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第34話: 目に見えない亀裂

水は本来、心を鎮めてくれるものだ。


だが、この日ばかりは——水はもはや穏やかではなかった。


アクアリス・ルミナーラ王国。いつもなら柔らかく響く水の音は、今や怒号と入り混じっていた。


「この泥棒め!!」


「俺は何も盗んでない!!」


「嘘をつけ!!」


水しぶきが荒れ狂う。それは意図された魔法のせいではない——制御を失った感情の爆発だった。


大通りの真ん中では、二人の男が掴み合い、仲裁に入ろうとした女までもが、いつの間にか怒りに呑み込まれていく。


理屈もなければ、理由もない。


ただ、心の内側から腐り始めた感情だけがあった。


城壁の上。


一人の少女が、ただじっと立っていた。


セイラ・ルイネ。


普段は穏やかなその瞳には、今、深い動揺の色が浮かんでいる。


「…どうして…」


彼女は下を見下ろす。


かつては助け合い、分け隔てなく暮らしていた民たちが——今では互いを疑い、傷つけ合っている。


「…こんなの、理不尽だわ…」


セイラは身を躍らせ、城壁から飛び降りる。


足元に水が流れ、彼女を柔らかく受け止め、群衆の真ん中へと降り立たせた。


「やめなさい!!」


彼女の手が動くと、水の壁が現れ、人々の間を割って隔てる。


今にも殴りかかろうとしていた男たちを、力ずくで引き離した。


「…セイラ様…」


一人の男が、彼女を見上げる。


だが——


その視線は、次の瞬間にはトゲのあるものへと変わっていた。


「…なぜ、今頃来たの?」


セイラは言葉を詰まらせる。


「…私は…」


「もっと早く来てくれれば…こんなことにはならなかったのに」


別の声が重なる。


「そうだよ…彼女はグランドマスターなんでしょ?」


「なら、これくらい簡単に止められるはずだ」


セイラは一歩、後ずさる。


「…え…?」


胸が締め付けられるように痛い。


「…私は…一生懸命、やってるのに…」


だが、非難の声は止まらない。


数は増え、重なり合い——


彼女の心へと押し寄せる。


「…全然、足りない…」


「…お前なんか、役立たずだ…」


セイラが歯を食いしばる。


周囲の水が激しく振動する。


だが、それは攻撃のためではない。


彼女自身の心——そのものが、揺らぎ始めていたのだ。


城壁の上。


その光景を、一人の男が眺めていた。


口元には、薄ら笑いを浮かべて。


ヴァイアー。


「…美しい…」


「…実に、見事なものだ」


彼の瞳が輝く。


それは喜びの光ではない。


誰かの不幸を前にした、冷たい満足感だった。


「…指一本触れなくても…」


「…奴らは自滅していく…」


彼はゆっくりと手をかざす。


魔力など、込められてはいない。


だが、空気だけが重く濁っていく。


人々の心の囁きが——


まるで耳元で囁くように、大きくなる。


セイラが両手で耳を塞ぐ。


「…やめて…」


「…やめてえええ!!」


周囲の水が一気に弾け飛んだ。


大きな波紋が道を覆う。


だが、それは攻撃ではない。


人々を遠ざけ、自分の周りを守るための——防波壁だった。


肩で息をしながら、セイラは呟く。


「…私には…」


「…全部を救うなんて、無理なの…」


その言葉は、無意識のうちに零れ落ちた。


遠く城壁の上で——


ヴァイアーが低く笑った。


「…ようやく、か」


彼はゆっくりと城壁を下り、地面へと降り立つ。


足取りは遅いが、その一歩一歩が、周囲の空気を押し潰すような重さを帯びている。


セイラがゆっくりと顔を上げる。


二人の視線が、激しくぶつかる。


「…貴様…」


ヴァイアーが足を止める。


「…ようやく、理解したようだな?」


セイラは彼を睨みつける。


「…これ全部…貴方が…」


ヴァイアーは首を傾げ、肩をすくめる。


「…俺が?」


「俺はただ、彼らの中に元からあったものを——見せてやっただけだ」


彼は、混乱する人々の方を指し示す。


「…妬み…」


「…不満…」


「…小さな憎しみ…」


「…全部、最初から彼らの中に眠っていたものさ」


「俺はただ——少し、手助けしてやっただけだ」


セイラは拳を握りしめる。


「…それは、手助けなんかじゃない…」


「…それは、破滅への道だわ」


ヴァイアーは再び笑う。


「…どっちも同じさ…」


「…破滅と救いなんて、紙一重なんだからな」




その頃——王国から遠く離れた場所。


夜空の下を、二人の人物が歩いていた。


二人の間には、小さな火の玉がゆらゆらと浮かんでいる。


不知火 明原シラヌイ・アキハラ


そして——


リオラ・ライゼン。


辺りはしんと静まり返っていた。


あまりにも、静かすぎる。


リオラが、チラリと横にいるアキハラを見る。


そして、慌てて視線を逸らした。


頬が、わずかに熱くなっている。


「…ねえ」


アキハラが振り向く。


「ん?」


リオラは口を開けかけて——


やはり、閉じてしまう。


「…なんでもない」


アキハラが眉をひそめる。


「何だよ?言えよ」


リオラは意を決したように息を吸う。


「…覚えてる?…ムシャフでのこと…」


アキハラは少し考える素振りを見せる。


「…どれのことだ?」


リオラがパッと顔を上げ、鋭い目で睨む。


「…この間!!私たち、付き合ってるって…言ったじゃない!!」


沈黙。


アキハラがパチパチと瞬きをする。


「…ああ…」


「…それか」


リオラがさらに迫る。


「…それ!!」


アキハラは後頭部をガリガリと掻く。


「…だって、あの時は緊急事態だったし…」


「…つまり、適当に言ったの?」


「…まあ、な」


再びの沈黙。


リオラがうつむく。


「…バカ…」


声は小さいが、はっきりと届いている。


アキハラが、ふっと笑う。


「…まずいのか?」


その一言が——


リオラの体を凍らせた。


「…違う…」


「…私は、ただ…」


言葉は続かない。


心臓だけが、うるさいくらいに高鳴っている。


「…忘れて」


アキハラは彼女の横顔を見つめる。


そして、初めて気づいた。


自分の中にある、この奇妙な感情が——


何なのか、今はっきりと分かった。


だが、彼は何も言わない。


「…悪かった」


リオラがまたチラリと見上げる。


「…謝らなくていい…」


またうつむき、声は蚊の鳴くように小さくなる。


「…私だって…別に…嫌じゃない…し…」


沈黙。


今度はアキハラが固まる番だった。


「…は?」


「だから!忘れろって言ってるの!!」


バチッ!


二人の間に、小さな稲妻が走る。


アキハラが声を立てて笑う。


「…分かった、分かった」


だが、その笑顔は——


いつもとは違って、どこか柔らかく、温かいものだった。


突然。


リオラが足を止める。


「…感じる?」


アキハラの表情が、一瞬で真剣なものへと変わる。


「…ああ」


空気が重い。


魔力の重さではない。


もっと、根源的な——


心を掻きむしるような、不快な重圧だ。


「…感情が…」


「…めちゃくちゃに乱れてる」


リオラが歯ぎしりをする。


「…ヒノムラの時より、ひどい…」


アキハラは、北東の空を睨みつける。


「…急ぐぞ」


言葉はない。


二人は一斉に走り出す。




王国へと戻る。


セイラは、混乱の真っ只中に立っていた。


手は震え、周囲の水は制御を失い、不安定に渦巻いている。


「…私は…」


「…強くならなきゃ…」


だが、その声は自分でも呆れるほどに弱々しい。


ヴァイアーが、たった数歩の距離まで迫っていた。


「…自分に言い聞かせているのか?」


セイラが彼を見上げる。


「…私は、諦めない!」


ヴァイアーはゆっくりと頷く。


「…ああ、勿論だ」


「…その根性こそが、実に面白い」


彼はさらに一歩、近づく。


「…そうやって踏ん張れば踏ん張るほど…」


「…お前が崩れ落ちる時の絶望は、深くなるのだからな」


セイラが手を掲げ、水の刃を作ろうとする。


だが——


「たすけてえええ!!」


悲痛な叫び声が響いた。


セイラが反射的に振り返る。


群衆に踏まれそうになっている子供がいる。


彼女は即座に水を操り、子供を救い上げる。


だが、その一瞬の隙に——


ヴァイアーの姿は、もはやそこにはなかった。


「…!」


背後から、気配がする。


「…見たか?」


「…お前は、何もかもを守ることなど出来はしないのだ」


言葉が——


どんな刃よりも鋭く、セイラの心を突き刺す。


彼女はその場にへたり込む。


「…もう…やめて…」


「…お願い…これ以上…」


周囲の水が、力を失ってバラバラと地面に落ちていく。


もはや、制御することも——立ち上がることさえも、困難だった。


ヴァイアーは無表情に彼女を見下ろす。


「…もうすぐだ…」


「…お前も、完全に壊れる」


だが——その時。


遠くの空が、突然に輝いた。


稲妻の閃光。


そして、燃え盛る炎の光。


セイラがゆっくりと顔を上げる。


その瞳が、わずかに見開かれる。


「…それは…」


ヴァイアーもまた、そちらへと顔を向けた。


初めて——彼の笑顔が、わずかに歪む。


「…ほう…」


「…ようやく、奴らが来たか」


風が吹き荒れる。


地平線の彼方から——


二人の影が迫ってくる。


一人は炎を纏い。


一人は雷を操り。


彼らは破滅へと向かう。


だがそれは同時に——


わずかな、希望の光でもあったのだ。

「次回更新: 5月 7日 20:20」

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