第31話: 不安定な風
北の風は…
決して、完全に凪ぐことはない。
だが今日の風は、
いつもとは明らかに違っていた。
冷たく、
鋭く、
そして――
本来、この世にあってはならない何かを運んできている。
細かな雪が、ヴェルモラ・ゼフィリアン王国の高い城壁の上に、
ゆっくりと降り積もっていた。
蒼白い空。
凍りついた大地。
そびえ立つ石の塔の淵に、
一人の少女が静かに佇んでいた。
霧氷のように白く長い髪。
瞳は穏やかだが、
決して空っぽではない。
ケイリス・ヴェイラ。
風が彼女の周りで渦を巻く。
まるで、言葉を聞いているかのよう。
まるで、語りかけているかのよう。
「…不安定…だわ」
小さく囁き、
視線を遥か彼方の地平線へと向ける。
雪の彼方ではない。
その向こうにある、
見えない何かを探すように。
数時間前
王国の城内に、警報が鳴り響いた。
総力戦を知らせるものではない。
だが、警備兵たちの神経を逆撫でするには十分な音だった。
国境付近に、魔物が出現したのだ。
オーク。
ゴブリン。
だが――
それはいつもの奴らとは、まるで違っていた。
動きは緩慢で、
攻撃に統一性も戦略もなく、
連携など、微塵も感じられない。
そして、最も奇妙なのは――
魔力の気配が、完全に消え失せていることだった。
ケイリスは、その一体の前に立っていた。
襲いかかっては来ない。
ただ、そこに在るだけ。
彼女は目を細める。
「…空っぽ…」
突然、魔物が腕を振り上げる。
だが動きはぎこちなく、遅い。
ケイリスはただ手をかざすだけ。
風が、鋭い刃となって唸る。
シュワッ――
魔物の体は真っ二つに裂かれ、
地面に倒れた。
だが、近づいて確かめてみても、
そこには魔力の残滓も、魔核も、何一つ存在しない。
まるで――
ただの死体が、無理やり動かされているだけ。
「…これは、生き物じゃない…」
現在
風の勢いが増していく。
ケイリスは一度、瞳を閉じる。
そして、感じる。
遠く。
非常に遠く。
だが、確かな波動。
「…一つ…」
目を開ける。
「…違う…」
眉が微かに顰められる。
「…一つだけじゃない…」
背後から、足音が近づいてくる。
騎士が一歩、下がって控える。
「ケイリス様」
「これより、出立なされるのですか?」
ケイリスはすぐには答えない。
ただ、前を見つめたまま。
「…確かめなければ、ならないことがあるの」
騎士は静かに頷く。
「…お一人で?」
「…いつも、そうでしょ」
軽やかな口調。
だが、その声に冷たさはない。
騎士はそれ以上、引き止めることはできなかった。
彼は知っている。
風のグランドマスターが決めたことには、
必ず、越えるべき理由があるのだと。
ケイリスがゆっくりと振り返る。
足取りは軽く、
だが一歩一歩に確かな重みがある。
城内の廊下を歩きながら、
彼女の思考は巡っていた。
他のグランドマスターたちも…
きっと、この異変に気づいている。
炎の使い手。
雷の使い手。
水の使い手。
大地の使い手。
彼らはきっと、
誰に命じられるでもなく、
動き出しているに違いない。
同じ一点を目指して。
ふと、
一人の名前が浮かぶ。
不知火明原。
彼女の足が、僅かに緩んだ。
「…もし、彼がまだ…生きているのなら…」
視線が落ちる。
「…きっと、彼もそこにいる…」
沈黙。
蘇る記憶。
燃え盛る炎。
真っ赤に染まる空。
そして、最前線に一人立ち、
一歩も退かなかった背中。
「…私は、何も…できなかった…」
瞳を閉じる。
「…追いつくことさえ、できなかった…」
だが、それだけじゃない。
別の光景が浮かぶ。
一人の少女。
何も言わず、
ただ、静かに涙を流していた。
ライオラ・ライゼン。
ケイリスはゆっくりと目を開ける。
「…彼女が、一番…傷ついている…」
小さくため息が漏れる。
「…なのに私は…何もしてあげられなかった…」
城の玄関口、
大きな扉の前で彼女は足を止めた。
扉が開かれる。
そこには、一人の男が立っていた。
王国の衣を纏い、
穏やかな眼差し。
ヴェルモラ・ゼフィリアン王。
「また、行くのだな」
それは疑問形ではない。
ケイリスは静かに頷く。
「…今回は、ただの巡回ではないと思います」
王は彼女をしばらく見つめ、
そして、ただ一言。
「…わかっている」
風が二人の間を吹き抜ける。
「死ぬな」
短い言葉。
だが、それは全てを含んでいた。
「この国は、まだ貴方を必要としている」
ケイリスは彼を見つめ返す。
「…もし私が行かなければ…」
彼女は再び、遠い空を仰ぐ。
「…この国も、何もかも、失うことになります」
言葉は返らない。
王はただ、深く頷き、
道を開けた。
ケイリスが外へと踏み出す。
冷たい風が、彼女を包み込む。
そして一歩――
その姿は、風と共に消えた。
まるで、大気そのものになったかのように。
旅の始まり
彼女の移動は速い。
雪の大地を越え、
森を抜け、
山脈を超えていく。
休むことなく、
ただ前へ。
その道すがら、
彼女は全てを感じ取っていた。
破壊の痕跡。
歪んだエネルギー。
そして、何もかもを飲み込む虚無。
「…この異変は、広がっている…」
瞳が鋭くなる。
「…そして、中心は…近い…」
ムシャフ王国
そこは、
かつての栄華も、活気も、
全てが失われた場所。
空気は重く、
埃が舞い、
破滅の臭いが、まだ立ち込めていた。
廃墟の中に、
四つの影が佇んでいた。
不知火明原。
ライオラ・ライゼン。
ガルドロス。
そしてズワ。
戦いは終わった。
だが、それは勝利と呼べるものではない。
ライオラがその場に座り込む。
「…あれが…ただの、使い魔だったなんて…」
ガルドロスが、苦い笑いを漏らす。
「あんなもんが使い魔なら…」
自分の震える手を見つめる。
「…本隊がどんな化け物だか、想像もしたくねえな」
ズワは黙ったまま、
明原の横顔を見つめていた。
「…アキラ…」
明原が僅かに顔を向ける。
「…なんだ?」
「…お前、普通の人間じゃないだろ」
沈黙。
ライオラがハッとなって振り返る。
だが明原は、ただ、かすかに笑うだけ。
「…この状況で、普通なヤツなんているか?」
ズワはそれ以上、問い詰めない。
だが彼女の目は、
彼の立ち姿や、
先ほどの戦いぶりを、
まだ測りかねているようだった。
「…不思議な人だ…」
小さく、独り言のように零れる。
ライオラが立ち上がる。
「…いつまでも、ここにはいられないわね」
ガルドロスが頷く。
「…この異変が広がってるなら…」
「…他の場所も、もう手遅れかもしれねえ」
明原が、ようやく口を開く。
「…西へ向かう」
ライオラが振り向く。
「…エルフの王国?」
明原はゆっくりと頷く。
「…可能性は高い」
沈黙。
ガルドロスが大きく息を吐く。
「…なら、役割分担だ」
彼は視線を廃墟に巡らす。
「…俺はここに残る。
…まだ何か残ってるかもしれねえ。見張っておく」
ライオラが頷く。
「…私たちが進む」
ズワが無理をして立ち上がろうとする。
「…私も…一緒に…」
「駄目だ」
明原が即座に制する。
「…お前はまず、生きろ」
ズワは歯軋りする。
だが、反論はできなかった。
自分の体が、限界なのを知っている。
明原が歩き出す。
ライオラがすぐに続く。
その背中に向かって、
ズワが小さく声をかけた。
「…昔、似たような男を見たことがある…」
明原の足が、一瞬だけ止まる。
「…お前だけは…消えたりしないでくれよ…」
答えはない。
彼はただ、歩き続ける。
世界の動き
空の色が、変わり始めていた。
北では――
風が、猛りを増す。
南では――
炎が、道を焼く。
中央では――
雷が、空を裂く。
そして西では――
何かが、静かに彼らを待っている。
彼らはまだ、
知らない。
それぞれの道が、
やがて一つに交わることを。
そして、その出会いが――
この世界の姿を、
永遠に変えてしまうことを。
「次回更新: 5月 4日 20:20」




