第23話: 暗闇の中の目
斧が振り下ろされる。
金属が何かに触れるより先に、空気がヒュウと音を立てて裂ける。
だが、たった一歩の回避…
それで十分だった。
不知火アキハラの体が、紙一重で横へと滑る。
寸前。
本当に、紙一重だった。
ドンッ!!
彼が立っていた場所の地面が砕ける。
宿屋の床板は木端微塵になった。
アキハラは反撃しない。
まだ、だ。
瞳は鋭く。
体は低く構える。
剣はない。
そして目前には
巨大なオークがいる。
長身で、重厚な体躯。
人間一人が楽に隠れるほどの斧を携えている。
だが、最も異質なのは…
その「空っぽ」さだった。
魔力もなければ
気配もない。
無理やり形を与えられた影のような存在。
「…妙だな」
アキハラが低く呟く。
オークは答えない。
当然だ。
ただ、再び動いただけだ。
先ほどよりも速く。
そして、より凶悪に。
斧が水平に薙ぎ払われる。
アキハラが身を屈める。
刃が生み出す風が、頭上をかすめて過ぎ去る。
彼は即座に間合いに踏み込む。
拳を打ち込む。
ゴスッ。
オークの腹に、強烈な一撃が炸裂する。
だが
何の反応も返ってこない。
息が詰まる様子もなければ
痛がる素振りも一切見せない。
まるで、岩でも殴っているかのようだ。
「…生き物じゃ、ないのか」
オークが即座に反撃してくる。
太い腕が、肘打ちとして頭上から振り下ろされる。
アキハラは腕で受ける。
バキッ!
重圧が全身に響く。
だが、彼は一歩も退かない。
瞳を細め。
「ならば…」
手のひらに、小さな炎が灯り始める。
だが、それ以上の行動に移る前に
戸が勢いよく開いた。
リオラ・ライゼンが飛び出してくる。
息は荒く。
状況を一目で理解する。
「…アキハラ!」
彼女はオークの姿を捉え。
迷いなく
手を天にかざす。
バリッ!!
稲妻が走る。
眩い閃光が夜を切り裂く。
攻撃はオークの体に直撃した。
だが
その効果は…
奇妙だった。
オークの体は、わずかによろめいただけ。
焼け焦げることもなければ
傷一つ付くこともない。
「…効いて、ない?」
リオラが小さく呟く。
アキハラは振り返らずに答える。
「中身が空っぽなんだ」
リオラは瞬時に理解した。
たった一秒で。
「…つまり、これは…」
ヒノムラで見たものと、同じなのだと。
言葉は必要なかった。
オークが再び動く。
だが今度は
相手が二人いる。
アキハラが前へ出る。
リオラが背後を支える。
二人の動きは…
完全に噛み合っていた。
まるで、昔から共に戦ってきたかのように。
アキハラが注意を引きつけ。
避け、踏み込み、攻撃する。
リオラは
その隙を逃さず、援護する。
死角から稲妻が落ちる。
バリッ!!
ドンッ!!
攻撃が幾重にも重なる。
そして、ついに。
アキハラが絶好の機会を作り出した。
体を捻り。
手のひらの炎が、一気に膨れ上がる。
「…終わりだ」
彼はオークの胸元目がけて、掌底を打ち込む。
ボウッ!!
炎が爆発する。
オークの動きがピタリと止まる。
体に亀裂が走り。
そして
砕け散った。
黒い灰へと変わり。
そして…
魔力の残滓一つ、漂うことはなかった。
沈黙。
リオラがゆっくりと手を下ろす。
「…これって、一体…」
アキハラは灰になったそれを見つめる。
「…誰かが、送り込んだんだ」
冷たい声だった。
だが、二人がさらに思考を巡らせるより先に
足音が。
背後から。
一つ。
二つ。
彼らは同時に振り返る。
更なるオークたちが。
闇の中から現れる。
一体。
二体。
三体。
それ以上に。
「…まだ、いるの?」
リオラがため息をつく。
アキハラは答えない。
ただ、再び構えを取ろうとした。
その時。
突然。
オークたち全員が…
動きを止めた。
沈黙する。
一切の動きを封じ。
まるで、彫像になったかのように。
「…?」
リオラが眉をひそめる。
アキハラは警戒を解かない。
むしろ、本能は…
さらに激しく警鐘を鳴らしていた。
何かがいる。
遥かに巨大な何かが。
そして
遠く。
暗い森の藪の間から
一対の瞳が現れた。
黄金色に。
輝いている。
大きくもなく。
小さくもない。
だが…
その視線は重たい。
世界そのものが、見つめられているかのような威圧感。
リオラの体が凍る。
「…あれは…」
アキハラも動けない。
彼の瞳と、その瞳が交わる。
そして、久しぶりに
彼は不快感を覚えていた。
恐怖ではない。
だが…
計り知れない、明確な「脅威」を。
沈黙が続く。
数秒間。
あるいは、それ以上だったかもしれない。
やがて
その瞳は…消えた。
まるで、最初からなかったかのように。
それと同時に
オークたち全員が
姿を消した。
後ずさるわけでもなく。
倒れるわけでもなく。
ただ…
消えたのだ。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
森は再び静けさを取り戻す。
風が、またそっと吹き抜ける。
「…今のは、一体…」
リオラが震える声で呟く。
アキハラは答えない。
ただ、その方向を見つめたまま。
瞳は鋭いまま。
だが、今回ばかりは
彼にも、何もわからなかった。
数秒の後。
「…部屋に戻る」
アキハラが踵を返す。
二人は急いで中へ入る。
戸を開け。
そして。
ノアは…
まだ眠っていた。
穏やかに。
まるで、外の世界の出来事など、最初から存在しなかったかのように。
リオラが長く息を吐く。
「…よかった…」
アキハラはその場に立ち尽くし。
それからゆっくりと
床に腰を下ろした。
リオラも、隣に座る。
言葉はない。
気が付けば
二人は小さく笑っていた。
可笑しいからではない。
ただ…
自分たちがまだ、生きていることを実感するために。
時が過ぎる。
穏やかな沈黙が流れる。
アキハラは床を見つめたまま、口を開く。
「…なぜ、ついて来たんだ?」
リオラが彼を見る。
「ここまで」
アキハラが続ける。
「別に、お前の問題じゃないだろ」
沈黙。
リオラはすぐには答えない。
彼女の手が、自分の服の裾をぎゅっと掴む。
「…だって」
言いかけて、止まる。
頬が、わずかに紅潮する。
「…私、嫌なの」
彼女は意を決して、息を吸う。
「…また、貴方がいなくなるなんて、嫌だから」
沈黙。
短い言葉だった。
だが、その言葉は重い。
アキハラはすぐに返事をしない。
胸の奥が…
また、妙な感覚に包まれる。
温かいようで。
そして、少しだけ痛い。
「…そうか」
ただ、それだけが口から漏れた。
だが今度は
声のトーンが、いつもよりずっと柔らかい。
リオラは視線を落とす。
「…誤解しないでよね」
だが声は小さく。
そして間もなく
彼女はそのまま眠りに落ちた。
あっさりと。
アキハラは彼女の横顔を見る。
いつもの凛とした表情とは違い、とても穏やかだ。
彼の視線が少し下がる。
彼女が着ている服に目が留まる。
古い、この服。
元は…母親のものだ。
彼が深く考えもせずに与えた服。
それを今
こうして着ている相手のことを…
自分でも、どう表現していいのか分からない。
アキハラは小さく笑う。
「…本当に、妙なもんだ」
彼は床に横になる。
リオラのすぐ側で。
ノアはベッドの上で眠っている。
そして、この瞬間だけは
全てが…
普通だった。
計画も何もない、小さな家族のように。
彼はゆっくりと瞳を閉じる。
だが。
ガシャーン!!
外から、凄まじい音が響いた。
続いて、悲鳴。
「ギャアアアーーッ!!」
アキハラが即座に目を開ける。
体が、一挙動で起き上がる。
リオラも飛び起きる。
「…何!?」
アキハラは答えず。
戸へと走る。
扉を開け放つ。
そして。
クロハナの里は…
もはや、元の姿ではなかった。
建物のいくつかが倒壊し。
地面はえぐられ、荒れ果てている。
そして、地面にはくっきりと
足跡が残されていた。
巨大な足跡が。
無数に。
数え切れないほどに。
まるで、何かが
今まさにこの里を踏み荒らして通ったかのような痕跡。
そして、その数は…
とても、一つや二つではなかった。
「次回更新: 4月 26日 20:20」




