった。
怒りで壊すのではない。
この人の温もりを守るために、私は戦うのだ。
「ええ、アレン様。貴方なら絶対にできますわ。私は……いつでも貴方の味方です」
私は心の底から、偽りのない笑みを浮かべた。
---
茶会が終わり、日が傾く頃。
私はいつものように安宿の部屋へと戻ってきた。
古びたドアを閉め、擬態魔法を解除する。
銀髪がサラリと肩にこぼれ落ち、背が高く優美なエルフの真姿へと戻った。
私は机に向かい、羽ペンをとった。
「さて……仕上げの準備を始めましょうか」
来週の王立アカデミーの発表会。
そこは、ルパートとセドリック子爵家が破滅し、アレン様という真の天才が世に知れ渡る「舞台」となる。
私は匿名で、王立アカデミーの総裁と、あの金髪の公爵令息ルシアンへ一通の手紙を書くことにした。
手紙の内容は、『来週の発表会で、歴史的な盗用事件と、王国の治水を揺るがす真実が明かされる』という予言めいた招待状だ。
貴族たちが大好物な「スキャンダル」という餌を撒けば、彼らは喜んで発表会に足を運ぶだろう。
舞台装置は、これで完璧に整う。
ひび割れた窓の外を見やると、今日も美しい満月が夜空に浮かんでいた。
冷たい月光を浴びながら、私は自分の胸元に手を当てた。
そこにはまだ、アレン様に手を握られたときの温もりがかすかに残っている。
(待っていてね、アレン様)
貴方を嘲笑った愚か者たちを、地獄の底へと叩き落としてあげる。
そして、貴方が何にも脅かされず、その素晴らしい才能を誇らしく開花させられる場所を……私が作ってみせるから。
銀色の瞳に決意の光を宿し、私は静かに手紙に封をしたのだった。




