第64話: 衝突前の痕跡
朝が昼へと移り変わり始めた。
空はまだどこか不穏な様子を見せていた。
先ほどまで浮かんでいた紫の亀裂はゆっくりと閉じつつあったが、その痕跡として薄い光が青空にかすれた傷のように残っていた。
そして、日ノ村から遠く離れた場所では――
四人の影が森を抜け、猛烈な速さで走り続けていた。
ヒュウウッ!
鋭い風が木々を裂き、
葉っぱたちが宙に舞い上がる。
先頭では――
カエリス・ヴェイラが手をかざした。
足元に風が渦巻き、
四人の足取りを驚くほど軽やかにしていく。
その後ろでは、セイラ・ルーネが小さな渓谷を渡る際、空中に薄い水の足場を生み出していた。
その隣では――
リオラ・ライゼンが指先から小さな稲妻の火花を散らしている。
攻撃のためではない。
ただ、身体の推進力を高めるためだ。
そして最後尾では――
アキハラが全体のリズムを整えていた。
足取りは落ち着き、
呼吸も乱れることはない。
だが――
その瞳だけは、わずかに様子が違っていた。
大きな岩を飛び越え、
川を渡り、
また別の森へと入っていく。
数分後――
カエリスは突然、大きな岩の上にどさりと身を投げ出した。
「……少し休もう」
「こんなに広い世界を作った奴に文句の一つも言いたいわ」
セイラは額の汗を拭きながら腰を下ろす。
「……大師たるお前が情けない」
「……少しは恥じなさい」
カエリスは自分の胸を指し示した。
「大師だって疲れる権利くらいあるだろう」
リオラはただ小さくため息をついた。
アキハラは黙って立ったまま、
木々を眺め、
空を見上げ――
気づけば、その視線がリオラへと移っていた。
数秒の間。
水筒で水を飲んでいたリオラはそれに気づき、
眉を上げる。
「……何か用か?」
アキハラは少しの間沈黙し、
柔らかな風が黒い髪をなびかせる。
やがて、小さな声で口を開いた。
「……すまない」
リオラは瞬きをする。
「……は?」
「……さっきのことだ」
「……炎のことだ」
一瞬、場が静まり返る。
リオラはじっと彼を見つめ、
少ししてからやっと意味を理解した。
ああ。
村での出来事のことか。
神の前で感情が高ぶり、
自分でも気づかないうちに炎の力が広がってしまった時のことだ。
リオラは数秒見つめ返した後、
ふいっと顔をそらした。
「……さっきも謝っていただろう」
アキハラは黙ったまま、
「……それでも、だ」
リオラは頬をかきながら、どこか落ち着かない様子を見せる。
なぜだか、少しだけ緊張していた。
「……それがお前のことなら――」
そこで言葉が止まり、
身体が固まる。
瞳がわずかに見開かれた。
「……え?」
横で横になっていたカエリスが片目を開け、
セイラも振り返る。
リオラは突然慌てだし、
「……いや、その、つまりだな……」
「……お前がそうなら……」
「……別に、気にしてない……」
沈黙。
沈黙。
瞬く間にリオラの顔が真っ赤に染まる。
「違う! そういう意味じゃない!」
「俺が言いたいのは――っ」
「ああもう!」
彼はぷいっと背中を向け、むくれた表情になる。
アキハラはその背中を見つめ、
数秒静かにした後――
ほんのわずかに、口元に笑みが浮かんだ。
とても小さな笑みだった。
カエリスは慌てて口元を押さえ、
肩が震え始める。
セイラも顔を伏せ、
同じように肩を震わせた。
「……お前たち、笑ってるだろ」
リオラがゆっくりと振り返り、
指先に小さな稲妻の気配が漂う。
「……笑ってるんだな?」
カエリス:
「……笑ってない」
セイラ:
「……笑ってないよ」
やがて――
旅は再開された。
一行は森を抜け、
目の前には広大な平原が広がっていた。
風になびく緑の草原、
小さな動物たちが慌てて逃げていく。
青空はどこまでも高く広がり、
遠くには雄大な山脈がそびえ立っている。
その遥か向こう側――
南の方角。
ムシャフ王国がある場所だ。
アキハラは前方を見据え、
瞳が再び鋭い真剣さを帯びていく。
彼の脳裏には、
ある名前が浮かんでいた。
ガルドロス。
彼らの仲間であり、
岩の大師である男。
ムシャフ王国。
あの地の空はこことは違っていた。
より暗く、
風は重く冷たい。
王国の城壁の上では――
ガルドロスが遠くを睨みつけながら立っていた。
その背後では――
兵士たちが戦いの準備を進めていた。
弓兵が城壁に上がり、
槍を持った歩兵が並び、
住民たちは避難を始めていた。
だが、辺りは不思議なほど静まり返っていた。
一人の若い兵士が近づき、
手をわずかに震わせながら問いかける。
「……大師殿」
「……我々は、勝てるのでしょうか?」
ガルドロスは長い間黙り込み、
視線を遠くから外すことなく、
低い声で答えた。
「……私にも分からない」
兵士はその言葉に凍りつく。
これまで、
岩の大師がこんな言葉を口にすることはなかった。
一度も。
一方、西方の地では――
冷たい風が岩の崖の間を吹き抜ける。
ズワが大きな岩の陰に身を潜め、
額から汗が滴り落ちる。
彼は前方を凝視していた。
遥か遠く――
二人の影が立っている。
アルギエルと、
レイラーだ。
レイラーは薄く笑みを浮かべる。
「奴ら、動き始めたようだな」
アルギエルは空を見上げ、
「……好きにさせておけ」
ズワは息を呑み、
瞳を大きく見開く。
「……彼らは、こちらのことを知っているのか……?」
さらに遠く離れた場所では――
ドスン。
ドスン。
ドスン。
大地が大きく揺れる。
四体の巨大な不死者がゆっくりと歩みを進め、
その足元にあった小さな丘は踏みつぶされ、
木々は次々と倒れていく。
そしてその先頭には――
一人の男が歩いていた。
レエゴル。
瞳は赤く燃え上がり、
顔は怒りに満ちている。
無言であっても、その圧力は周囲に満ちていた。
やがて、
彼は凶悪な笑みを浮かべた。
「……もっと速く」
「……何かを、打ち砕きたくてたまらない」
「次回更新: 6月 11日 21:00」




