9の4 上洛開始
天正十七年(1589年)ひと月前の二月十五日、伊達軍は東海、東山、北陸の三道から上洛戦を開始した。
この三つの道で最大の強敵は、北国に一一九万石を領する前田利家(五十三歳)である。
そこで中将様(伊達政宗公二十三歳)は、北陸道軍に湯目又次郎殿(二十六歳)と原田左馬助殿(二十五歳)の宿老二人と、五万の兵を配置した。
大将の湯目は、佐渡に二三〇〇名、春日山城に一六〇〇名、奪取した魚津城に一四〇〇名を置いて、越中の中央にある呉羽山白鳥城に陣を張った。
その数、四万四七〇〇名である。
北陸道軍は山を背後にして、前面に野戦陣地の堀と柵を設けた。
対する前田軍は加賀金沢城から、約三万で出撃して来た。
三月二日、伊達と前田の両軍が激突した。
序盤は、鉄砲の撃ち合いだった。
これは陣地内から撃つ伊達側が有利だ。
しかし、前田軍も怯まない。何度も斬り込んで来た。ゴリゴリと兵数を減らす前田軍。
「頃合いだ。こっちも打って出るぞ」
副将の原田左馬助は、手槍を片手に騎馬の腹を蹴った。
従うは中央で一万の兵。目指すは、敵の大将前田利家の首。
右手海側の上杉六〇〇〇と直江六二〇〇も前進を始めた。
左手の真田幸村二〇〇〇も鋭く切り込んだ。
戦況が動いたのは、松前のアイヌ兵五〇〇による毒矢であった。
前田家重臣の村井又兵衛が、毒矢に倒れた。
崩れた一角を青山吉次の隊が埋めるが、恐怖による敗走の波は止められなかった。
前田家家老の奥村助右衛門は、一時退却を利家に言上した。
「槍の又左が引けるか。ええい、押し返せ」
逆に前田利家は前に出て行った。
一方では、真田幸村(二十三歳)と前田慶次郎(四十七歳)が馬上で一騎打ちをしていた。
槍を数度打ち合せ、間合いが開くと、幸村は手裏剣を投げた。
槍を捨てて避ける慶次郎。
馬上で大太刀を抜いた慶次郎に、幸村は一瞬速く槍を突き刺した。
槍先は左脇腹を貫いた。
陸奥の九戸政実(五十四歳)も戦の血が騒いだ。
一八〇〇の騎馬で、敵の後方に廻り込むと、前田利家の娘婿である前田長種の首を取った。
「敵の大将に向けて一斉射撃、用意」
十分に前進した原田左馬助は、鉄砲五〇〇丁で前田利家を狙わせた。
「よく狙えよ。撃て!」
雷鳴のように射撃音が鳴り、前田利家が倒れた。
「次の弾込め。追い打ちをかけるぞ。ゆっくりと前進」
倒れた利家を庇う敵兵に、銃弾をお見舞いした。
三月十日、小田原城に越中の大戦の結果が届いた。
中将様(伊達政宗公)は、遠藤隼人(十八歳)とともに早馬の使者に会った。
「前田利家を討ち取りました。ただいま残敵掃討中です」
「ご苦労、よくやった。能登と加賀も制圧せよ」
使者はとんぼ帰りで北陸に向かった。
「これで北の脅威は無くなった。俺も小田原を出られるぞ」
中将様は、小田原城代に富塚近江守三〇〇〇名を残して、小田原城を出発した。
満を持しての進軍である。
三月十五日、伊達の本隊五万は岡崎城に入った。
東海道軍の片倉小十郎殿(三十三歳)と八万二二〇〇名は、尾張清洲城を攻めていた。
城主は猛将の福島正則(二十九歳)である。
これは隼人の推測だが「決戦を引き延ばせ」と秀吉の命令が出ているのだろう。
清洲城には一万数千の軍勢が籠っている。
城は、周囲を川に囲まれた中州にあり、大雨が降ると浮き城となる。
もうすぐ梅雨の時期だった。
伊勢湾の入口である鳥羽沖でも、ひと戦あった。
兵糧を尾張に運ぶ伊達水軍に、九鬼水軍が襲い掛かったのだ。
海上では、地元で潮を読み、歴戦の九鬼水軍が有利だったが、伊達の伊豆水軍には「連発銃」があった。
三〇連発カートリッジの機関銃が、各船に搭載されている。
この銃が、襲い来る九鬼の水兵たちを薙ぎ払った。
狭い敵の船上に逃げ場はなく、半数は撃たれて死に、無傷の水兵も恐怖におののいた。
結果、伊達水軍が勝利し、多数の敵船を拿捕した。




