11の1 天下平定
天正十七年(1589年)三月の「福山の戦い」後に、豊臣・島津同盟がなされ、関白太政大臣の豊臣秀吉は京へと大返しをした。
そして四月の「岐阜の戦い」で伊達軍が勝利し、秀吉、弟の秀長、甥の秀勝らは討死した。
大坂城には、留守を預かる豊臣秀次(二十二歳)と兵三万が籠城していた。
秀次は「仇を討つぞ」と叫んだが、何も出来なかった。
やったのは、一部の浪人衆が、京に上って荒らしたくらい。
求心力のあった秀吉は、もうこの世にいない。
五月に伊達は一八万の大軍で上洛し、京都の治安を回復した。
すでに細川忠興や伊勢衆が、伊達家に下ったことを聞いて、鳥取の宮部継潤(六十二歳)は隠居し、子の長房(九歳)が兵六三〇〇名とともに参陣した。
何とか岐阜から逃げ延びた岡山の宇喜多秀家(十七歳)も、伊達家に臣下の礼を取った。
宇喜多は国元からも兵を集めて、合計一万七〇〇〇名が鳥羽・伏見の伊達軍に加わった。
七月一日に、伊達政宗公(二十三歳)は右大臣に任官した。
右府様(伊達政宗公)は、反乱を企てて京を荒らした親玉として、大坂城の豊臣秀次を討伐すると公布した。
そして秀吉、秀長、秀次、秀勝ら、豊臣家の領地を没収した。
右府様は、精鋭の三万名を手元に残し、残りの将兵一七万二六〇〇名を近畿の各地に走らせた。
そこで秀長の遺産が発見される。
大和郡山城の蔵には、大判金(一〇両)が五万枚、天井までの銀が六万貫目(225トン)、銭が一〇〇万貫文(一〇億枚)あった。
遠藤隼人の前世(現代)では、5000億円相当だ。
じつは京都聚楽第の蔵にも、1000億円相当の金銀銭が在るのだが、公表していない。
讃岐の仙石秀久(三十七歳)と、阿波の蜂須賀家政(三十一歳)は、領国に迫る脅威から、伊達家に下った。
隣国の小早川家と長宗我部家は、すでに三月から島津方だった。
もう豊臣家は守ってくれない。
亡き関白殿下への御恩もあるが、義理だけで家族や家臣たちを死なせる訳にはいかなかった。
七月の中旬、関西での反伊達派は、大坂城の豊臣秀次(二十二歳)と、岐阜の戦場から大坂に逃げ込んだ黒田長政(二十二歳)、淡路六万石の脇坂安治(三十五歳)の水軍だけだった。
大坂城には、浪人衆を加えて一万五〇〇〇の兵が残っているようだ。
右府様(伊達政宗公)は、大坂城攻撃を命じた。
「いくら堅城の大坂城といえども、十倍以上の兵で攻めれば、落とせないはずがない。二〇万で総攻めだ」
七月二十六日、京に守備兵を残して、右府様は大坂に向けて進軍した。
大坂で戦が起こりそうな頃、西国の総帥・内大臣の島津義久は、配下の全武将に号令した。
「島津・豊臣同盟によって伊達家と戦い、天下を取る」
そうして義久は軍を組織した。
義久自身は鹿児島に留まり、島津軍の総大将には、弟の島津義弘を指名した。
●島津軍【総勢一六万二三〇〇名】
総帥、島津義久(五十七歳)は、兵一万で鹿児島に留まる。
義久の孫、島津忠辰(二十五歳)は、兵一万で豊後府内(大分)に留まる。
総大将は次弟、島津義弘(五十五歳)兵三万。
三弟、島津歳久(五十三歳)一万七〇〇〇。
四弟、島津家久(四十三歳)一万六〇〇〇。
従兄弟、島津忠長(三十九歳)二万。
義弘嫡男で義久の婿養子、島津久保(十七歳)一万。
義久の娘婿、島津彰久(二十三歳)一万。
外様与力、立花宗茂(二十三歳)一万二三〇〇。
外様で旧毛利、吉川広家(二十九歳)一万。
外様で旧毛利、小早川隆景(五十七歳)一万一〇〇〇。
外様、長宗我部元親(五十一歳)六〇〇〇。
小倉の島津義弘は、兄から総大将の命令と組織図が届くと、さっそく配下に伝令を飛ばして、作戦行動に移った。
「土佐の長宗我部は、阿波に攻め入れ」
「伊予の小早川は、讃岐に攻め入れ」
「出雲の吉川は、東伯耆と因幡を取れ」
「備後の立花は、備前岡山城を攻めよ」
「本隊は安芸広島城に集結せよ。大坂城など、どげんでもええ。伊達家に勝って、島津こそが最強だと、天下に示すど」




