10の4 大決戦
翌朝の四月十四日。
遠藤隼人(十八歳)たちは、昨日の大決戦から慌ただしく、戦傷兵の治療で朝を迎えた。
それでも味方の五〇〇〇人弱が亡くなってしまった。
もっと、ちゃんとした医者が居たら、多く助かったかも知れない。
軽い負傷兵も三万人前後いた。
岐阜城も城下も焼いてしまったので、伊達の将兵は、近くの大垣城と、後方の犬山城に入った。
近習の隼人は、皆に注進して、戦場の鉄砲、大小の刀、槍、弓矢、鎧を回収させた。
修理して使うためだ。
鉄砲はとても貴重だし、高価だったから。
敵兵の亡き骸も埋葬して、お教を読み、塚が幾つも出来た。
中将様(伊達政宗公二十三歳)は、敵方で舟橋を警備していた細川隊と、伊勢にいた敵の部隊を調略した。
伊達家の強さと、秀吉の死を伝えて、大垣城に参陣させた。
細川忠興(二十七歳)三六〇〇名。
加藤嘉明(二十七歳)六六〇〇名と水軍。
蒲生氏郷(三十四歳)九三〇〇名。
九鬼嘉隆は隠居し、子の九鬼守隆(十六歳)一八〇〇名と水軍。
生駒親正は隠居し、子の生駒一正(三十五歳)三〇〇〇名。
五月一日、伊達の北陸道軍が、大垣城で合流した。
北陸を制覇して各城に守兵を残し、三万五〇〇〇名が現れた。
湯目又次郎殿(二十六歳)と原田左馬助殿(二十五歳)の懐かしい顔もあった。
五月三日、中将様は大垣城を出発した。
伊達家古参の一五万五〇〇〇名と新参の二万四三〇〇名だ。
約一八万名の伊達軍は、佐和山城や近江八幡城を軽く落として、上洛を果たした。
中将様は、南の鳥羽と伏見に兵一五万名を置いた。
これは豊臣家残党の襲撃(主に大坂城から)に備えてだった。
それから精鋭の三万名で、聚楽第に入った。
五月十二日、友人の近衛竜山(前久五十四歳)と左大臣の近衛信輔(二十五歳)父子が挨拶に来た。
「伊達中将様、お久しぶりでおじゃる」
「三年ぶりですね。奥州福島の飯坂温泉で語り合ったのが、昨日のことのようだ」
竜山殿は、天正十四年に一ヶ月とう留して行った過去がある。
「伊達中将様、お初にお目に掛かる。左大臣の近衛信輔です」
二十五歳と若い公家で、今や朝廷の頂点に立つ人物である。
「左大臣様にお会い出来て光栄です。書道の名人だとお聞きしております」
「ありがとう。それより東国を制覇しての上洛。伊達中将様の方が凄いですよ」
近習として隼人も臨席しているが、左大臣様は中将様と年も近く、お互いに親しみが湧くようだ。武家風の振る舞いも好きな御様子。
中将様の言葉も丁寧だ。
「武家のならいとして、豊臣秀吉を討ち果たしました。今後は、近衛様に関白となっていただき、公家の伝統を守ってもらいたい。伊達家もご協力いたします」
「おおう」
近衛父子がお互いに見合って、笑顔となった。
その後、歓談となって貴重な話も聞けた。
後陽成天皇は御年十九歳で、お子の若宮様は二歳である。
皇統を絶やさないために、宮家創設が話題となった。
弟で秀吉の猶子だった六宮・智仁王は十一歳。
秀吉という後ろ盾が無くなったので、伊達家が支援して宮家を創設しては如何かという、非常に高度な政治の話だった。
それから中将様と左大臣様は、頻繁にお会いになった。
六月一日、近衛信輔は、信尹と改名し、関白左大臣、藤氏長者となった。
同日、中将様も昇進した。
【 伊達政宗を正三位 権大納言 右近衛大将 陸奥守に任ず 】
家臣一同で、お祝いとなった。
「これからは右大将様とお呼びしよう」
誰となく発言があり、政宗公の尊称が決まってしまった。
「まだ、大坂城と西国平定が残っているぞ」
政宗公の独眼は、笑っていなかった。
さらに智仁王(十一歳)に八条宮家創設と親王宣下が行われた。
右大将様(伊達政宗公)は、上皇陛下の院領を一万石、天皇陛下の禁裏御料を一万石、八条宮家に三〇〇〇石、伏見宮家に一〇〇〇石、関白近衛家に二八〇〇石の領地を認めた。
六月中旬には、上皇と天皇、五摂家に各一〇〇〇両(合計21億円)を献金した。
七月一日、政宗公はたった一ヶ月で、再昇進した。
【 伊達政宗を正二位 右大臣 右近衛大将 陸奥守に任ず 】
右府様(伊達政宗公)は、五月から京都に二ヶ月も留まって、治安を安定させた。
豊臣家から伊達家に「天下」が移ったことを、全国の民百姓は実感しただろう。
政治とは、知恵の戦いだった。
「あとは大坂城、そして九州だ」
右府様は、隼人たち側近を集めて軍略を練った。




