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第35話: 希望がほとんど溺れそうになったとき

いつもは清らかな水が…今、震えている。


風のせいではない。


魔法のせいでもない。


それは――人間のせいだ。


アクアリス・ルミナラ王国において、混乱はもはや「事件」と呼べるレベルを超えていた。


これは単なる騒動などではない。


これは――破滅だ。


「俺に近づくな!!」


男が別の男を突き飛ばし、池の中へと倒れ込ませる。


水しぶきが辺り一面に飛び散る。


「テメェが先に手を出したんだろうが!」


「俺はただ真実を言ったまでだ!」


城の一角では。


一人の母親が我が子を抱き寄せ、群衆から遠ざけようとしていた。


だが、その母の瞳さえも、疑念の色に濁っている。


誰も他人を信じてはいない。


誰もが満たされず、飢えている。


そして誰も――その理由にすら気づいてはいないのだ。


そんな混沌の真っ只中。


一人の少女が、ただ静かに立っていた。


無言で。


だが彼女を取り巻く世界は、確実に崩壊しつつあった。


セイラ・ルネ。


彼女の手が、微かに震えている。


周囲の水も、それに呼応するように不安定に波打っていた。


「…落ち着いて…」


自らに言い聞かせるように、ゆっくりと息を吸い込む。


「…彼らはただ…パニックになっているだけ…」


だがその言葉は、虚しく宙に消える。


「なぜこれを止めないんだ!」


背後から、怒号が飛んできた。


セイラが振り返ると、そこには怒りに燃える男の姿があった。


「お前がグランドマスターなんだろうが!」


「このくらい、止められるだろうが!」


セイラは口を開く。


「…私は…」


しかし、言葉は途中で詰まってしまう。


「俺の店が潰れたんだ!」


「俺の子供が怪我をした!」


「お前は一体どこにいたんだ!」


非難の声が、次から次へと湧き起こる。


そして――


それらは一つになり、嵐へと変わった。


セイラは一歩、後ずさる。


胸が締め付けられるように痛い。


「…私は…ここに…」


「…一生懸命、やっているのに…」


だが、誰も耳を貸そうとはしない。


あるいは――


聞く気がないだけなのかもしれない。


周囲の水が、激しく、激しく振動し始める。


もはや穏やかさはなく。


従順さも、消え失せていた。


「…どうして…」


瞳が、涙で滲む。


「…なぜ、こんなことに…」


城壁の上。


そこには一人の人物が佇んでいた。


眼前の惨劇を、冷徹なまでに見下ろしている。


その表情は――どこか満足げだ。


ヴァイア。


「…ふっ…」


「…実に、美しい光景だ」


彼の視線が、ゆっくりと街を舐めるように移動する。


破壊。


怒り。


嫉妬。


「…もはや、俺の手を借りる必要すらないようだな」


彼はゆっくりと、壁から降り立つ。


足取りは軽やかだが、その一歩一歩が、周囲の空気すら押し潰すような重圧を帯びていた。


下方では、セイラが再び試みていた。


水が渦を巻き、衝突する二つの集団の間へと割って入る。


「やめなさい!」


だが――


「邪魔するな!」


一人の男が、その水の壁を拳で打ち払おうとする。


まるで、彼女の守護そのものを拒絶するかのように。


「…なぜ…」


セイラは呆然と立ち尽くす。


「…どうして…」


その背後に、ヴァイアが現れた。


「…理由は簡単だ。彼らは救われることを望んではいないのだ」


セイラの身体が凍る。


振り返りはしない。


だが、その気配だけで――全てを理解した。


「…貴様…」


ヴァイアが更に近づく。


「…少しずつ、分かってきたようだな」


セイラは歯を食いしばる。


「…これは全部、貴様の仕業だな…」


ヴァイアは薄く笑う。


「私はただ、彼らの中にあるものを引き出したまでだ」


彼は指をさし、混乱する人々を示す。


「…妬み…」


「…不満…」


「…自分だけが損をしているという思い…」


「…そんなものは、最初から彼らの心の中に存在していた」


「私はただ…その扉を開けてやったに過ぎん」


セイラはうつむく。


「…それは真実なんかじゃない…」


「…それはただの…操作だ…」


ヴァイアが低く笑う。


「…その境界線は、実に曖昧なものだぞ」


その瞬間。


セイラの視界に、奇妙なものが映った。


それは――自分自身の幻影。


だが、その姿は。


今の自分よりも、ずっと弱々しく。


絶望に打ちひしがれていた。


「…私は…失敗したんだ…」


その声は、外から聞こえるのではない。


自分自身の心の奥底から、湧き上がってくる声だった。


見えるのだ。


傷つき倒れる人々の姿が。


泣き叫ぶ子供たちの姿が。


崩れ落ちる建物の姿が。


全てが――


私が遅れたせいだ。


私が弱かったせいだ。


「…もっと強ければ…」


「…こんなことには、ならなかったのに…」


ヴァイアはただ、静かにそれを見ている。


「…よろしい…」


「…その調子だ…」


セイラは両手で頭を抱える。


「…やめて…」


「…こんなの、見たくない…」


だが幻影は消えない。


むしろ、その姿は鮮明になっていくばかりだ。


「…お前は足りない…」


「…いつだって、足りないままだ…」


周囲の水が、制御不能なまでに荒れ狂う。


もはや、彼女の意思など無視している。


「…私なんていなければ…」


「…この街は、もっと上手くいくのかもしれない…」


その言葉は――


無意識のうちに、口から零れ落ちていた。


ヴァイアが、すぐ側まで歩み寄る。


「…名案だな」


その声は、甘く、そして冷たい。


「…ようやく、正しい思考に辿り着いたようだ」


セイラは動かない。


瞳は虚ろに、一点を見つめたまま。


「…私…」


力なく垂れ下がった手。


彼女を中心に渦巻いていた水が、音を立てて崩れ落ちる。


街の混乱は極まり、叫び声はより大きくなる。


あちこちで火の手が上がり始めた。


そしてセイラは――


ただ、その中心に立ち尽くしているだけだった。


「…これで、終わりだ」


ヴァイアが、彼女の真正面に立つ。


「…お前のような者が、守り手など務まるはずもなかったのだ」


「お前はただ、滅びの足を引っ張っていたに過ぎん」


セイラは答えない。


ただ地面を見つめ、その身体は――まさに崩れ落ちようとしていた。


その時だった。


一人の子供が、セイラのすぐ近くでよろめき倒れた。


「きゃっ!!」


押し寄せる群衆に、踏みつけられようとする瞬間。


セイラの瞳が、その姿を捉えた。


時間が、ゆっくりと流れる。


「…私は…」


反射的に、手が動いた。


水が鋭い矢のように走り、子供を柔らかく包み込み、安全な場所へと運ぶ。


救われた。


セイラは肩で息をする。


虚ろだった瞳に、再び光が戻り始めていた。


「…私は…まだ…」


「…ここに…いる…」


ヴァイアがその様子を眺める。


表情は変わらない。


「…面白くなってきたな」


だが彼は退かない。


むしろ――


ゆっくりと、片手を掲げる。


その瞬間。


街全体が、地鳴りのように揺れた。


人々の負の感情が、一つの塊となって弾け飛ぶ。


「お前が悪いんだ!」


「俺は知らない!」


「死んでしまえ!」


完全なる無秩序。


セイラは耳をふさぐ。


「…もう…やめて…」


「…やめてくれ――!!」


再び水を操ろうと、両手をかざす。


巨大な水の壁が出現する。


だが――


その壁は、ガタガタと揺らぎ。


安定することなく。


そして――弾け、砕け散った。


セイラはその場にひざまずく。


「…駄目だ…」


「…私には、もう…無理だ…」


静寂。


あれほどの騒音の中で、一瞬だけ、世界が音を失ったかのようだった。


セイラの耳には、ただ一つの声が響いている。


「…足りない…」


「…何もかも、足りない…」


その時。


風向きが変わった。


空気が震え、肌が粟立つ。


何かが――来る。


遥か彼方から。


セイラがゆっくりと顔を上げる。


かすんだ視界の先。


そこに見えたものは。


地平線の彼方。


稲妻の閃光。


そして――


焔。


微かだが、確かにそこに在る。


「…?」


ヴァイアが、そちらへと顔を向ける。


初めて――その瞳が僅かに細められた。


「…ほう…」


再び、あの笑みが浮かぶ。


「…ようやく、来たか」


遠くから。


二人の影が、風を切り裂きながらこちらへと迫ってくる。


一人は紅蓮の炎を纏い。


もう一人は、稲妻の如き速さで。


破滅へと向かうこの街へ。


セイラはその姿を見つめる。


消えかけていた彼女の瞳に――


再び、一筋の火が灯った。

「次回更新: 5月 8日 20:20」

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