4の1 夜ノ森合戦
大森城下で隼人(十二歳)が住む屋敷に、二人の来客があった。
「隼人様、お元気でしたか?」
中間頭の松吉と女中頭のお菊だった。わざわざ米沢から来てくれたのだ。
「身の周りのお手伝いに上がりました」
「かたじけない。ご飯を炊くにも火加減が難しくて」
隼人は苦笑いした。
仮住まいの屋敷は、寝るだけなので取り散らかっていた。
今日から温かい夕飯に、会話も弾むことだろう。
弟の孫六郎は九歳か。
ご先代(輝宗)の伊達家は三〇万石であったが、政宗公が当主となってから伊達家は七五万石にまで領土を広げた。
お殿様(政宗公十七歳)は、恨みや怖れも多く買った。毒殺未遂事件も数回あった。
疑わしきは、最上義光の妹である政宗公の生母義姫(三十七歳)
待遇の違いに不満な実弟の伊達小次郎政道(十六歳)
田村清顕の我がまま一人娘で正室の愛姫(十六歳)
その為、お殿様はこの三人を米沢に置いて遠ざけた。
「隼人よ、火縄を使わないライフルはいつ完成するのだ?」
お殿様は周囲に釘を刺すこともあった。
「水銀が手に入りましたら半年で出来まする」
「そうか、急げよ」
「ははっ」
隼人は改めて、いろいろな商人に入手方法を訊ねた。
天正十二年(1584)正月、朝廷からの書が届いた。
【 伊達政宗を従五位下、左京大夫に任じる 】
お殿様(政宗公)は喜んだ。
「小成田志摩、大儀であった」
「ははっ」
京都往復と朝廷工作を終えた小成田殿は安堵の表情だった。
お祝いは重なる。
お殿様(十八歳)は大森城で、前から親しい関係にあった飯坂右近宗康の次女猫姫(十六歳)を側室にした。
ちなみに姉は、桑折政長の正室である。
同じく一月中に、伊達家と徳川家は婚姻同盟を結んだ。
徳川家重臣、本多忠勝の娘である稲姫(いな姫十二歳)を家康養女として、政宗公の側室とした。
伊達家からは、弟小次郎政道(十七歳)を徳川家に送り出した。
間違いなく人質だった。
ちなみに徳川家康(四十二歳)の長女亀姫(二十五歳)は、旧武田家臣の奥平信昌の室。
次女督姫(二十歳)は、関東北条家当主の北条氏直の室である。
三女はまだ幼い。
隼人(十三歳)はお殿様に、荒浜港と街道の整備を進言した。
道が広ければ騎馬での移動が速くなる。
「よし、やれ」
お殿様は隼人に許可を与えた。
まず、相馬中村城から福島屋形(建設中)を経て、米沢城まで通じる東西線を設置する。半里(2キロ)ごとに宿駅を設ける予定だ。
宿駅には、伝馬を用意し、宿屋や飯屋、商店を置く。
同時に、北は松島の塩釜港から南は岩城国境に近い新山城(双葉町)までの浜街道も整備する。
第三に、従来の主要路である福島から白石城を経て岩沼城に通じる道路を幅三間(5・5メートル)に拡張する。
隼人は宿老として計画し、奉行(実務担当者)たちに急いで実行させた。
三月に入って、織田家を挟んで羽柴秀吉と徳川家康が小競り合いを始めた。
後世の歴史にある小牧・長久手の戦いの序盤戦だろう。
城攻め得意の秀吉に対し、野戦の家康。
家康は尾張の要衝、小牧山城に陣を張ったが、兵隊の数は秀吉が数倍である。
お殿様と我らは奥州から、様子をうかがうことにした。
お殿様(政宗公)の当主就任から一年後の五月。
東国でも秀吉と通じる佐竹義重(三十八歳)が動き出した。
以前から、南奥州は佐竹氏の勢力圏であった。佐竹義重が統一したという文書もある。
常陸の佐竹義重は、会津の若い蘆名盛隆と同盟を結んでいる。
須賀川城の二階堂阿南姫は、蘆名盛隆の実母だ。
岩城常隆の母は佐竹義重の妹で、正室は蘆名盛隆の妹だ。
石川昭光は、田村氏との抗争に妹婿である佐竹義重の力を借りている。
白河城の白河義親は、養子に佐竹義重の次男義広を充てた。
相馬義胤は、昨年に我ら伊達氏との抗争で亡くなった。
「佐竹が動き出した。どこから攻めて来るか?」
お殿様を中心に宿老の五人が集まった。
「戦で弱っている相馬三郡でしょう」
小十郎殿が答えた。
「それもあるだろう。隼人の歴史では如何なっているか?」
お殿様が訊ねた。
「私の知る世界では、相馬義胤は死んでいません。佐竹と蘆名ら連合軍三万が、二本松城救援に仙道を北上し、人取橋で伊達家の数千名と大戦になります。結果は死者を多く出しての痛み分けです」
「そうか、藤五郎は二本松城から蘆名をけん制せよ。大内定綱の弟である片平親綱を味方に引き入れると良いだろう」
「はっ」
藤五郎殿が承諾した。
「大事なのは佐竹と蘆名を二つに分断しておくことだ」
宿老たちは頷いた。




