第20話: サウスフォート
南の空は、いつも何かが違う。
より広く。
より厳しく。
そして、より真っ直ぐだ。
その空の下、美しさで知られるのではなく、
その強靭さと不撓不屈の精神で知られる王国があった。
ムシャーフ王国。
広大な岩地に、灰色の石で造られた頑丈な建造物が立ち並び、
空まで伸びる高い城壁と、常に厳戒態勢の大きな門が構えられている。
この場所に…
弱さなど、存在する余地はない。
鍛錬場の真ん中で、
地鳴りのような衝撃音が響いた。
ドンッ!
二つの体が激しくぶつかり合う。
地面に亀裂が走り、
砂埃が舞い上がる。
その中心に、
一人の男が悠然と立っていた。
大きな体躯に、
鍛え上げられた筋肉。
まるで、生きた石の彫刻のようだ。
彼の名は、
ガルドロス・ヴァルンハイム。
石の大導師である。
「…もっと、本気で来い」
声は低く、静かだ。
だが、その言葉には絶対的な重みがあった。
一人の弟子が前に出る。
全身全霊を込めて剣を振りかざす。
その一撃は速く、
重く、
鋭い。
だが――
カキンッ!
剣はそこで止まった。
弾き返されたのではない。
ただ…それ以上、進むことができなかったのだ。
ガルドロスは、一歩たりとも動いてはいない。
「基礎のない力など…ただの砂上の楼閣だ。いずれ崩れる」
彼が僅かに手を押し出す。
すると、弟子の体は弾かれるように吹き飛び、
地面に倒れこんだ。
だが、弟子が起き上がるよりも早く、
ガルドロスはゆっくりと顔を上げた。
「…静かにしろ」
場が凍りついた。
命令だからではない。
何か別の、本能的な危機感がそうさせたのだ。
ガルドロスは身をかがめ、
手の平を地面につける。
そして、長年の彼を知る者が見れば驚くだろう――
初めて、彼の表情に変化が見られた。
「…これは…」
足元の大地が微かに震えている。
だが、地震のようなものではない。
魔法や魔力による振動でもない。
「…魔力では、ない…」
彼は目を細める。
この震えは…
何もない、空っぽの恐怖だ。
ゆっくりと立ち上がり、
彼は遥か南の彼方を見つめた。
「…何かが、来る…」
ムシャーフ王国の王城にて。
国王もまた、バルコニーに佇んでいた。
風が吹き抜けるが、
その風はどこか重たい。
「…貴様も、感じているか」
背後から声がした。
ガルドロスが部屋に入り、深く頷く。
国王は振り返らず、ただ空を見つめたまま言った。
「…これは、普通の脅威ではないな」
「はっ。この世の理を…外れた存在です」
沈黙が流れる。
「…兵を集めよ」
命令は簡潔だった。
だが、その言葉の重みは計り知れない。
「…承知いたしました」
王国の正門。
衛兵たちは、いつもよりも緊張感を高めて立っていた。
手には槍を握りしめ、
全身に鎧を纏い、
警戒心を最大限に高めている。
彼らの頭上では、空の色が変わり始めていた。
雲はゆっくりと動くが、
その下にいる者の心を締め付けるような圧力がある。
一人の衛兵が、唾を飲み込んだ。
「…おい、感じるか?」
隣の仲間が、無言で頷く。
「…ああ…まるで、何かが…」
だが、その言葉が終わらないうちに――
足音が聞こえた。
ゆっくりと、
静かに、
確実に近づいてくる音。
全員の視線が、道の先へと集まる。
遠くから、
たった一人の人物が歩いてくる。
彼が踏みしめる地面は…
黒く変色し、
草は枯れ果て、
周囲の空気までもが凍りついているようだった。
それが――
アケディア。
「…そこまでだ!」
衛兵の一人が声を上げる。
毅然とした声だったが、
その奥には僅かな震えがあった。
アケディアは答えない。
足を止めもしない。
「…止まれと言っているんだ!」
反応はない。
「撃てぇ!」
槍が投げられ、
矢が雨のように放たれ、
魔法の光が走る。
すべての攻撃が、一点に向かって飛んでいく。
だが――
それらは全て、
跡形もなく消え去った。
弾かれたのでもなければ、避けられたのでもない。
まるで…
最初から、何も存在していなかったかのように。
アケディアが、ようやく足を止めた。
「…うるさい」
彼がゆっくりと手を上げる。
バキッ!
空気が亀裂を生じた。
その瞬間、
数人の衛兵がその場に崩れ落ちる。
刃物で傷ついたわけではない。
ただ…
目に見えない何かの重圧に、
体が耐えきれなかったのだ。
残った者たちは、
恐怖に駆られて後ずさる。
この時初めて――
不敗を誇るムシャーフの城門が、
その牙を折られたのだった。
一方、北の方では。
鬱蒼とした森の中を、
三人の影が歩いていた。
先頭を行くのは、
不知火明原。
歩みは安定しているが、
どこか重たい。
その隣には、
ライオラ・ライゼンがノアを抱きかかえながらついてくる。
森の中は静かだった。
だが、完全な平穏というわけではない。
「…だいぶ遠くまで来たわね」
ライオラが小さな声で言う。
明原は頷く。
「…ああ。大丈夫だろう」
沈黙が続く。
しばらく歩いた後、
ライオラは横にいる明原の横顔を盗み見た。
いつもの無表情だが、
それはあまりにも静かすぎた。
「…あんた、自分に厳しすぎるのよ」
明原は答えない。
ライオラはため息をつく。
「もしあんたがいなかったら…」
「…あの村は、とっくの昔に滅んでたわ」
明原の足が、僅かに止まる。
「…それに今だって…」
ライオラの声が、少しだけ柔らかくなる。
「…ちゃんと、守ろうとしてるじゃない」
明原がゆっくりと振り向いた。
二人の視線が絡み合う。
数秒の間、時が止まったかのようだった。
そして、久しぶりに――
彼の表情に、僅かながら変化が訪れた。
ほんの少し。
だが、確かに。
「…ありがとう」
短く、真っ直ぐな言葉。
ライオラは突然、動きを止めた。
頬がみるみる赤く染まっていく。
「あ、アタシはただ…事実を言っただけよ!」
彼女は慌てて顔を背ける。
「…変な気分にさせないでよね!」
明原は、そんな彼女を見て、
ほんのわずかだけ口角を上げた。
本当に小さな、
だが心からの笑顔だった。
肩にのしかかっていた重荷が、
少しだけ軽くなったように感じた。
彼らは足を止めた。
目の前に、
一つの村が姿を現していた。
日ノ村よりも大きく、
森に囲まれ、
静かで、
外界から隠されたような場所。
――黒花村。
「…ここにするの?」
ライオラが問う。
明原は頷く。
「…まずは、様子を見よう」
だが、彼の心の奥底には、
一つの不安がよぎっていた。
この場所もまた…
標的になってしまうのだろうか、と。
南へ――
ムシャーフ王国の正門前。
地面の亀裂は、ますます大きく広がっていた。
衛兵たちが恐怖に怯えながら退く中、
アケディアはただ悠然と立ち尽くしている。
「…全員、下がれ」
背後から、低い声が響いた。
地鳴りのような足音が近づき、
大地が再び震える。
そして、一人の男が前へと進み出た。
ガルドロス・ヴァルンハイム。
彼はアケディアと城門の間に立ちはだかり、
鋭い眼光で相手を睨みつける。
「…貴様は、この世界の者ではないな」
アケディアが彼を見る。
初めて、彼の瞳がゆっくりと見開かれた。
「…ほう?」
そこには、僅かながら興味という色が浮かんでいた。
「…中々、面白い人間だ」
ガルドロスは無言のまま、
足元の地面に意識を集中させる。
すると、周囲の石たちが浮き上がり、
彼の周りを渦巻くように動き始めた。
重厚な気が辺り一面を覆いつくす。
「…我が前を通りたければ…」
彼の声は、岩のように低く響く。
「…このガルドロスを、倒してから行け」
沈黙。
二つの圧倒的な力が、互いに牽制し合う。
空気は鉛のように重くなり、
空は黒雲に覆われていく。
そして――
アケディアが、初めて口角を上げた。
薄ら笑い。
「…貴様ならば…」
一歩、前に踏み出す。
「…退屈はさせぬようだな」
二人の間の地面が、
大きく裂けた。
世界全体が、
息を呑んでその瞬間を待っているかのようだった。
戦いの火蓋は――
今、切られようとしていた。
「次回更新: 4月 23日 20:20」




