8の3 小次郎謀反
天正十六年(1588年)正月。
中将様(伊達政宗二十二歳)が烏帽子親となって、徳川家三男の長丸(十歳)が元服した。
名前を徳川三郎宗康とした。
伊達政宗の「宗」と徳川家康の「康」を組み合わせて、宗康だ。
引き続き本多平八郎忠勝殿(四十一歳)が後見をする。
「甲斐国二五万石を頼むぞ」
「はい」
中将様が声を掛けると、三郎殿は元気に返事された。
「中将様、ちとお話が」
本多忠勝殿が、小声で何かを耳打ちした。
中将様の顔が厳しくなった。
「離間の計かも知れない。このことは内密に」
遠藤隼人(十七歳)の知っている「離間の計」とは、噂を流して親子兄弟や重臣たちを仲違いさせるというもの。
隼人と弟の孫六郎(十四歳)は仲が良い。
きっと小次郎殿(二十一歳)のことだな、と思った。
小田原城の強化は、日々進んでいた。
隼人は、枡形虎口と馬出を提案した。
そして伊達軍三万が、堀と土塁で三重の総構えを完成させた。
西国で発達した「枡形虎口」は、お米を計るときの枡に形が似ている。
城門を二ヶ所設置して、前の門を突破した敵兵が、周囲から攻撃を受ける内庭に閉じ込められる仕組みだ。
東国に多い「馬出」とは、門の外側に張り出した小さな郭である。
出撃するときに、門前を堀と土塁で防御できるのだ。
守るにしても丁度良い大きさが、鉄砲の射程から工夫された。
関東から奥州の田植えも済んだ頃、京都では「聚楽第行幸」があった。
四月十四日から十八日、関白太政大臣豊臣秀吉の御殿「聚楽第」に、後陽成天皇(十八歳)と正親町上皇(七十二歳)が行幸した。
直前には、足利義昭が室町幕府の将軍職を天皇に返上し、豊臣の天下が確定した。
豊臣の家臣には、大幅な昇進があった。
権大納言、豊臣秀長(七三万石。秀吉の弟)
権中納言、前田利家(一一九万石)
権中納言、毛利輝元(一一〇万石)
従三位以上の武家は、秀吉を含めて四人となった。
聚楽第では、天皇陛下の御前で、任官する大名たちが秀吉に臣下の礼を取った。
六月十六日、小田原城の一室で、中将様の長女・五郎八姫が、ご誕生された。
母は田村御前の愛姫(二十一歳)で、母子ともに健康だった。
飯坂の局(二十歳)と兵五郎君(三歳)、本多の局(十六歳)もそれぞれ部屋をもらって小田原城で暮らしている。
中将様は「関東巡察」を計画した。
小田原城に籠ってまもなく一年になる。
この東海道の要衝で、秀吉の調略を防いで来たが、敵の忍者は山道を通って少しずつ関東に浸透してきた。
流れ者が村に居付くことはよくある。商人や坊さん、旅人は移動もするだろう。
忍者が成りすました町人や村人、浪人を「草」という。
この草が江戸には、けっこう多いようなのだ。
城代は伊達小次郎殿。
小次郎殿は八つ当たり気質なので、兵たちに嫌われていた。
ゆえに警備、治安が悪い。
「今度の巡察で江戸城代を、弟の小次郎から叔父の石川昭光に、代えようと思う」
中将様は隼人に打ち明けた。
「本多の舅殿も、小次郎の周りに忍びありと言っていた。間違いなく秀吉の調略が延びている」
「伊達家には黒脛巾組がいますよね。忍者同士の戦いにならないのですか?」
隼人が質問した。
「黒脛巾組は情報組織だ。暗殺はやらない。戦いに強いのは、伊賀者や甲賀者だろう。人を人と思わぬ獣たちだ」
中将様の隻眼が鋭くなった。
「江戸城の新しい城代として、石川大和守(昭光)を呼んでくれ」
「はっ」
隼人は使者を大田原城に送った。




