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「……あの、大変差し出がましいのですが」
騒然とするホールの中に、小さく、けれど芯のある声が通った。
控室の脇から、アレン様がそっと一歩前へと踏み出していた。
彼は恐怖に震えながらも、真実を明らかにするために、まっすぐな目でルシアン公爵を見つめた。
「そちらの第十三節の計算……原本の正解をお見せしてもよろしいでしょうか」
「何だと……? 君は誰だね?」
ルシアンが興味深そうに目を細める。
「王立図書館の書記官、アレン・フォン・セドリックと申します。……そちらの論文の『元となった草案』を執筆した者です」
会場に、この日一番のどよめきが走った!
「な……何をごちゃごちゃと言っているんだ、アレン!!」
ルパートが金切り声を上げた。
「お前のような無能な落ちこぼれが、こんな高尚な論文を書けるはずがないだろう! さっさと下がれ! 警備兵、この無礼者を追い出せ!」
「控えよ、ルパート子爵!」
ルシアンの一声が、ルパートの叫びを遮った。公爵令息の青い瞳が、冷たくルパートを射抜く。
「発言を許す。アレン書記官、壇上へ上がりたまえ。君の言う『正解』を聞こう」
「は、はい……!」
アレン様は緊張で肩をすくませながらも、堂々と壇上へと登っていった。
ルパートからチョークを奪い取ると、彼は黒板に向かい、迷いのない手つきで数式と古代語を書き換えていった。
さらさらとチョークが滑る音だけが、大ホールに響く。
アレン様が書き上げたのは、私がトラップを仕掛ける前の、完璧で美しい「真の解答」だった。
古代語の解釈、魔導回路のバイパス構造、そして水圧を逃がすための完全な計算式。
それを見た老教授たちが、次々と席から立ち上がり、目を見開いた。
「おお……! なんという美しさだ!」
「古代語の『ラ・ヴァル(洪水)』を逆利用し、水流の破壊エネルギーを魔力へと変換して水門を強化する式か!」
「これだ……! これこそが、失われた古代帝国の真の治水術だ!」
教授たちの絶賛の声に、会場全体が大歓声と拍手に包まれた!
アレン様は驚いたように周囲を見渡し、それから深々と頭を下げた。
「僕ひとりの力ではありません。……僕に、この第十三節の解釈の『誤り』に気づくヒントをくださった、素晴らしい方がいらしたのです」
アレン様がそう言って、遠くの観覧席——会場の最上段の隅を、優しく見つめた。
私の心臓が、ドクンと跳ね上がった。
(アレン様……私を見てくれているの……?)
不細工な仮面を被り、陰に隠れている私を。彼はちゃんと覚えていてくれたのだ。
一方で、事態は一気に収束へと向かう。
「ルパート子爵、説明してもらおうか」
ルシアン公爵令息が、冷徹な声でルパートを見下ろした。
「君が提出した原稿には決定的な誤訳があり、アレン書記官の提示した式こそが完璧な正解だった。……つまり、君は部下の功績を盗用し、自分の名誉のために嘘の発表を行ったということだな?」
「あ……あ……っ! ち、違います! これは……レイモンド! レイモンドが私に『アレンの書類を使えばいい』とそそのかしたのです!」
追い詰められたルパートが、隣にいたレイモンドを指差した!
「なっ!? 何を言うんだ、ルパート子爵! あなたがアレンの給料を横領して、私に借金の穴埋めとして金を回していたんじゃないか!」
「黙れ、この無能が!」
醜い罪のなすりつけ合いを始める二人。
会場からは露骨な軽蔑と汚物を見るような視線が注がれる。
「見苦しいな。二人とも連れて行きなさい」
ルシアンの短い命により、控えていた近衛兵たちが一斉に壇上へ上がり、叫び狂うルパートとレイモンドの腕を拘束した。
盗用、不正横領、そしてアカデミーに対する不敬罪。二人と、そして二人を裏で操っていたセドリック子爵家には、再起不能の破滅が待っているだろう。
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大混乱と大絶賛のうちに、発表会は幕を閉じた。
会場を去っていく貴族たちの波に紛れ、私も静かにホールを後にしようとした。
胸の中は、澄み切った秋空のように晴れやかだった。
私の中の「人間の血」は、すっかり静まり返っていた。
激しい怒りも、殺意も、もうどこにもない。ただ、アレン様が正当に評価され、輝かしい未来へと一歩を踏み出したことへの、温かな満足感だけが満ちていた。
「……クロエ様!」
後ろから、息を切らせた声が聞こえた。
振り返ると、大勢の学者や貴族たちからの祝福を抜け出してきたアレン様が、こちらに向かって走ってくるところだった。
「アレン様……。おめでとうございます、素晴らしい発表でしたわ」
私が「愚鈍なクロエ」としてお辞儀をすると、アレン様は首を振り、私の目の前でしっかりと立ち止まった。
その琥珀色の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ありがとうございます、クロエ様。……僕、分かりました。あの論文に罠が仕掛けられていたことも、ルパート館長補佐が勝手に持ち出すように仕向けられていたことも……すべて、クロエ様が僕のために作ってくださった『舞台』だったのですね」
「え……?」
私は思わず目を見開いた。
不細工で愚鈍な男爵令嬢を演じていたはずの私。
けれど、アレン様の深い知性と観察力は、私の隠された誘導を、すべて理解していたのだ。
「クロエ様が先日の茶会で『第十三節』のお話をなさったとき、違和感を覚えたんです。クロエ様は最初から、ルパート様が論文を盗用することを見越し、彼に誤った道を選ばせるために、あの言葉を口にされた……違いますか?」
「……」
私は言葉を失った。
人間のクズどもは、私の姿だけを見て愚かだと決めつけていた。
けれど、このアレン様だけは。私の不細工な仮面の裏側にある「意図」と「知性」を、正しく見抜いてくれていたのだ。
「なぜ……そこまで、僕のためにしてくださったのですか?」
アレン様が、愛おしそうに私の手をとった。
その手は少し震えていたけれど、とても温かかった。
「僕は……無能で、家族からも捨てられた男です。なのに、クロエ様は僕の味方になってくださった」
私は、ゆっくりと首を振った。
「アレン様……貴方は無能などではありません。誰よりも優しく、誰よりも物事の真理を深く愛する……世界で一番、価値のある方ですわ」
それは、演じられたクロエの言葉ではなく。
私の中にある、エルフとしての理性と、人間としての情熱のすべてを込めた、本当の私の言葉だった。
「私は……貴方のその美しさが、泥に汚されるのが許せなかっただけです」
アレン様は息を呑み、それから、ポロポロと大きな涙をこぼしながら、温かく微笑んだ。
「クロエ様……。僕を、貴方の側にいさせてください。これからの僕の人生と、僕の知識のすべてを……貴方のために捧げたいのです」
青空の下、大理石の回廊で。
地味で誠実な青年が、不細工な仮面を被った私に、心からの愛と忠誠を誓ってくれた。
胸の奥で、カタリと何かが外れる音がした。
もう、孤独ではない。
エルフの郷を追われ、人間に怯え、偽りの仮面を被り続けてきた私の物語は。
この温かな人の手によって、本当の「救い」へと動き始めたのだ。
(いつか……)
いつか、この人と誰もいない静かな場所へ行けたなら。
私はこの不細工な皮を脱ぎ捨て、銀色の髪と尖った耳を持つ、本当の私を見せよう。
そして言おう。
「私を見つけてくれて、ありがとう」と。
ひび割れた窓の外に見ていた幸福の夢は、いま、確かな現実となって私の目の前に広がっていた。




