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第66話: 退却しない要塞

ムシャフ王国の上空に、夜がゆっくりと降りてきた。


空は漆黒に染まり、


黒い雲が低く垂れ込めている。


数日ほど前に完成したばかりの石の城壁の上を、冷たい風が吹き渡っていく。


だが今、


その城壁が再び大きく震え始めた。


ドオオオンッ!


王国の外側の地面が爆発するように砕け、


黒い土煙が空高く舞い上がる。


あちらこちらから悲鳴が響き渡り、


兵士たちは慌てて数歩後退する。


中には槍を取り落としそうになる者さえいた。


そして、大きなくぼみの奥から——


錆びた鎖にまみれた巨大な手が、ゆっくりと地面を掴み始めた。


続いて、


腕が、


肩が、


頭部が、


胴体が、


次々と地上に姿を現していく。


骨の軋むような音が辺りに満ちる。


バリバリバリ……


その存在はどんどんと身を起こし、


高く、


大きく、


ついには全容がはっきりと見えるようになった。


その背丈は王国の城壁に匹敵するほどだ。


体は黒い土と巨大な骨、古びた鎖、そして背中に無数の手が生えるようにくっついて構成されている。


それらの手は一つひとつが勝手に動き、


虚空を引っかき、


まるで生き物のように、


飢えに駆られているかのようだった。


王国全体が、水を打ったような静けさに包まれる。


ある兵士が唾を飲み込む。


「……あれは、一体何だ……」


誰も答えることができなかった。


誰も正体を知らなかったからだ。


指揮官たちでさえ、顔から血の気が失せていくのが見て取れた。


城壁の最上部では——


ガルドロスが瞬きもせず、その怪物を見据えていた。


瞳は落ち着いているが、


思考は高速で巡っていた。


普通の不死者ではない。


ただの怪物でもない。


そして何より彼を不安にさせるのは——


何の力も、何の気配も感じ取れないことだった。


まったくの無だ。


一人の指揮官が駆け寄る。


「師匠殿!」


「どうか指示を!」


ガルドロスは肩に担いでいた石の斧を下ろすと、


短く告げた。


「五十メートル後退せよ」


指揮官は一瞬硬直する。


「……え?」


「今すぐだ」


その静かだが断固とした口調に、指揮官は即座に動き出す。


「下がれ!」


「全軍、後退せよ!」


号令が響き渡り、


兵士たちは慌てて移動を始める。


弓兵たちも最前線の位置から退き、


皆が広い空間を空けていった。


ガルドロスは一人、ゆっくりと前に歩み出る。


一歩一歩が重く、


落ち着き払っており、


足を踏み込むたびに地面が微かに震えた。


怪物は彼の動きに気づき、


体のあちらこちらに埋まるようにあった無数の眼が、一つ、また一つと開き始める。


一つ、


二つ、


十、


二十——


やがて全身が不気味な赤い光に覆われた。


グオオオオオオオオッ!


その雄叫びは夜の闇を揺るがし、


民家のガラス窓は次々と砕け、


馬たちは狂ったように暴れ、


子供たちの泣き声があちらこちらから上がった。


だがガルドロスはただ、歩みを進め続ける。


次いで斧を大きく振り上げ、


地面へと力強く叩きつけた。


ドオオオオンッ!


地面が大きく弾け、


巨大な石の壁が地中から湧き上がるようにせり出してきた。


十メートル、


二十メートル、


三十メートルと高く伸び、


怪物の周囲をすっぽりと囲い込んだ。


土煙が辺り一面に立ち込め、


兵士たちは息を呑んでその光景を見守っていた。


「……すごい……」


「……これが師匠殿の力か……」


低い感嘆の声が漏れる。


怪物は怒りを込めて吠え、


体の無数の手が一斉に動き出し、


石の壁を激しく引っかき始めた。


バリバリバリッ!


深い亀裂が刻まれるが、


壁はなおも崩れずに耐えている。


ガルドロスは待つことなく、


自らが前へと飛び出した。


これは珍しいことだった。


普段はじっと防御に徹する彼が、


今回は——


先に攻撃を仕掛けに出たのだ。


ドオンッ!


石の斧が怪物の足の一つに直撃する。


地面が大きく揺れ、


骨が砕ける音が響き、


巨大な腕の一部がもぎ取られ、地に落ちた。


兵士たちは一斉に歓声を上げる。


「当たった!」


「師匠殿の攻撃が通ったぞ!」


だがその喜びも長くは続かなかった。


砕けて落ちた腕の破片が、再び動き始めたからだ。


黒い土が集まり、


新たな骨が生え、


わずか数秒も経たないうちに——


元通りの完全な姿に戻ってしまった。


歓声は一瞬で静まり返り、


一人の兵士が青ざめた声で呟く。


「……再生するのか……」


ガルドロスは瞳を細める。


「……厄介な相手だ」


次の瞬間、怪物が反撃に出る。


無数の手が一斉に襲いかかってきた。


ドンドンッ!


ガルドロスの背後の地面が砕け散るが、


岩の師匠は寸でのところで回避し、


斧を回転させながら、次々と攻撃を打ち砕いていく。


三本、


四本、


七本と、手を切り落としても——


またすぐに再生してしまう。


遠く離れた場所、


暗い丘の上では——


誰かがこの戦いを見守っていた。


レーゴルだ。


彼は大きな岩の上に立ち、


背後には四体の巨大な不死者が控えている。


燃えるような赤い瞳に、戦いの光が映り込んでいた。


レーゴルは口の端を歪めて笑う。


「……なかなかやるな」


「……もっと戦ってみせろ」


「……どこまで耐えられるのか、見せてもらおう」


背後の不死者の一体が低く吠えると、


レーゴルは振り返りもせず、冷たく言い放つ。


「黙れ」


その一言で、不死者はたちまち静まり返った。


さらに遠く、


南へ向かう道のりでは——


四人の師匠たちがなおも走り続けていた。


アキハラ、


リオーラ、


ケイリス、


セイラ。


突然、地面が大きく揺れた。


ケイリスは体勢を崩しかける。


「……またか」


セイラはすぐに南の方角を向き、


「……戦いが始まっている」


リオーラは杖を強く握り締め、


指先に小さな稲妻が走る。


「……ガルドロスが戦っている」


アキハラは何も答えなかったが、


足取りはさらに速まっていた。


それだけで十分な返事だった。


彼らはただ、走り続ける。


川を渡り、


丘を越え、


森を抜け、


休むことなく南へと向かっていく。


一方、


ムシャフ王国では——


戦いはまだ続いていた。


ガルドロスは斧を振るい、怪物の頭部へと叩き込む。


ドオオンッ!


頭部が砕け、


体の半分が崩れ落ち、


土煙が辺りを覆った。


兵士たちは再び歓声を上げるが、


このときばかりはガルドロスに喜ぶ余裕はなかった。


彼ははっきりと見ていたからだ。


砕けて落ちた体の破片が——


死ぬことなく、


動き、


はい回り、


集まり合い、


再び一つになっていく様子を。


彼の瞳が鋭く細まる。


「……そういう仕組みか」


この怪物は単に再生するだけではない。


体を分裂させ、


それぞれが新たに成長し、元に戻るのだ。


だがさらに悪い事態が起こる。


ドクン。


地面が震え、


ドクン。


再び、


ドクン——


前よりもはるかに強い振動が伝わってきた。


誰もが息を呑み、


怪物でさえ一瞬だけ動きを止める。


ガルドロスはゆっくりと視線を遠くの平野へと向けた。


はるか彼方、


夜の闇の向こう側——


そこには、


土の盛り上がりが一つ、


二つ、


五つ、


十、


そして次々と増えていく。


まるで何かが地中を這うように進み、


このムシャフ王国へと向かってくるかのようだった。


そしてその背後には——


地平線の彼方に、四体の巨大な不死者のシルエットがくっきりと浮かび上がっていた。


まるで動く山のように、


ゆっくりと、


だが止まることなく近づいてくる。


この夜、初めて——


ガルドロスの表情が、


真に厳しく、


警戒心に満ちたものへと変わった。


「……これは、侵攻だ」


夜風が吹き抜け、


土ぼこりを運び、


死のにおいを運んでくる。


そして彼の背後に広がる、


再建されたばかりのムシャフ王国は——


五年前に魔王が倒されて以来、最大の戦いの渦中へと、今まさに足を踏み入れようとしていた。

次回更新: 6月 14日 21:00」

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