4の3 夜ノ森合戦
天正十二年(1584)六月十四日の未明、標葉郡の新山城は伊達軍の熱気で包まれていた。
「夜明けには出撃だ。敵に我らの心意気を見せてやろう」
大将の片倉小十郎(景綱二十八歳)は、鎧姿に松明を持ち、将兵たちを鼓舞して歩いた。
朝飯を食べる兵二一〇〇名にも、やる気が満ちている。
昨日、(原田)左馬助が率いる機動隊三二〇名と、鬼庭と後藤の二〇〇〇名が援軍に来てくれた。
小十郎は、負ける気がしなかった。
日の出から一刻(二時間)の進軍で、敵の岩城軍と会敵した。
その数は三〇〇〇より少し多いであろうか。岩城軍は、夜ノ森に陣を敷いていた。
狭い浜街道において、少しだけ広い台地である。
岩城常隆(十八歳)は、伊達政宗公(十八歳)の伯父の子、つまりは従兄弟である。そして母は、佐竹義重の妹であった。
佐竹側に付かなければ、戦にはならなかっただろうと、小十郎は思う。
鏑矢が音を立てて飛んだ。戦の始まりである。
「我らは鶴翼の陣とする。左馬助殿は、遊軍として敵の大将のみを狙ってくれ。鬼庭殿一〇〇〇と後藤殿一〇〇〇は左右から敵を潰してくれ。中央は我が隊だ。いざ進め」
小十郎は軍配を振るった。
歓声が上がり、弓合戦から、槍合戦となった。
伊達軍と岩城軍がぶつかる。
後方を駆ける騎馬の一隊。左馬助殿の機動隊だ。
あっという間に、敵の後方に廻り込み、攻撃を仕掛けている。
戦場に鉄砲の轟きが聞こえた。
岩城軍の本陣が崩れた。
機動隊の槍騎馬が突き進む。
弓騎馬が援護した。
敵の侍大将たちは、銃撃に遭い落命していく。
銃撃で負傷した岩城常隆に、最後の一槍を突き付けたのは、機動隊隊長の左馬助だった。
「大将首、原田左馬助が討ち取った」
うぉーっ、と歓声が上がった。
伊達軍の勝利だ。
その頃、鬼庭綱元殿は、岩城家臣の窪田十郎と槍の一騎打ちをしていた。
「伊達が勝ったぞ。お前も降参しろ」
「いいや、最後の弔いだ。おヌシの首を取って、岩城にも武者は居たことを後世に残そう」
二人の槍先がぶつかって音を立てる。
ほぼ互角だったが、鬼庭の方が体力に余裕があった。
負け戦に奮闘した窪田十郎は、足元つまずいて膝を付き、鬼庭の槍に叩かれて倒れた。
短刀で首をかかれて、最後の兵は落命した。
その戦いで、岩城軍の兵たちは、武器を捨てて降参した。
十四日の昼、小十郎の元に、左馬助、鬼庭、後藤が集まった。
「勝ち戦見事、かたじけない。それでこの後の作戦だが」
小十郎は、皆の表情を見た。
「敵の総大将、佐竹義重は二本松辺りで、政宗公と対峙している。そこで鬼庭綱元殿に岩城大館城攻略をお任せして、我らは空っぽの常陸国太田城に攻め込もうと思う」
味方は小十郎の二〇〇〇に、後藤信康の九〇〇、左馬助の三二〇だ。
負傷兵三〇〇ほどは、新山城に帰った。
「よし、攻めよう」
後藤殿と左馬助殿は、承諾した。
「先陣は機動隊の左馬助殿、二陣は後藤殿、本陣は小十郎が務めます」
同じく六月十四日、会津の棟梁である蘆名盛隆(二十四歳)は、伊達家を攻めるべく猪苗代城まで進出していた。
蘆名盛隆の母は伊達政宗(十八歳)の叔母で、つまり政宗と従兄弟の関係だった。
血筋よりも、佐竹との家同士の同盟を重視した。
蘆名盛隆の近習として大庭三左衛門(十四歳)が居た。利発なところが盛隆のお気に入りだった。
大庭は元二本松家臣で、当主畠山義継(三十三歳)と共に会津へ逃げて来た。
義継は野心が強く、信頼できない男だと誰もが用心していた。
「殿、安積郡片平城の片平親綱(三十八歳)が伊達に寝返りました」
大庭が伝える。
「我らは八〇〇〇の大軍勢だ。通り道の小城など心配ない」
夕刻にも、蘆名軍に戦慄が走った。
「猪苗代盛国(四十九歳)が裏切ったらしい」
そんな噂がどこかから伝わり、兵の間でささやかれ始めたのだ。
「どいつもこいつも信用できない」
盛隆は家臣らの不忠と、自身の不徳をなげいた。
蘆名盛隆は猪苗代城の門を固く閉じさせ、猪苗代盛国を城下に野営させた。
これで安心と思ったのも束の間、夜の厠に立った時、何者かに背中を刺された。
それは近習の大場三左衛門少年だった。
「なぜだ?」
それが盛隆の最後の言葉であった。




