7の3 関東侵攻
福島屋形を出陣した中央軍と中山道軍は、下野国の宇都宮城まで南進した。
三月六日、六万八〇〇〇の将兵が、城を取り囲んだ。
「宇都宮城へ降服勧告せよ」
中将様(伊達政宗公二十一歳)の命令で、閉ざされた門の奥に、文矢が何通も射込まれた。
しばらくして若武者と壮年の武将が城門から出て来た。
「宇都宮国綱(二十歳)でござる。伊達様に降服します」
お供には、猛将で知られた多功城主、多功綱継(四十五歳)が付いて来た。
中将様は、中山道管轄の伊達藤五郎殿(二十歳)に預けた。
「弟の結城朝勝(十九歳)と芳賀高武(十六歳)も降服します」
苦労せずに、宇都宮城、多功城、結城城、真岡城が、伊達家に下った。
「武装解除だ。刀槍、弓鉄砲を没収する。米、味噌、塩なども差し出せ」
これにより、宇都宮国綱は、武器と兵糧のない形だけの城主となった。
伊達の軍団は、次に小山城(祇園城)を取り囲んだ。
ここはもう北条領である。
城主の小山秀綱(五十九歳)は降服を望んだが、北条家臣が城内に多くいて、反乱が起きたようだ。
城内で重臣たちが斬り合い、農兵たちは逃げ出した。
「城に討ち入れ。城主小山も北条家臣も斬ってしまえ」
勇将の藤五郎殿が、味方を鼓舞した。
すぐに決着した。小山秀綱の首は、伊達の本陣に届けられた。
「この小山城を兵糧拠点とする。屋代勘解由(二十五歳)は城代、小成田志摩守(三十五歳)は副将として四七〇〇の兵で守りを固めてくれ」
中将様は、次々に命令を下す。
「藤五郎は西の上野国高崎城を目指せ。俺は南の武蔵国江戸城を目指す。では、小田原で会おう」
「ご武運を」
藤五郎殿は、陣幕を出て行った。
中将様は、岩槻城を攻略し、江戸城に入った。
しかし、この城も抵抗は薄かった。
城内には、侍と農兵が一〇〇から二〇〇しか居なかった。
遠藤隼人(十六歳)が助言した。
「北条家の主な将兵は、小田原城に入ったのでしょう」
「そうか、手間が省けたな。この江戸城も兵糧拠点とする」
三月二十五日、片倉小十郎殿(三十一歳)の東海道軍一万二〇〇〇が合流した。
「遅くなりました。途中、土浦城の守りに後藤肥前守(信康三十二歳)と五〇〇〇の兵を置いて来ました」
常陸の多くの土豪は歴史的に独立性が高く、強かったようだ。
「よく来た、小十郎。この江戸城は城下町も何もないが、川と海と山手という立地から、拠点として良い城だ。亘理美濃守(重宗三十六歳)を城代、留守上野介(政景三十九歳)を副将として四〇〇〇の兵で守りを固めよ」
「はっ」
「小十郎は玉縄城を焼いて小田原に向かえ。左馬助は八王子城を取って小田原城へ向かえ。俺は背後の河越城を落としてから小田原に行く」
四月二日、関白豊臣軍の先陣が、尾張と三河の国境に現れたそうだ。
この知らせを中将様は、小田原城に向かう途中で聞いた。
隼人は、二通りの方法があると思った。
このまま小田原城を攻める。しかし時を失う。
もう一つは、小田原攻めと徳川救援に兵を分ける。これでは兵力が弱い。
「隼人よ。まず小田原城を落とす。徳川が負けてから、伊達は助けて恩を売ろう。これは賭けだ。豊臣が強くなり過ぎる可能性もあるからな」
「大事なのは、伊達家が勝ち続けることですね」
中将様は政略の渋い顔をしていた。
「そうだ。それから真田安房守に連絡。豊臣が攻めて来たら、南信濃は切取り次第にする」
「中将様、徳川との同盟は?」
隼人は尋ねた。
「真田の裁量で戦え。死ねば終わりだからな」
四月六日、伊達軍六万が小田原城を包囲した。
城内の北条軍は三万人。
武装なしの農兵なら、城から逃がしてやった。
もし重臣たちが、城内から脱出するには、百姓に化けるか、小船で夜の海へ出て伊豆に渡るしかない。
伊達家の戦い方は、城門に油と火を放ち、消火しようとする兵を鉄砲で撃ちまくった。
城門は一つずつ焼け落ち、守る侍大将も、必殺のライフル射撃で討ち死にした。
総構えは大きいが、兵の士気が落ちてしまえば、戦えない。
逃げ出す農兵たちだった。
真夏の五月となった。
以前、福島屋形で会ったお坊さんが訪ねて来た。
「伊達中将様、北条家の板部岡江雪斎(五十一歳)でございます。まことに何ですが、降服の使者として、拙僧はこちらに来ました。将兵の助命をお聞きとどけ下さい」
城を包囲して一ヶ月。割と早かった。
中将様は、丁寧に応じた。
「ご当主の北条氏直(二十六歳)と四人の弟たちは、出羽羽黒山にて修験者になってもらいます。先代の北条氏政(五十歳)には切腹してもらいましょう。これが、城内の将兵を助ける条件です」
「わかりました」
板部岡は、がっくりと力が抜けて帰って行った。
「徳川が押されているらしい。三河と南信濃を取られ、家康は浜松城で最終決戦するようだ」
この噂を城内にも流してやった。
同盟する徳川家からの救援がないことを知り、北条の腹も決まったようだ。
坊主頭になって北条氏直が、伊達家に出頭してきたのだ。
お供は、板部岡だった。
五月七日、先代の北条氏政が切腹して、小田原は落城した。




