第22話: 戦争へと繋がる夜
ムシャフ王国の上空の空は…もはや動いてはいなかった。
雲はただ漂っている。
空気は重い。
そして、ゆっくりと広がりつつある崩壊の真っ只中に
ただ一人の人物が…一切の影響を受けることなく立っていた。
アケディア。
彼は攻撃しない。
走ることもない。
直接何かを破壊することもない。
だが、そこに存在しているだけで…それで十分だった。
建物が一つ、また一つと亀裂を生む。
頑丈な石までもが、脆いもののように崩れ落ち始める。
その瓦礫の中に
冒険者たちが立っていた。
数十人。
あるいは数百人か。
だが、一歩も前に出る者はいない。
「…まだ、生きているのか?」
アケディアの声が静かに響く。
平坦で。
感情の欠片もない。
数人の冒険者が唾を飲み込む。
一人の男が剣を抜こうとする。
だが、手は震えていた。
「行けぇ…!」
一声の叫びが轟いた。
数人が即座に動き出す。
魔法が解き放たれ。
矢が飛び交い。
剣が閃く。
だが、結果は以前と同じだった。
それらの全てが…
消えた。
何一つとして命中することはなく。
傷痕一つ残すこともなく。
そして数秒の後
彼らの何人かが崩れ落ちた。
傷を負ったからではない。
目に見えない何かによって。
その圧力に。
「あっ―」
一人の冒険者が息を吸おうとする。
だが、体は言うことを聞かない。
彼は倒れ。
そのまま動かなくなった。
他の者たちは後ずさる。
恐怖に駆られ。
「こ、こんなの…敵じゃない!」
アケディアはただ見つめていた。
「…弱いな」
城門の外。
そこにはまだ、立っている者がいた。
意識はある。
だが、一歩も動くことができない。
ガルドロス・ヴァルンハイム。
体は凍りついたように硬直し。
瞳は見開かれたまま。
彼はすべてを目撃していた。
民が。
冒険者たちが。
この国が。
崩れ去る様を。
「…動け…」
声にはならず、心の中で叫ぶ。
「…動けっ…!」
だが、体は応えてはくれない。
いつもならば応えてくれるはずの
この大地も、今はただ沈黙している。
生まれて初めて
『岩の大師』と呼ばれるこの男は…
無力感というものを味わっていた。
それは
どんな傷よりも、深く痛むものだった。
城内では
ラグナル・ヴァルンハイムが、厳しい表情で立っていた。
彼の視線は、外の惨状から一瞬たりとも離れない。
「…もう、限界だ」
彼はゆっくりと振り返る。
「民を避難させろ」
側近たちは言葉を失う。
「生き残っている者は全員、救い出せ」
「残りの者たちは…」
彼は深く息を吸い込み。
「…奴を、少しでも長く足止めしろ」
その命令は…
勝利を目指すものではなかった。
ただ、時間を稼ぐためのものだった。
遥か北の地。
鬱蒼とした森の奥。
夜は、こちらの方がよほど静かに思えた。
クロハナの里は眠りについている。
明かりはほのかに揺れ。
風がそっと吹き抜ける。
だが、小さな宿屋の一室では
そんな穏やかな空気は存在しなかった。
リオラ・ライゼンが窓辺に立っていた。
彼女の視線は、南の方角を捉えている。
「…また、来たわ」
声は小さいが。
だが、はっきりとしていた。
その背後で
座っていた不知火アキハラが、ゆっくりと顔を上げる。
彼もまた、感じていた。
その気配を。
空虚で。
それでいて、押しつぶされるような圧力。
ヒノムラで出会った時と、全く同じだ。
「…例のヤツ、か」
リオラが静かに頷く。
数秒の沈黙。
それから
彼女はゆっくりと振り返り。
アキハラを見つめた。
長い言葉は必要ない。
その眼差しだけで、十分だった。
アキハラは理解した。
仲間が。
他の大師たちが。
今、まさにこの脅威と対峙しているのだと。
彼は視線を落とし、考える。
古き記憶がよみがえる。
かつての大戦。
炎が。
雷が。
大地が。
水が。
風が。
そして、たった一体の敵が―
魔王が。
彼は彼らと共に戦ったことがある。
だが今は…
「…行く」
短い言葉が、迷いなく発せられた。
リオラが即座に反応する。
「ダメ」
アキハラが彼女を見る。
「俺なら、この力は…」
「一人で行くなんてダメ」
リオラの声音が変わる。
いつもより、ずっと強く。
アキハラは黙ったままだ。
だが、まだ事の重大さを理解しきれてはいない様子だった。
「あの時と同じ相手だとしたら…」
彼は続ける。
「…俺が行かなきゃ」
リオラは拳を強く握りしめ。
「…ノアは、どうするの?」
沈黙。
その一言は。
鋭く、胸に突き刺さった。
「…それに、貴方は?」
声が、わずかに震えていた。
生まれて初めて
アキハラは彼女の本質を見たような気がした。
単なる戦友としてではなく。
自分の身を案じてくれる…
一人の人間として。
彼はしばらくの間、動けずにいた。
それから
彼の表情が、わずかに変わる。
柔らかく。
そして、小さく笑った。
「…行くぞ、二人で」
リオラは少しだけ目を見開いた。
「二日だ」
アキハラが続ける。
「一度、ヒノムラに戻る」
「それが終わったら…」
彼は再び南を見つめ。
「…援軍に行く」
沈黙が流れる。
リオラは小さくため息をついた。
「…本当に、馬鹿ね」
だが、彼女の頬はわずかに染まっていた。
もう、反対することはなかった。
夜は更けていく。
部屋の中では
リオラがすでに眠りについていた。
ノアがその隣にいる。
小さな体で。
安らかに。
何も知らずに。
アキハラは戸口に立ち、その様子を見ていた。
眠っているリオラの顔は
いつもよりもずっと穏やかで。
冷たくもなければ、強くもない。
ただ…一人の女性の顔だった。
アキハラはその場に立ち尽くす。
胸の奥に、何かが込み上げてくる。
不思議な感覚だ。
温かいようで。
だが、どうしようもなく困惑させられる。
「…これは、一体…」
小さく呟く。
彼は視線を外し。
それから
ゆっくりと戸を開けて。
外へ出る。
静かに閉める。
外は。
しんと静まり返った夜。
森は闇に包まれ。
風がそっと音を立てる。
アキハラは立ち止まり。
大きく息を吸い込み。
心を落ち着かせようとする。
だが
彼の本能が…
警鐘を鳴らしていた。
次の瞬間
彼の瞳が変わる。
「…何か、いる」
彼はゆっくりと横を向く。
闇の道の先に。
一つの影が、立っていた。
大きく。
屈強な姿。
ゆっくりと。
その影が一歩、踏み出す。
月明かりがその姿を照らし出す。
それはオークだった。
だが
何かが違う。
体高はおよそ二メートル半。
巨体に、分厚い筋肉。
手には
巨大な斧を携えている。
だが、最も奇妙なのは
そこには何も感じられないことだった。
魔力の気配がない。
気迫も、魂も感じない。
ただ空っぽだ。
まるで、生きていないもののように。
アキハラは目を細める。
「…魔力の波動が、ない…」
瞬く間に思考が働く。
このような存在は…
ヒノムラを襲ったアレと、同じ種類だ。
彼の覚悟は決まった。
「…狙いは…」
彼は一瞬、部屋の方を見やる。
「…ノア、か」
たちどころに
全ての謎が解けた。
このオークは、ただ彷徨っているのではない。
明確な目的を持って、ここへ来たのだ。
オークは動きを止めた。
真っ直ぐにアキハラを見据える。
唸り声一つ上げない。
音一つ立てない。
ただ…
沈黙している。
そして
ゆっくりと、斧を持ち上げる。
アキハラも即座に構える。
だが
彼の剣は…
部屋の中に置いてきてしまった。
背後には
リオラがいる。
ノアがいる。
距離が近すぎる。
あまりにも、近すぎた。
彼は拳を握りしめる。
手のひらに小さな炎が灯る。
だが、抑え込む。
もし一歩でも誤れば
この部屋ごと、木端微塵になる。
オークが一歩、進む。
地面が軋む音が響く。
重い、足取り。
そして、徐々に距離が詰まってくる。
アキハラは体の重心を低く保つ。
武器はない。
だが、闘う準備はできている。
瞳には、ただ一点の曇りもない。
一瞬の隙も許されない。
ここで負ければ、全てが終わる。
オークが斧を頭上高くかざす。
空気が、ヒュウと音を立てて裂ける。
そして次の瞬間には
必殺の一撃が、振り下ろされる。
「次回更新: 4月 25日 20:20」




