第51話: 記憶に残っていない名前
エルフの国の空に、再び炎と雷が炸裂した。
かつてそびえ立っていたエルフたちの木造の家々が、
一つ、また一つと崩れ始める。
ドォーーーン!!
炎の爆発が石畳の道を襲い、
白い柱が砕け散り、
砂ぼこりが舞い上がる。
だが、その破壊の只中にあっても、
最も恐ろしいのは爆発そのものではなかった。
徐々にあらゆるものを飲み込んでいく、何もない空間こそが――。
音もなく、
形もなく、
ただ…
消えていく。
瓦礫の中、
アケディアは静かに立っていた。
その視線は、ただ一人の人物に注がれている。
不知火 明原。
「…お前、まだ生きていたのか」
その言葉が宙に浮かんだまま、
戦いが始まって以来初めて、
ケイリス・ヴェイラは真の意味で状況を理解した。
この化け物は――
明原のことを知っている。
単に名前や存在を知っているのではない。
心から知っているのだ。
ケイリスは目を細める。
彼女の杖の周りに、風が渦巻き始めた。
「…明原」
声は低く、重みを帯びていた。
「…お前は一体、何を隠しているの?」
リオラが素早く横目で彼を見る。
だが明原は答えない。
その視線はただ真っ直ぐ前を向き、
アケディアの姿を捉えたまま。
彼の周囲の炎はまだ燃え盛り、
迫り来る虚無の力を抑え込んでいた。
アケディアが再び動き出す。
一歩踏み出した――
その瞬間、彼の背後にあった世界がひび割れた。
エルフの家の壁が半分、忽然と姿を消す。
壊れたのではない。
まるで最初から、そこに存在していなかったかのように。
ケイリスが即座に手をかざす。
「北風よ!」
ヒュォォーーー!!
巨大な嵐が、何もない空間へと襲いかかる。
ほんの一瞬、
虚無の侵食が食い止められた。
その隙にリオラが突進する。
彼女の体が雷の閃光へと変わり、
ズドドォォッ!!
アケディアの正面に、その姿を現した。
雷をまとった蹴りが、彼の顔面を捉える。
青く眩い閃光の爆発が、辺りの瓦礫を吹き飛ばした。
アケディアの体は勢いよく弾き飛ばされ、既に壊れかかっていたエルフの家を貫く。
ドォーーーン!!
建物が崩壊し、
木片が辺り一面に飛び散る。
リオラは荒い息を吐きながら着地した。
「…まったく、いらつく相手だね」
だが、砂ぼこりが落ち着く前に、
アケディアは再びその姿を現した。
依然としてゆっくりと歩みを進め、
落ち着き払ったまま。
目立った傷などどこにもない。
強いて言えば、顔の側面にかすかな黒い痕が残っているだけだ。
「…うるさい」
「もっと他に言葉はないのか!?」
再び雷が空から降り注ぐ。
ケイリスは苛立ちのあまり、思わず笑い出しそうになった。
だが、それを許すには状況はあまりにも深刻だった。
明原が前へと進み出る。
彼の剣に宿る炎が、一気に大きく燃え上がった。
その瞬間、
アケディアの動きがぴたりと止まる。
彼の瞳が、その赤い炎の揺らめきをじっと見つめていた。
「…その炎は…」
その声は、わずかに震えるような調子に変わった。
「…まだ、生きているのか」
明原が一気に斬りかかる。
ヒュオォーーッ!!
巨大な炎が道を両断するように走る。
アケディアが手をかざすと、
そこに虚無の空間が生まれた。
だがこの時ばかりは、
明原の炎は消えることなく、
逆にその空間を押し返したのだ。
アケディアが一歩、後退する。
ほんのわずかな距離だったが、
その光景を目にしたケイリスは、ある事実に気づいた。
「…彼は――圧力を感じている…」
リオラが上空から急襲をかける。
雨のように無数の雷が降り注ぎ、
ケイリスは嵐を展開し、アケディアの動く道を完全に封じた。
そして明原が正面から切り込む。
三人の最強の術師たち。
それぞれ異なる三つの元素。
ただ一つの“虚無”を相手に、戦いを繰り広げる。
次々と起こる爆発が、エルフの国イェルヴァリスの領土の一部を破壊していく。
エルフたちの橋が崩れ落ち、
監視塔が根元から折れる。
それでも彼らは、立ち止まることなどできなかった。
なぜなら、一瞬でも動きを止めれば、
その間にアケディアはさらに多くのものを消し去ってしまうからだ。
ケイリスが危うく虚無に飲み込まれかける。
彼女の背後に、音もなく何もない空間が出現していたのだ。
明原が即座に彼女の腕を引いて救い出す。
「…集中しろ」
ケイリスは歯軋りし、怒りと焦りを押し殺す。
「…一体どんな化け物なのよ…」
リオラが雷を撃ち込みながら応える。
「…ようこそ、七大罪の世界へ」
ドォーーーン!!
雷が炸裂し、
炎が辺りを薙ぎ払い、
風があらゆるものを切り裂く。
そして戦いが始まって以来初めて、
アケディアが明らかに不快感を露わにした。
彼の体の一部が炎に焼かれ、
着ていた衣の袖はほとんど焼け落ちている。
彼は自分の体に燃え移った炎を、じっと見つめていた。
長い時間、ただ見つめたまま――
「…やはり本当だったのか…」
辺りが静まり返る。
明原が目を細め、鋭い視線を向ける。
「…何がだ?」
アケディアがゆっくりと彼を見る。
その何も映らない瞳は、
不思議なほどに重く、深いものだった。
「…お前は、同じ炎を持っている」
ケイリスが驚いて明原の方を向き、
リオラもその場に凍りつく。
「…誰と同じだっていうの?」
だがアケディアは答えない。
ただ無表情に手をかざすと、
周囲の虚無の空間が急速に広がり始めた。
地面が跡形もなく消え、
エルフの家々は次々とその姿を失い、
空までもがひび割れていくように感じられた。
ケイリスが最大限の力で嵐を起こし、
リオラがこれまでにないほど大きな雷を落とす。
そして明原は、
今まで以上に激しく大きな炎を解き放った。
真っ赤に燃える炎が巨大な壁となり、
世界を消し去ろうとする力を、その場で食い止めていた。
その遥か遠く――
壊れかかった小さなエルフの神殿の跡地で、
アエレル・アシア・シルファエルは、姉のそばに腰を下ろしていた。
エリンドラ・シルファエルは弱々しい呼吸を繰り返し、
黒い毒が今もなお、彼女の体中に広がり続けている。
アエレルは姉の手をしっかりと握りしめる。
「…お姉ちゃん…」
その声はわずかに震えていた。
「…昔、魔王の名前は本当にアルギエル・ルシフェルだったの?」
エリンドラは長い間、ただ黙っていた。
果てしないほど長い時間が過ぎ、
ゆっくりと彼女の瞳が開かれる。
「…わたしは…」
彼女は眉をひそめ、苦しそうな表情を浮かべる。
「…覚えていないの」
アエレルはその言葉に凍りつく。
「…え?」
エリンドラはゆっくりと自分の頭に手をあてる。
「…おかしいわね…」
「…わたし、その名前を知っているの…」
「…なのに…」
彼女は再び瞳を閉じ、
記憶の中を探るように呟く。
「…どうしてこんなに、何も残っていないのかしら…」
アエレルは静かに視線を落とした。
そして気づかぬうちに、
ある人物の姿が彼女の脳裏に浮かんでいた。
黒い衣をまとった一人の男。
圧倒的で強大な気配を持ち、
瞳は冷たいながらも、どこか落ち着き払っていた。
そのそばには、小さな女の子が寄り添っていた――。
「…レイジ…」
名前が、ぽつりとこぼれる。
レイジ・レン――。
アエレルは自分の頭を押さえ、混乱する記憶を整理しようとする。
「…彼に会ったことがあるの…」
「…でも、どこで…」
「…いつのことだったかしら…」
どうしても思い出せない。
だが、ただ一つだけはっきりと感じることがあった。
レイジの持つ気配と、
アケディアの持つ気配には、
どこか同じものがある――。
“何もない”という共通点。
だがそれでも決定的に違っていた。
レイジの中には“命”が感じられた。
一方のアケディアからは、
“命そのものの終わり”が、感じられたのだ。
遥か彼方の戦場では、
再び大きな爆発がエルフの国を揺るがし、
明原の炎だけが、今もなお燃え続け、この世のものとは思えない虚無の力と、ただ一人戦い続けていた。
「次回更新: 5月 27日 21:00」




