6の3 奥羽越統一
三月、日本海側の庄内地方でも内乱があった。
大宝寺氏は四百年も庄内を治めていたが、東禅寺(前森蔵人)らが反乱を起こした。
劣勢の大宝寺(武藤義興三十三歳)は、山形城にいる中将様(伊達政宗公二十歳)に救援を求めた。
「北方担当の左馬助は、北奥羽の大名に参陣命令を送れ。三月末までに山形城に当主自身が参陣せよ、とな」
「承知しました」
すぐに左馬助殿の使者が、各地に走った。
それから数日、大名たちが中将様の下にやって来た。
小野寺義道(二十一歳)参陣六〇〇名。平鹿、雄勝の二郡安堵、六万石。
戸沢盛安(二十一歳)参陣一〇名。山本郡安堵、六万七〇〇〇石。
秋田愛季(四十八歳)参陣九六〇名。檜山、秋田、比内の三郡安堵、六万四〇〇〇石。
蠣崎慶広(三十九歳)参陣一〇名。蝦夷地安堵。
中将様は、秋田氏から豊島、由利の二郡を取り上げた。
蠣崎慶広には、現地名である「松前」を姓として授けた。
当然だが、紛争の庄内から大宝寺氏は、やって来なかった。
大浦為信(三十七歳)参陣一八名。津軽三郡と夏泊半島安堵、四万五〇〇〇石。
南部信直(四十一歳)参陣一〇〇〇名。糠部、久慈、鹿角の三郡安堵、四万石。
九戸政実(五十一歳)参陣一〇〇〇名。岩手、志和、稗貫、和賀、閉伊の五郡に転封、六万石。
中将様は、広大な南部領を三分割にした。
大浦為信には、現地名である「津軽」を姓として授けた。
奥州東部の葛西晴信は、当主の力が弱く、家臣に反対されて参陣しなかった。
四月の初夏、伊達家二万の将兵と北奥羽の諸将は、庄内地方に雪崩れ込んだ。
東禅寺も大宝寺も落城とともに滅んだ。
「中島伊勢守(宗求三十五歳)に酒田城と周囲一万石を安堵。遊佐郡を預ける。
湯村右近大夫(親元二十八歳)に鶴岡城と周囲一万石を安堵。櫛引、田河の二郡を預ける。なお、羽黒山の修験者も面倒みてくれ。
なお、出羽最上領にあった蔵王権現の修験者は、奥州側の白石若狭守(宗実三十四歳)が、これからは面倒みてくれ」
中将様が差配した。
美しい鳥海山を右手に見つつ北へ進み、由利郡に入った。
ここは秋田家の影響下にあったが、中将様が取り上げた土地だ。
由利十二頭という十二の武家が、この地で半独立していた。
最大勢力は港を押さえている「赤尾津氏」の四三〇〇石。
次に大きいのは「仁賀保氏」の三七〇〇石。
第三の勢力は「滝沢氏」の二二〇〇石。
暴れん坊で武装力が高いのは「矢島氏」である。
お互いに犬猿の仲だった。
中将様は、参陣しなかった十二家を潰すと宣言した。
懇願する小名の八家に対し、赤尾津、仁賀保、滝沢、矢島の四家は、あくまで独立を守ると歯向かった。
当然、中将様は大軍に任せて、四家当主の首を取った。
「真田源二郎(二十歳)は『幸村』と名乗れ。由利郡と豊島郡の六万五〇〇〇石を新しく与える。難しい土地なので、心して励め」
中将様は、客将であった真田幸村に丸投げしてしまった。
中将様の奥羽軍は、東に向かう。
四月二十八日、葛西領二十二万石を飲み込み、葛西晴信(五十三歳)の本拠である寺池城を取り囲んだ。
小さな城である。
晴信の切腹で、城兵と村人は解放すると約束した。
翌朝、葛西晴信の首が、伊達の本陣に届けられた。
「四保但馬守(宗義三十八歳)に寺池城と周囲一万石を安堵。登米、桃生、牡鹿、本吉、気仙の五郡を預ける。
大条尾張守(宗直三十七歳)に一関城と周囲一万石を安堵。磐井、胆沢、江刺の三郡を預ける」
五月、中将様は福島屋形に帰って来た。
家督を継いでから丁度三年で、奥羽越を統一した。
伊達家の影響下にある支配地は、三六五万石にもなる。
政宗は、隼人や近習たちと静かに乾杯した。




