第52話: 埋められないギャップ
冷たい風が、エルフの国の廃墟を吹き抜ける。
炎。
雷。
嵐。
そして虚無。
崩壊の進むイェルヴァリス・エルフ王国の空の上で、それら全てが一つに交ざり合っていた。
エルフたちの家々は燃え、
白い柱はひび割れ、
かつて魔力に満ちていた聖なる木々は、今や枯れ木のようにしおれ果てている。
だが、その破壊の只中で――
ただ一人、静かに腰を下ろす者がいた。
高くそびえるエルフの塔の残骸の上に。
足をだらりと組み、
眼下の戦場へと視線を向けて。
アルゼン。
彼の髪が風にゆっくりとなびき、
口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「…まだまだ弱いな」
その声には、あからさまな侮蔑の色が込められていた。
彼の瞳は、ただ一つの存在に、他よりも長く注がれていた。
明原。
「…だが、少しだけ違う」
興味は引かれていた。
だが、動くことはない。
まだ、その時ではない。
眼下では、
戦いがなおも続いていた。
ズドドォォォッ!!
黄金の雷が大地を打ち、
大きな爆発が石畳の道を両断する。
リオラ・ライゼンが光の閃光のように素早く駆け抜け、
その背後からは、
ケイリス・ヴェイラが巨大な嵐を解き放っていた。
「左へ!」
リオラが即座に風の流れに乗り、
新たに出現した虚無の空間へ向けて、雷を撃ち込む。
その瞬間を狙って、
明原の炎が正面から襲いかかる。
ヒュォォーーッ!!
真っ赤に輝く爆発が、アケディアをわずかに後退させた。
ケイリスがすぐに状況を理解する。
「…私たち、少しずつ動きが読めてきてる!」
明原が短く頷く。
「…隙を与えるな」
二人の連携は次第に完璧になっていく。
ケイリスが風の流れを操って軌道を制御し、
リオラが死角を狙って攻撃を仕掛け、
明原が空間を守り、世界が消し去られるのを食い止める。
ほんの一瞬、
彼らは本当にこの化け物と互角に戦えているように見えた。
リオラなどは、思わず口元をゆがめて笑うほどだった。
「…やっとまともな戦いになってきたじゃない」
だが――
アケディアが、動きをぴたりと止めた。
無言のまま。
あまりにも静かに。
ケイリスが目を細める。
「…なぜ止まったの…」
アケディアがゆっくりと顔を上げる。
その瞳は依然として何も映していない。
だがこの時ばかりは、
その様子にわずかな違いが生まれていた。
「…あきた」
そして突然――
彼の姿が消えた。
ケイリスの目が大きく見開かれる。
「…っ!?」
気配もなく、
力の波動もなく、
何の予兆もなかった。
次の瞬間――
ドォォォーーン!!
横から放たれた蹴りが、ケイリスの体を強打する。
骨の砕ける音が、はっきりと響き渡った。
ケイリスの体は凄まじい勢いで弾き飛ばされ、二軒分のエルフの家をまとめて貫いた。
瓦礫と木片が辺りに飛び散り、
彼女の杖は手元から離れ、
鮮血が宙へと舞い上がる。
「ヴェイラ!!」
リオラが即座に叫び声を上げる。
瞳は恐怖で大きく開かれ、
ケイリスはその場に倒れたまま、ピクリとも動かない。
意識を失っていた。
明原は瞬く間に状況を把握する。
彼らの連携は、完全に崩れ去った。
そしてアケディアは――
既に廃墟の真ん中に再び立っていた。
まるで何もしていなかったかのように、涼しい顔で。
「…おそい」
リオラの中で怒りが爆発する。
彼女の周囲で雷が荒れ狂うように炸裂した。
「…この野郎!!」
ズドドォォォォッ!!
空から無数の雷が連続して降り注ぎ、
大地を砕き、
塔を崩壊させる。
明原もすぐに前へと踏み出し、
彼の剣に宿る紅き炎が、一気に大きく広がった。
今や彼らに戦略など存在しなかった。
ただ隙間なく、
ただ手加減なく、
二人の最強術師は、アケディアを挟み撃ちにする。
ドォーーーン!!
炎と雷が、虚無と激しく衝突する。
轟音が次々と響き渡り、地域全体が激しく揺れ動いた。
アケディアの動きが、一気に加速する。
防御するだけではない。
今度は彼自身が反撃を始めたのだ。
手を一振りするだけで、
エルフの建物の半分が跡形もなく消え去る。
リオラが危うく直撃するところを、
明原が間一髪で彼女を引き寄せる。
「…集中しろ!」
「てめぇ、今が本気だっていうのか!?」
リオラは歯軋りし、
冷や汗が頬を伝って流れ落ちる。
アケディアが明原の眼前に出現する。
速い。
あまりにも速い。
だがこの瞬間――
明原は、その動きの“間合い”を捉えていた。
剣先から炎が一気に噴き出す。
シュオォォーーッ!!
燃え盛る剣が、アケディアの右腕を切り裂いた。
切断される。
黒い体がわずかに後退した。
リオラの瞳が見開かれる。
「…やった…」
戦いが始まって以来初めて、
アケディアの動きが完全に止まった。
彼の腕が地面に落ち、
炎に包まれて燃え尽きていく。
明原が即座に叫ぶ。
「…今だ!」
だが――
その黒い肉塊が、ゆっくりと蠢き始める。
中から骨が浮かび上がり、
皮膚が瞬く間に再生され、形を取り戻す。
ほんの数秒のうちに、
彼の右腕は完全に元通りになっていた。
辺りが静まり返る。
リオラは思わず後ずさり、言葉を失う。
「…はぁ…?」
明原が鋭い視線を向ける。
「…再生能力…」
アケディアは自分の腕を眺めながら、
「…めんどうだ」
それだけ呟くと、再びゆっくりと歩き始める。
まるで何事もなかったかのように。
その姿は、何よりも恐ろしかった。
リオラの呼吸は荒くなり、体力の限界が近づく。
彼女の放つ雷も、徐々に弱まっていく。
明原もまた、己の内なる炎を失いつつあった。
ケイリスは未だに意識を取り戻さない。
そしてアケディアは――
悠然と立ち続けていた。
目立った傷一つなく、
疲れも見せずに。
やがて彼の瞳が、背後に広がる森の方へと向けられる。
アエレル・アシア・シルファエルが身を潜めている場所――
彼はそちらへ向かって歩き始めた。
ゆっくりと、
落ち着き払った足取りで。
だが、その一歩一歩が、大地を存在ごと消し去っていく。
明原は何とか立ち上がろうとするが、
体は激しく震え、思うように力が入らない。
「…行かせるものか…」
リオラもまた、無理やり体を起こす。
手のひらからは、かすかな小さな雷が辛うじて漏れ出ていた。
だが二人とも、あまりにも遅すぎる。
廃墟の遥か上空では、
アルゼンが薄い笑みを浮かべていた。
「…やっと終わりか」
だが――
アケディアが突然、動きを止めた。
ぴたりと、
まるで何か呼ばれる声を聞いたかのように。
無表情だった彼の顔が、わずかに歪む。
そしてすぐに、
再び無関心でだるそうな色へと戻った。
「…わかったよ…」
彼は体の向きを変えると、
そのまま立ち去り始めた。
あっけなく、何もなかったかのように。
リオラはその場に凍りつく。
「…はぁ…?」
明原もまた、言葉を失って立ち尽くす。
状況がまったく理解できなかった。
アケディアは何も説明せず、
こちらを振り返ることもなく、
エルフの国の廃墟をあとに歩いていく。
その背中が遠ざかるほどに、世界は冷たさを増していくようだった。
高みから見守っていたアルゼンは、
次第に笑みを消していく。
「…呼び出しか、まったく」
その声には、わずかな不機嫌さが混ざっていた。
だがすぐに彼の瞳は、再び明原の姿へと向けられる。
長い時間、じっと見つめ続け――
「…面白い、奴だ」
そう呟くと、彼自身も闇の中へと姿を消した。
遥か南。
ムシャフ王国にて。
至る所から、復興の作業音が聞こえてくる。
かつて破壊された城壁が、今や少しずつ建て直されていた。
兵士たちが石を運び、
僧侶たちが包帯を持って負傷者のもとを歩き、
そして王国の城壁の上では、
紫の髪をした少女が一人、静かに立っていた。
ズワ。
彼女の瞳は、遥か北の空を見つめている。
柔らかな風が、彼女の髪をゆっくりとなびかせた。
「…おかしいな…」
彼女は小さく呟く。
記憶の中では、
かつて魔王は遥か北の地に、大きな王国を築いていたはずだ。
アンデッドで溢れ、
魔王直属の将軍たちが集い、
雪一面を覆い尽くすほどの大軍勢がいた――。
だが今では、
その記憶はどこかぼやけて曖昧になり、
その代わりに姿を現したのは、
“七大罪”と呼ばれる存在たちだけだった。
かつての将軍ではない。
昔の軍隊でもない。
ズワは目を細め、疑問を口にする。
「…どうして…」
「…私たちの記憶、少しずつ狂い始めているの…?」
夜風が絶え間なく吹き続け、
遥か北の大地では、
何かがゆっくりと、世界の姿を変え始めていた。
「次回更新: 5月 29日 21:00」




