第33話: 火のない嫉妬
その日の空は、あまりにも晴れていた。
何かが崩れ落ちようとしているにしては——あまりにも。
人里離れた石畳の道を、一人の男がゆっくりと歩いていた。
足取りは軽やかだ。
だが、その一歩一歩が、どこか間違っているように感じられる。
彼とすれ違った人々は、最初は何も気づかない。
だが、通り過ぎた瞬間——
得体の知れない感情が湧き上がる。
居心地が悪い。
苛立たしい。
何かが——満たされない。
男は薄く笑った。
その瞳は深い緑色。
空虚でありながら、危険な何かで満たされている。
ヴァイアー。
「…なぜ、彼らは…」
彼は低く呟いた。
目の前には、夫婦が寄り添い、小声で笑いながら歩いている。
ありふれた、穏やかな幸せ。
ヴァイアーの視線が変わった。
「…それを、持っている?」
彼は彼らに触れもしなければ、攻撃もしない。
何も——していない。
だが——
女が突然立ち止まった。
「…今、何て言ったの?」
男は眉をひそめる。
「は?何も言ってないぞ?」
「…嘘よ」
女の声音が変わる。
「…絶対に、何か言ったわ」
「え?本当に言ってな——」
「嘘をつかないで!!」
声が鋭くなる。
周囲の人々が振り返る。
男も苛立ちを隠せない様子だ。
「だから、言ってないと言ってるだろ!」
「…あなた、変わったわ…」
「…昔からそうだったけど…」
争いは——理由もなく、きっかけもなく、ただ大きくなっていく。
ヴァイアーは彼らの横を通り過ぎる。
振り返りもせず。
だが、その口元は——少しだけ、より大きく歪んだ。
「…単純なことだ」
数時間後。
穏やかな水に囲まれた王国が、遠くに見えてきた。
巨大な城壁がそびえ立ち、その下を広大な堀の水が流れている。
太陽の光が水面に反射し、美しく輝いていた。
アクアリス・ルミナーラ。
高い城壁の上。
一人の少女が、遥か彼方の地平線を眺めていた。
長い髪を束ね、瞳は穏やかだが、どこか確信に満ちている。
セイラ・ルイネ。
彼女は静かにため息をついた。
「…静かね…」
だが、眉根がわずかに寄る。
「…あまりにも、静かすぎる」
一人の衛兵が近づいてきた。
「セイラ様、東側の巡回は完了いたしました」
セイラは柔らかく微笑んだ。
「ご苦労様。少し休憩してちょうだい」
衛兵が一礼して去ると、彼女は再び遠くを見つめる。
「…何だか…」
目を閉じ、感覚を研ぎ澄ます。
「…何かが、近づいているような気がするの」
城下では、人々がいつものように暮らしていた。
子供たちが走り回り、商人たちが声を上げ、笑い声が響く。
温かく、生き生きとした世界。
だが——ゆっくりと、何かが変わり始めていた。
一人の商人が、隣の店を睨む。
「…なぜ、あいつの方が売れるんだ…」
主婦が隣人を見て、ふと思う。
「…なぜ、あの人ばっかり幸せそうなの…」
男は拳を握りしめる。
「…俺だって、こんなに働いてるのに…」
「…なぜ、俺じゃないんだ?」
小さな声が、囁きが——
静かに、だが確実に——
増えていく。
セイラがハッと目を開けた。
その感覚は確かだ。
「…皆の心が…」
「…不安定になっている…」
彼女は急いで城壁を下り、街へと向かう。
大通りの真ん中では、二人の男が掴み合いになろうとしていた。
「…やめなさい!」
セイラの手が動くと、周囲の水が素早く集まり、二人の間を割って隔てる。
「落ち着いて!一体どうしたの?」
男たちは押し黙った。
だが、その瞳には——
依然として、激しい怒りが宿っている。
「…俺は…」
「…俺も、自分でも分からないんだ…」
セイラの体が凍る。
「…これは…偶然なんかじゃない…」
城門の外。
ヴァイアーが佇んでいた。
美しい街並みを眺め、その口元にゆっくりと笑みが浮かぶ。
「…実に、美しい光景だ…」
「だが——それが、気に入らない」
彼は一歩、踏み出した。
誰も彼を止める者はなく、誰も彼に気づく者もない。
だが、彼が門をくぐった瞬間——
空気が変わった。
重苦しく、そして——より不安定に。
セイラが勢いよく振り返る。
その視線は、一点を捉えて離さない。
「…あなたは…」
ヴァイアーが足を止め、彼女を見る。
そして、再び薄く笑った。
「…やっと、会えたな」
セイラは身構える。
「…あなたは、一体何者?」
ヴァイアーは首を傾げた。
「俺か?」
「俺はただの人間だ…」
「…他人の幸せが、どうしようもなく嫌いな、ただの人間さ」
沈黙。
空気が、さらに重くなる。
セイラが手をかざすと、周囲の水が刃のように形を成す。
「…ここから立ち去りなさい」
ヴァイアーはくつくつと笑った。
「…嫌だと言ったら?」
水の刃が、一気に飛ぶ。
ヒュウウウッ!!
だが——
ヴァイアーは避けもしない。
水は彼の目前——
数センチのところで、ぴたりと止まった。
セイラが凍る。
「…なぜ…?」
ヴァイアーがゆっくりと歩み寄る。
「貴様は彼らを守ろうとする…」
「だがな、彼らは貴様のことなど、何とも思っちゃいない」
周囲から、再び囁きが聞こえ始める。
「…そうだ…」
「…なぜ、あの人だけ褒められるの…」
「…俺だって、できる…」
人々が集まってくる。
だが、彼らはセイラを助けるのではない。
ただ、お互いを——
疑い、妬み、睨みつけている。
セイラが焦る。
「やめて!これは本当のあなた達じゃない!」
だが、誰の耳にも届かない。
ヴァイアーが愉悦に満ちた声で言う。
「…見ろ?」
「俺は指一本触れてもいないんだぜ?」
街は混乱に包まれた。
叫び声が響き、人々は押し合い、罵り合う。
セイラは歯ぎしりする。
「…こんなこと、許さない!」
再び攻撃しようとするが——
躊躇いが生まれる。
力を込めれば、巻き添えになる人が出る。
彼女はただ、守ることしかできない。
「…これは…」
「…ただの戦いじゃない…」
ヴァイアーは彼女の横を通り過ぎながら、冷ややかに告げる。
「…これが、現実というものだ」
彼は城壁へと上り、崩れ始めた街を見下ろす。
その笑みは限界まで広がった。
「…これからだ…」
「…あとは、彼ら自身で互いを滅ぼすがいい」
セイラが彼を見上げる。
その瞳は、もはや穏やかさだけではない。
鋭く、強い決意に燃えている。
「…私は、絶対に許さない」
ヴァイアーがわずかに振り返る。
「…ならば、やってみろ」
一歩。
ただそれだけで——彼の姿は闇に消えた。
だが、その影響だけは——
街に残り、さらに大きく広がろうとしていた。
セイラは混乱の真っ只中に立ち尽くす。
誰から守ればいいのか、分からない。
だって——
敵は目の前にいるのではなく。
皆の——心の中に、巣食っているのだから。
それから遠く離れた場所。
二人の人物が歩いていた。
不知火 明原
そして——
リオラ・ライゼン。
リオラが足を止める。
「…感じる?」
アキハラがゆっくりと頷く。
「…ああ…」
「…酷く、乱れている」
彼は北東の空を見上げた。
「…行くぞ」
迷うことなく。
彼らは歩き出す。
その先に待つ——
すでに崩れ始めた世界へと。その日の空は、あまりにも晴れていた。
何かが崩れ落ちようとしているにしては——あまりにも。
人里離れた石畳の道を、一人の男がゆっくりと歩いていた。
足取りは軽やかだ。
だが、その一歩一歩が、どこか間違っているように感じられる。
彼とすれ違った人々は、最初は何も気づかない。
だが、通り過ぎた瞬間——
得体の知れない感情が湧き上がる。
居心地が悪い。
苛立たしい。
何かが——満たされない。
男は薄く笑った。
その瞳は深い緑色。
空虚でありながら、危険な何かで満たされている。
ヴァイアー。
「…なぜ、彼らは…」
彼は低く呟いた。
目の前には、夫婦が寄り添い、小声で笑いながら歩いている。
ありふれた、穏やかな幸せ。
ヴァイアーの視線が変わった。
「…それを、持っている?」
彼は彼らに触れもしなければ、攻撃もしない。
何も——していない。
だが——
女が突然立ち止まった。
「…今、何て言ったの?」
男は眉をひそめる。
「は?何も言ってないぞ?」
「…嘘よ」
女の声音が変わる。
「…絶対に、何か言ったわ」
「え?本当に言ってな——」
「嘘をつかないで!!」
声が鋭くなる。
周囲の人々が振り返る。
男も苛立ちを隠せない様子だ。
「だから、言ってないと言ってるだろ!」
「…あなた、変わったわ…」
「…昔からそうだったけど…」
争いは——理由もなく、きっかけもなく、ただ大きくなっていく。
ヴァイアーは彼らの横を通り過ぎる。
振り返りもせず。
だが、その口元は——少しだけ、より大きく歪んだ。
「…単純なことだ」
数時間後。
穏やかな水に囲まれた王国が、遠くに見えてきた。
巨大な城壁がそびえ立ち、その下を広大な堀の水が流れている。
太陽の光が水面に反射し、美しく輝いていた。
アクアリス・ルミナーラ。
高い城壁の上。
一人の少女が、遥か彼方の地平線を眺めていた。
長い髪を束ね、瞳は穏やかだが、どこか確信に満ちている。
セイラ・ルイネ。
彼女は静かにため息をついた。
「…静かね…」
だが、眉根がわずかに寄る。
「…あまりにも、静かすぎる」
一人の衛兵が近づいてきた。
「セイラ様、東側の巡回は完了いたしました」
セイラは柔らかく微笑んだ。
「ご苦労様。少し休憩してちょうだい」
衛兵が一礼して去ると、彼女は再び遠くを見つめる。
「…何だか…」
目を閉じ、感覚を研ぎ澄ます。
「…何かが、近づいているような気がするの」
城下では、人々がいつものように暮らしていた。
子供たちが走り回り、商人たちが声を上げ、笑い声が響く。
温かく、生き生きとした世界。
だが——ゆっくりと、何かが変わり始めていた。
一人の商人が、隣の店を睨む。
「…なぜ、あいつの方が売れるんだ…」
主婦が隣人を見て、ふと思う。
「…なぜ、あの人ばっかり幸せそうなの…」
男は拳を握りしめる。
「…俺だって、こんなに働いてるのに…」
「…なぜ、俺じゃないんだ?」
小さな声が、囁きが——
静かに、だが確実に——
増えていく。
セイラがハッと目を開けた。
その感覚は確かだ。
「…皆の心が…」
「…不安定になっている…」
彼女は急いで城壁を下り、街へと向かう。
大通りの真ん中では、二人の男が掴み合いになろうとしていた。
「…やめなさい!」
セイラの手が動くと、周囲の水が素早く集まり、二人の間を割って隔てる。
「落ち着いて!一体どうしたの?」
男たちは押し黙った。
だが、その瞳には——
依然として、激しい怒りが宿っている。
「…俺は…」
「…俺も、自分でも分からないんだ…」
セイラの体が凍る。
「…これは…偶然なんかじゃない…」
城門の外。
ヴァイアーが佇んでいた。
美しい街並みを眺め、その口元にゆっくりと笑みが浮かぶ。
「…実に、美しい光景だ…」
「だが——それが、気に入らない」
彼は一歩、踏み出した。
誰も彼を止める者はなく、誰も彼に気づく者もない。
だが、彼が門をくぐった瞬間——
空気が変わった。
重苦しく、そして——より不安定に。
セイラが勢いよく振り返る。
その視線は、一点を捉えて離さない。
「…あなたは…」
ヴァイアーが足を止め、彼女を見る。
そして、再び薄く笑った。
「…やっと、会えたな」
セイラは身構える。
「…あなたは、一体何者?」
ヴァイアーは首を傾げた。
「俺か?」
「俺はただの人間だ…」
「…他人の幸せが、どうしようもなく嫌いな、ただの人間さ」
沈黙。
空気が、さらに重くなる。
セイラが手をかざすと、周囲の水が刃のように形を成す。
「…ここから立ち去りなさい」
ヴァイアーはくつくつと笑った。
「…嫌だと言ったら?」
水の刃が、一気に飛ぶ。
ヒュウウウッ!!
だが——
ヴァイアーは避けもしない。
水は彼の目前——
数センチのところで、ぴたりと止まった。
セイラが凍る。
「…なぜ…?」
ヴァイアーがゆっくりと歩み寄る。
「貴様は彼らを守ろうとする…」
「だがな、彼らは貴様のことなど、何とも思っちゃいない」
周囲から、再び囁きが聞こえ始める。
「…そうだ…」
「…なぜ、あの人だけ褒められるの…」
「…俺だって、できる…」
人々が集まってくる。
だが、彼らはセイラを助けるのではない。
ただ、お互いを——
疑い、妬み、睨みつけている。
セイラが焦る。
「やめて!これは本当のあなた達じゃない!」
だが、誰の耳にも届かない。
ヴァイアーが愉悦に満ちた声で言う。
「…見ろ?」
「俺は指一本触れてもいないんだぜ?」
街は混乱に包まれた。
叫び声が響き、人々は押し合い、罵り合う。
セイラは歯ぎしりする。
「…こんなこと、許さない!」
再び攻撃しようとするが——
躊躇いが生まれる。
力を込めれば、巻き添えになる人が出る。
彼女はただ、守ることしかできない。
「…これは…」
「…ただの戦いじゃない…」
ヴァイアーは彼女の横を通り過ぎながら、冷ややかに告げる。
「…これが、現実というものだ」
彼は城壁へと上り、崩れ始めた街を見下ろす。
その笑みは限界まで広がった。
「…これからだ…」
「…あとは、彼ら自身で互いを滅ぼすがいい」
セイラが彼を見上げる。
その瞳は、もはや穏やかさだけではない。
鋭く、強い決意に燃えている。
「…私は、絶対に許さない」
ヴァイアーがわずかに振り返る。
「…ならば、やってみろ」
一歩。
ただそれだけで——彼の姿は闇に消えた。
だが、その影響だけは——
街に残り、さらに大きく広がろうとしていた。
セイラは混乱の真っ只中に立ち尽くす。
誰から守ればいいのか、分からない。
だって——
敵は目の前にいるのではなく。
皆の——心の中に、巣食っているのだから。
それから遠く離れた場所。
二人の人物が歩いていた。
不知火 明原
そして——
リオラ・ライゼン。
リオラが足を止める。
「…感じる?」
アキハラがゆっくりと頷く。
「…ああ…」
「…酷く、乱れている」
彼は北東の空を見上げた。
「…行くぞ」
迷うことなく。
彼らは歩き出す。
その先に待つ——
すでに崩れ始めた世界へと。
「次回更新: 5月 6日 20:20」




