第21話: 止められない
ムシャフ王国の上空の空は……音もなく崩れ落ちた。
嵐のせいではない。
魔法のせいでもない。
それはこの世のものとは思えない、
この世界に存在してはならない何かによって。
ムシャフの大きな門の前、二人の存在が向き合って立っていた。
一人は人間界の生ける砦。
もう一人は……歩く虚無。
ガルドロス・ヴァルンハイム
そして
アケディア。
風は止み、
塵は宙に舞ったまま……落ちてこない。
世界全体が息を呑んだ。
ガルドロスが一歩踏み出す。
その歩みに合わせて地面が震える。
一歩一歩が重く……確かで……決して揺るがない。
その瞳は鋭く、
迷いはなく、
怯みもしない。
「……貴様はこの世界の者ではないな」
声は低く、
まるで岩が語りかけるようだ。
アケディアは彼を見つめた。
黙したまま。
長い間。
まるで目の前の存在の存在に、今初めて気づいたかのように。
「……ああ」
たった一言。
平坦な声。
ガルドロスは待たなかった。
手を掲げ、
一閃、
――ドン!
地面が炸裂する。
巨大な岩の柱が地中から湧き上がり、四方八方からアケディアへと襲いかかる。
空は砂塵に覆われ、
衝撃音が響き渡る。
だが攻撃はそれで終わらない。
ガルドロスが足を踏み鳴らす。
地面の亀裂はさらに広がり、
幾層にも重なる岩がせり上がり、上からも下からも、左右からも押し潰そうとする。
隙のない、
容赦のない攻撃。
背後の兵たちは凍りついた。
その力に瞠目する者、
希望の光を見出す者。
「これが……グランドマスターの力か……」
しかし、
舞い上がった塵が未だ鎮まらぬその中で……
状況は何も変わってはいなかった。
足音。
ゆっくりとした足音。
アケディアが包囲の中から歩み出てくる。
傷一つなく、
塵一つ付いておらず、
かすり傷すら見当たらない。
「……遅い」
ガルドロスは瞳を細めた。
ありえない。
衝突した感触がない。
抵抗する力もない。
打ち負かすべき「何か」がそこに存在しないかのようだ。
まるで……
自分の攻撃が最初から何も当たっていなかったかのように。
「……問題なのは力の大きさではないのか……」
低く呟く。
だがガルドロスは止まらない。
大きく息を吸い込み、
今度こそ、
本気を出す。
足下の地面がうねり、
岩がせり上がって彼の体を覆う。
足元から頭まで、分厚い岩の鎧が全身を包み込む。
瞳がかすかに輝いた。
グランドマスターモード。
一歩踏み出すごとに、地面は激しく揺れ動く。
「ならば……」
重厚な声。
「この世界そのものに、貴様を思い知らせてやる!」
腕を振り下ろす。
――ガシャーン!
小さな山が形成され、アケディアめがけて落下する。
それは単なる岩ではない。
世界そのものの重み、
圧力そのものだ。
その衝撃は、
地面を砕き、
空気を裂き、
ムシャフの門全体を揺るがした。
兵たちは弾き飛ばされ、
城壁には亀裂が走る。
そしてゆっくりと塵が引いた時……
全ての視線が一点に集まった。
アケディア。
依然としてそこに立っている。
一歩も動かず、
何も変わらず。
ただ……静かに見つめているだけだ。
「……貴様は強い」
ガルドロスは言葉を失った。
アケディアは続ける。
いつもと同じ調子で。
感情の欠片もなく。
「……だが、それは何の意味も持たない」
その一言は、
どんな攻撃よりも重く、鋭かった。
生まれて初めて、
ガルドロスはある感覚に囚われた。
それは恐怖ではない。
ただ……
理解不能な感覚。
これは一体……?
動こうとして、
手を挙げ、
大地の力を呼ぼうとする。
だが、
何も起こらない。
体が……
動かない。
硬直している。
「……な……に……?」
瞳がわずかに見開かれる。
意識ははっきりしている。
見えているし、
考えることもできる。
なのに体は、
全く反応しない。
魔法は、
沈黙したまま。
大地も、
応えてはくれない。
まるでこの世界との繋がりが……
全て断ち切られてしまったかのように。
アケディアは彼に手を触れることさえしなかった。
ただ……
見ていただけだ。
それだけで、十分だった。
「……邪魔だ……」
アケディアがゆっくりと近づいてくる。
足取りは軽やかだ。
「……疲れる」
彼はガルドロスの脇を、何もなかったかのように通り過ぎる。
二度と振り返ることもなく、
まるで彼が脅威ですらないかのように。
ガルドロスはそこに立ち尽くす。
まるで石像のように。
身動き一つできず。
そして、この石の大賢者が生まれて初めて……
為す術もなく、立ち尽くしていた。
ムシャフの門は……開かれた。
誰かが命令したからではない。
それを閉める者が、もういなくなったからだ。
アケディアが中へと進む。
そして世界は変わり始めた。
わずかに残った緑は、
黒く変色し枯れ果て。
壁は、
ゆっくりと亀裂が走り崩れていく。
空気は、
重く、淀み、呼吸すら困難になる。
一人の住民が恐怖に駆られ後ずさる。
「……なに、これ……」
よろめいて、
そのまま倒れこむ。
そして二度と起き上がることはなかった。
傷もなく、
叫び声もなく。
ただ……生命の活動が、停止しただけだ。
パニックが拡がる。
「逃げろ!」
「皆早く逃げるんだ!」
だがどこへ行こうとも、
その重圧からは逃れられない。
それは攻撃ではない。
存在そのものが、周囲を蝕んでいるのだ。
城内では、
ラグナル・ヴァルンハイムが立っていた。
その瞳は鋭いが、
表情は強張っている。
「……ガルドロスが……敗れたのか?」
返事はない。
だが彼にはわかっていた。
くるりと向きを変え、
「ギルドマスターを呼べ!」
命令は即座に実行された。
ほどなくして、
一人の男が素早い足取りで部屋に入ってくる。
真剣な面持ちだ。
「陛下」
ラグナルは彼を見据え、
「……全軍、総動員せよ」
ギルドマスターは一瞬言葉を詰まらせる。
「……全軍、ですか?」
ラグナルはゆっくりと頷いた。
「これは普通の脅威などではない」
沈黙が降りる。
「……これは、終末だ」
ギルドマスターは深く頭を垂れた。
「……承知いたしました」
ムシャフ国中で、
異常事態が発生していた。
冒険者たちが宿屋から、
ギルドから、
街のあちこちから集結し始める。
剣を抜き、
鎧を纏い、
魔法の準備を整える。
だが彼らの心の奥底には、
言葉では表せない何かがあった。
それは……紛れもない恐怖だった。
一方その頃、
北方の、
鬱蒼とした森の中。
足音がぴたりと止んだ。
不知火アキハラが、突然立ち止まったのだ。
隣を歩いていたリオラも足を止める。
彼女は今も、
ノアを抱きかかえている。
「……どうしたの?」
アキハラは答えない。
瞳を細め、
周囲の空気の変化を探る。
「……これは……」
指先に、いつの間にか小さな炎が灯っていた。
リオラもまた、その異変を感じ取っていた。
「……南の方角……」
沈黙。
二人は視線を交わす。
確信していた。
何かが起きている。
計り知れない、大きな何かが。
ムシャフに戻る。
アケディアは街の真ん中に佇んでいた。
周囲の家々が崩れ始める。
ゆっくりと、静かに。
破壊されたのではない。
ただ……
その存在に耐えきれず、朽ちていくだけだ。
冒険者たちが集まり始めていた。
数十人、
そして数百人へと膨れ上がる。
だが誰一歩も前に出ようとはしない。
踏み出す勇気が、湧いてこないのだ。
アケディアが彼らを見渡す。
ただ、静かに。
「……面白い」
ゆっくりと手を上げる。
空気が振動した。
数人の冒険者が、それだけでその場に倒れ伏す。
一撃すら与える間もなく。
他の者たちは恐怖に駆られ後ずさる。
「こ、これは一体……!?」
答えはない。
誰も理解できてはいないのだから。
アケディアは空を仰ぎ、
「……さあ、見せてもらおうか」
再び視線を前方へと戻す。
「……貴様らが、この世界が、どこまで耐えられるか」
その瞬間、
ムシャフ王国はもはや守るべき砦ではなくなっていた。
そこは……
実験場となった。
この世界が、未だ準備のできていない脅威の前に、
晒されるための――生贄の舞台へと変わったのだ。
「次回更新: 4月 24日 20:20」




