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【完結】幸せを掴むまで、壁の花に徹します  作者: 逆立ちハムスター


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3/10

3

朝の光が、ひび割れた窓ガラスを通して薄暗い安宿の部屋に差し込んでいた。


私はベッドの上で体を起こし、深く息を吸い込む。

鏡を見れば、そこにはまだ、銀色の髪と尖った耳を持つ「エルフの私」が映っている。朝露のように澄んだ瞳と、透き通るような白い肌。人間たちが喉から手が出るほど欲しがる「神秘の血」の象徴だ。


(さて……今日も一日、仮面を被りましょうか)


私は集中し、体内の魔力をゆっくりと循環させていく。

指先から始まり、腕、首筋、そして顔へ。魔法の波が全身を覆うと、骨格が微かに軋むような感覚とともに、皮膚が収縮し、色が濁っていく。

美しい銀髪はパサついた短い栗色へ。陶器のような肌はそばかすだらけのくすんだ色へ。そして尖った耳は丸く不格好な人間の耳へと形を変えていく。


鏡の中に現れたのは、昨日と同じ「不細工な令嬢」だ。


私のいまの立場——『クロエ・フォン・ヴァルデック』という名は、本物の貴族の血筋でも何でもない。

落ちぶれて借金まみれだったヴァルデック男爵に対し、私が魔法で作った金貨をまとまった額で差し出し、「病弱でめったに人前に出ない年の離れた娘」という戸籍をひとつ買い取っただけに過ぎない。

男爵にとっては金が手に入り、私にとっては社交界に出入りするための公的な身分パスポートが得られる。お互いの利害が一致した、ただのビジネス関係だ。


本当のクロエという娘がかつて存在したのか、それとも最初から男爵が捏造した書類なのかは知らない。私にとって重要なのは、「ヴァルデック男爵令嬢」という肩書があれば、王都で開催される大半の夜会や園遊会に顔を出せるということだけだった。


「よし、崩れはないわね」


頬を軽く叩いて仕上がりを確認すると、私は粗末な部屋着から、これまた野暮ったいクリーム色の昼用ドレスに着替えた。

今日の目的地は、王立庭園で開催される「慈善園遊会ガーデンパーティ」だ。


太陽が天頂に差し掛かる頃、王立庭園は華やかな衣裳を纏った紳士淑女たちで埋め尽くされていた。

夜の舞踏会とは異なり、太陽の光の下では誤魔化しが利かない。女性たちのドレスの刺繍や宝石の質、そして男性たちの立ち振る舞いの端々に、露骨な家柄の優劣が浮き彫りになる。


「あら、ごらんなさいな。今日もヴァルデック男爵令嬢がいらしてよ」

「まあ……お日様の下で見ると、輪をかけて酷いですわね。あのような野暮ったいドレス、どこで仕立てていらっしゃるのかしら」

「お父上の男爵様も借金で首が回らないと聞きますし、あの方にかけられるお金などないのでしょうけれど……それにしても、もう少し遠慮というものを知るべきですわ」


鮮やかなパラソルを差した令嬢たちが、私を見てクスクスと囁き交わしている。

私は俯き加減に歩きながら、その言葉を右から左へ聞き流した。


(どうぞお好きなだけおっしゃい。あなたのそのドレスの染料、粗悪な植物毒が含まれていて肌に良くないわよ、なんて教えてあげないから。すぐ自慢の美も消えてしまうわね)


庭園の美しい花壇の周りでは、今日もまた華やかな貴族たちの品評会が繰り広げられていた。

特に目立つのは、やはり身分の高い男たちを取り巻く輪だ。


「公爵閣下、今回の鉱山事業の利権ですが……」

「ふむ。悪くない話だがね、我が家に恩恵をもたらすというなら、もっと確実な『手土産』が欲しいところだ」


金髪の公爵令息——昨夜も舞踏会で猛威を振るっていたルシアンが、扇を弄びながら横柄に呟いていた。その周囲を取り囲む中堅貴族たちが、揉み手で追従している。


「手土産、でございますか? 金銭であれば、ご希望の額を……」

「金など我が家には腐るほどある。私が欲しいのは『格』と『力』だよ。……例えばそうだな、最近噂になっている『隠れエルフ』の身柄でも連れてくると言われたら、一発で契約を結んでやってもいい」


その言葉に、周囲の男たちが大きく頷き合った。


「おお……エルフですか! たしかに、エルフの血を引き入れることができれば、その家系は数世代にわたって強力な魔力と長寿の恩恵を得られると言われていますからな」

「美貌もさることながら、その古代魔法の知識と価値は国一つ分に匹敵する……。もし我が子爵家にエルフの嫁を迎えることができれば、公爵家とも対等に渡り合えるやもしれません」

「捕らえてさえしまえば、あとはどうとでも従わせられますからな。人前に出さず、秘密の離れにでも閉じ込めて子を産ませれば……」


男たちの醜い欲望が、隠されることなくポロポロとこぼれ落ちていた。


(胸がムカムカするわね……)


私は扇で口元を隠し、冷ややかな視線を向けた。

彼らにとってエルフとは、人間以上の知性を持つ対等な存在ではなく、ただの「強力な魔法能力を持った都合の良い道具」あるいは「家格を上げるためのトロフィー」に過ぎないのだ。

権力者たちが血眼になって私のような存在を探している理由は、神秘への憧れなどではなく、どこまでも浅ましい独占欲と野心によるものだった。


もし私が擬態を解き、素顔を晒せば、彼らは群がるハエのように私に群がり、力で支配しようとするだろう。

だからこそ、私はこの「不細工なクロエ」という泥の鎧を手放すわけにはいかないのだ。


(さて、ここもクズの溜まり場ね。リストを更新する手間すら省けそうだわ)


私は溜息をつき、賑やかな庭園の中心部から離れることにした。

これ以上彼らの欲望の濁り水に浸かっていると、精神が汚染されてしまいそうだ。


王立庭園の奥深く、一般の客があまり立ち入らない古い温室の裏手へと足を進める。

ここには手入れの行き届いていない大きなオークの木があり、その木陰に古びた木製のベンチがぽつんと置かれていた。

陽光が葉の隙間からこぼれ落ち、穏やかな木漏れ日の模様を地面に描いている。


「随分と長い間ここにいたのね。あなたも、醜い欲望を沢山聞いてきたのかしら? ンフフ、私の願望も浅ましいわね。混血だからかしら」


彼らは天で意識を与えられる。ある意味、前世の記憶を持つ私と似ている。


オークの木に触れたあと、私がベンチに近づこうとした、時だった。


「……あ、申し訳ありません。先客がいらしたのですね」


木陰の反対側から、低い、けれど心地よく響く声が聞こえた。


驚いて振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。

年は二十代前半ほどだろうか。仕立ての行き届いた、けれど装飾の少ない地味なネイビーの着慣れた上着を着ている。髪は少し伸びた落ち着いた茶髪で、眼鏡の奥にある瞳は柔らかな琥珀色をしていた。

特別に華やかな美形というわけではない。この社交界において、派手な公爵令息や絢爛な騎士たちの中に混ざれば、一瞬で見失ってしまうような「地味」な佇まいだった。


「あ……いえ、私はただ散歩の途中で寄っただけですの。お気になさらずに」


私は咄嗟に「愚鈍なクロエ」の仮面を深めにかぶり、少し頭を下げて引き返そうとした。

見知らぬ男性と二人きりになるのはリスクがあるし、どうせ彼も私の姿を見れば、不快そうに顔を歪めるか、あからさまな無視決め込むだろうと思ったからだ。


しかし——。


「もしよろしければ、どうぞお座りください。ここは日陰になっていて、風が通って気持ちがいい場所ですよ。僕はあちらの立ち姿で十分に楽しめますから」


青年は爽やかな笑みを浮かべ、ベンチのスペースを空けるように少し脇へ退いた。


その動作にも、声のトーンにも、一切の嫌悪や蔑みが含まれていなかった。

私の腫れぼったい顔を見ても、野暮ったいドレスを見ても、彼の琥珀色の瞳はただ「そこにいる一人の女性」を穏やかに映し出しているだけだった。


(……)


私は一瞬、耳を疑った。

この社交界で、私——不細工令嬢クロエに対して、ごく当たり前の親切と敬意を持って接してくる男など、これまでただの一人もいなかったからだ。


「……あの、私をお知りになりませんの? 私はヴァルデック男爵家のクロエと申しますけれど……」

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