5の3 上杉臣従
農兵に頼らない伊達軍は、田植えの時期でも戦うことが出来た。
そのことが、今回の越後での戦いで役に立った。
田植えも終わり真夏の五月となると、上杉軍にも動きがあった。
本拠である春日山の城下に兵一万が集まっているらしい。
この情報をお屋形様(伊達政宗公十九歳)は、越後国の新津で入手した。
配下には精鋭三万の軍勢がいる。
隼人は、二本松産のリボルバー式拳銃五丁と、新開発した大森産のボルトアクション式後装ライフル銃一丁を持参した。
お屋形様は、原田左馬助殿(二十一歳)に試し撃ちを命じた。
河原に陣取り、水鳥を狙って撃つ。
金属薬莢を用いた後装ライフルは、発射一発ごとに弾を込める必要はあるものの、伏せたままの姿勢で装填が出来た。
つまり、敵の弾は当たり難く、気配を消しながら、次々と狙い撃ち出来る利点がある。
「隼人、よくやった。大儀である」
「隼人殿、凄いのが出来ましたな」
お屋形様と左馬助殿から、お褒めの言葉を頂いた。
「次は連発小銃に挑戦します。それと、港を整備して、佐渡を確保して下さい。金銀が取れる宝の島ですから」
「そうしよう。だが海兵がおらぬ」
船のことも有るし、課題も多そうだ。
お屋形様は、上杉景勝(三十歳)に手紙を書いた。もちろん降服を促す書状だ。
「上杉景勝殿へ、槍を交える前に我ら伊達家に降服せよ。よく考えるが良い。北に伊達、南に徳川、東に北条、西に佐々と四方を囲まれているだろう。そして一年以内に羽柴も攻めて来る。上杉家が生き残る正しい道を探すが良い。武田勝頼のように家を滅ぼすことのないように。早急に応えよ。伊達左京大夫より」
五月二十日に返事が来た。
上杉家筆頭家老の直江兼続(二十六歳)からだった。
「軍馬で勝手に越後に押し入っての無礼な物言いだったが、これも武門のならいである。上杉家の道は『義』の道である。武士の誇りと民百姓の安寧が得られるのなら、下るのもやぶさかでない。春日山城をご安堵頂きたい」
ぎりぎりの線引きが、春日山城のようだ。
お屋形様は、返書をしたためた。
「春日山城を安堵しても良い。当然のことだが、領土の大きさは誠意の大きさで決める。人質として真田源二郎(信繁十九歳)を求める」
上杉家と同時に真田家も臣下に加えてしまおうというもの。
少しムシが良すぎるが、言ってみるものだ。
六月初めに、騎馬の小隊が二組、新津の伊達本陣にやって来た。
毘沙門天の「毘」の上杉旗と「六文銭」の真田旗であった。
伊達側は、お屋形様と隼人を含む五人の宿老が応対した。
「我は直江兼続でござる。こちらに上杉景勝殿と真田源二郎殿も参上つかまつった」
利発そうな直江殿が、上杉殿と真田殿を紹介した。
真田源二郎殿は、お屋形様と同い年である。
「俺が伊達藤次郎政宗である。よくぞ参られた。この五人は伊達家の宿老である」
お屋形様が紹介すると、三人は驚いたようである。
百万石を超える伊達家の家老としては、皆若いし、隼人はまだ十四歳でしかない。
「腹は決まったようだな。上杉殿、直江殿、真田殿」
うなずく三人。
「ははっ、伊達様の傘下に加えて頂きたく、やって参りました」
直江殿が受け答えする。
「本日は、臣下の礼で間違いないな」
念を押すお屋形様だった。
「はい」
上杉殿が短い返事をした。
「殊勝である。上杉景勝には、越後国の南半分二十五万石を預ける。さらに直江兼続には、上杉の家老兼務で北信濃四郡と北安曇郡にある『千国荘』の二十一万石を預ける。真田の親父殿(安房守)には、小縣の上田城と吾妻、利根の二郡、さらに榛名山と赤城山の間の『渋川』の地も預ける。全部で七万石だ」
「真田源二郎(のちの幸村)は客将として、毎年蔵米三〇〇〇石を与える。ああ、そうだ、そうだ、宿老の原田左馬助と遠藤隼人にも三〇〇〇石を与える。今まで忘れていて済まぬな」
お屋形様が謝った。
若いお屋形様が、同じく若い家臣たちと自由に会話する風景に、三人の将は驚いた顔をした。
上杉謙信公は酒を好んだらしいが、神がかりだったに違いない。
「この刀を献上いたします。我が上杉家に伝わる『山鳥毛』の名刀です。関東管領上杉家から先代の不識庵様が頂いたものです」
「かたじけない。関東の事、この伊達が確かに受け取った」
小姓を通じて名刀は政宗公の手に渡った。
その後、天下の様子は、目まぐるしく動く。
七月十一日に近衛家の猶子となった羽柴秀吉に、関白が宣下された。そして豊臣家を拝命する。
七月二十五日に豊臣家が四国を平定する。
八月二十六日に富山の役が、佐々成政の降服で終了した。
この戦いで隣国の越中まで、豊臣家は進出して来た。




