9の3 上洛開始
天正十七年(1589年)上洛作戦開始から半月後の三月一日。
そろそろ本隊が小田原城を出発しようかという時、待望の「連発銃」が、奥州から届いた。
しかし重い。
口径一二・二センチで三〇連発カートリッジ式の連発銃。
重量は二〇キロ以上あって、携帯できる代物ではない。
「重機関銃かよ」
設計者の遠藤隼人(十八歳)は、呟いた。
軽量素材もなく、すべて鉄で作ったのだから、仕方ない。
「で、どうする。隼人よ」
中将様(伊達政宗公二十三歳)が、使い道を質問した。
「怖れながら、船に搭載するか、城に据え置くか、どちらかです」
「では、伊豆水軍に乗せよ」
中将様が決定した。
その頃、片倉小十郎殿の東海道軍は、順調に城を落として進軍し、今は桶狭間まで進んでいた。
伊達藤五郎殿の東山道軍は、南信濃、東美濃、飛騨を征し、今は刃物で有名な美濃の関まで来ていた。
湯目又次郎の北陸道軍は、強敵の前田利家と競りながら、東越中を切り取り、今は呉羽山の白鳥城(標高145m)に陣を置いている。
西国の中国地方では、関白豊臣秀吉の軍八万と、九州島津の遠征軍六万が、激突した。
戦場は備後福山城の近郊。
山陽道は道が狭いので、両軍の先陣同士がぶつかった。
宇喜多秀家(十八歳)の軍勢は、一万七〇〇〇名。
対して島津家新参の立花宗茂(二十三歳)の部隊三五〇〇名。
五倍の兵力差にも関わらず、立花は強かった。
宇喜多軍は総崩れとなった。
「こりゃいかん」
秀吉は水軍を使って、軍使として黒田官兵衛を広島城へ送った。
広島城には遠征軍の大将、島津義弘がいた。
黒田官兵衛は、降服や停戦でなく、同盟を提案した。
一、領地は旧毛利と宇喜多家の境界で分ける。
二、関白の妹朝日と副田吉成夫妻を人質として薩摩に送る。
三、島津家家老と兵一万を大坂屋敷に置く。
四、島津家当主の義久を内大臣にする。
五、御弟の義弘、歳久、家久を権中納言にする。
六、共同で伊達政宗と戦う。
戦の勝ち負けを語らず、政治の話に変えた官兵衛。
六ヶ条の同盟案は文書に記され、広島と鹿児島を往復した。
現在、京の朝廷は秀吉が仕切っていた。
関白太政大臣、豊臣秀吉(五十四歳)
左大臣、近衛信輔(二十五歳)
右大臣、今出川晴季(五十一歳)
晴季は娘を秀吉の甥秀次の正室としている。
内大臣、空位。
織田信雄だったが、隠岐に追放されている。ここに島津義久(五十七歳)を置いて、懐柔しようというのだ。
十日ほどで返信があった。
「内大臣任官はやぶさかでないが、島津家の家老と妹君では釣り合わない」
島津義久は注文を入れて来た。
まだ脈はあるが、秀吉は困った。
東方は伊達軍が大侵攻していて、豊臣家が全軍で当たらなければならない。
西方では停戦も決まらず、同盟交渉を長々としている暇はない。
「えぇい、お母ちゃんに行ってもらおう」
秀吉は、生母で大政所の仲(七十四歳)を人質とした。
弟の秀長は猛反対したが、秀吉は押し切った。
「ここで島津と伊達に負ければ、一族は全滅だ。致し方ない」
朝廷から島津義久に内大臣の任が下った。
【 島津義久を従二位 内大臣 太宰権帥 薩摩守に任ず 】
弟の義弘、歳久、家久も、従三位権中納言となった。
武家伝奏の行列とともに、大政所および朝日夫妻が、人質として薩摩に下向した。
豊臣・島津同盟は成立した。
家老で当主の従兄弟である島津忠長(三十九歳)が、兵一万とともに、岡山城の秀吉の元に参陣した。
秀吉は歓迎の宴を開いて喜んだ。
その夜、軍師官兵衛と弟秀長を秀吉は呼んだ。
「大返しで伊達と決戦じゃ。戦場は何処になるか?」
官兵衛が答えた。
「おそらく関ヶ原か、岐阜城あたり」
「何とかおだてて島津兵も戦場に連れて行こう。ものは使いようだからな」
翌朝から、秀吉の大返しが始まった。




