第19話: 残された痕跡
朝が訪れた…だが、そこに平穏はなかった。
太陽の光がゆっくりと日ノ村を照らし、小さな家々の屋根、素朴な土の道…そして昨夜から残された亀裂にまで、その光は届いていた。
その亀裂は大きくはない。
だが、村人全員に思い出させるには十分だった。
この地に、あってはならない存在が…足を踏み入れたのだということを。
村人たちが集まっていた。
騒がしくはない。
パニックにもなっていない。
ただ…沈黙していた。
壊れた柵を直す者。
ただ立ち尽くす者。
地面を見つめる者。
まるで、これが悪夢であってほしいと願うかのように。
だが彼らも知っている。
これが現実だということを。
村の外れ…
不知火明原は一人佇んでいた。
手はポケットに突っ込み、
視線は亀裂の走る地面に向けられている。
瞳は静かだ。
だがその奥は…
重く、沈んでいた。
「…俺が、こいつをここへ連れてきたんだ」
その言葉は口から出ることはない。
だが、心の中では鮮明に響いていた。
彼はあの夜のことを思い出す。
あの気配。
あの圧力。
そして、その存在――
アケディア。
理解することすら不可能な存在。
俺を殺そうと思えば、いとも簡単に殺せたはずの存在が…
だが、奴はそうしなかった。
明原は拳を握りしめる。
手のひらに小さな炎が宿る。
だが、すぐにそれを掻き消した。
「…まだ、足りないんだ」
声は小さく、
まるで独り言のようだった。
「…また一人でブツブツ言ってるの?」
背後から声がした。
ライオラ・ライゼンが近づいてくる。
腕を組み、
表情は真剣そのもの。
いつもの笑みは消えていた。
「昨夜のことがあったんだ、少しは寝たのかと思ってたわ」
明原は振り向かない。
「…眠れない」
短い返事。
ライオラは彼の隣に立ち、
村の方を見た。
亀裂の方を。
村人たちの方を。
「…これは、昔の俺たちが相手してきたレベルじゃない」
明原は黙っている。
否定する言葉も出ない。
「昨夜のアイツは…」
ライオラが続ける。
「…ただの魔物なんかじゃない」
彼女は明原の方を向く。
瞳は鋭く、
「…何か別の、存在そのものなのよ」
沈黙が流れる。
数秒の時が経ち、
明原がようやく口を開いた。
「…ああ、知ってる」
声は平坦だが、
その言葉には重みがあった。
ライオラはため息をつき、
そして、核心へと話を進める。
「…それに、アイツはあの赤ん坊を探してる」
周囲の音が消えたようだった。
空気が一層、重くなる。
明原がゆっくりと振り向く。
二人の視線が交わる。
その瞳の奥に、初めて…
何かが宿っていた。
それは恐怖ではない。
ただ…
困惑だった。
「…俺も、わからないんだ」
隠し事もせず、
正直な言葉が漏れた。
ライオラは眉をひそめる。
「…明原」
声のトーンが変わる。
より真剣に、
より深く。
「…ノアって、一体何者なの?」
その問いが…
ついに投げかけられた。
明原はすぐには答えない。
彼は自分の家の方を見つめ、
まるで遠くの何かを見るように。
「…ただの、赤ん坊だ」
単純な答え。
だが、それだけでは…
到底、足りない。
ライオラは彼を見つめたまま、
納得していない様子だ。
「普通の赤ん坊が、あんな化け物を引き寄せたりするもんか」
明原は黙っている。
それは自分自身が一番よく感じていることだった。
だが…
答えなど、持っていない。
「…俺が、家の裏で見つけたんだ」
ようやく彼は口を開く。
声は小さく、
「…一人で、泣いてた」
ライオラはしばらく彼を見つめ、
それから…
長く深いため息をついた。
「…わかってるわよね?」
明原は答えない。
「もしあれが一体だけなら…」
ライオラが続ける。
「…他にも、同じようなのがいるってことよ」
そよ風が吹き始める。
だが、心を和らげるような風ではない。
「あんな存在が…」
「…一つだけなんて、ありえない」
明原は空を見上げる。
「…七つ…」
ぽつりと、呟いた。
「…え?」
ライオラが振り向く。
明原は記憶の中を探る。
あの気配。
あの圧力。
力の構造。
「…もしあれが、何らかの序列やシステムだとしたら…」
「…普通は、単体で存在しない」
彼は息を吸う。
「…だとしたら、恐らく…」
「…全部で七つ、あるんだ」
ライオラは言葉を失った。
彼女の瞳がわずかに見開かれる。
「…七つ…」
ゆっくりと、その言葉を反芻する。
「…七つの大罪…」
その名が…
妙に、しっくりとくる。
そして、恐ろしいほどに重い。
再び沈黙が訪れた。
家の中では…
ノアが動き始めていた。
瞳がゆっくりと開き、
小さくあくびをする。
そして…
くすくすと、笑い声を立てた。
小さく、
無邪気で、
穢れのない声。
明原が家に入る。
その姿を見て、
一瞬だけ…
心の重荷が解けたような気がした。
「…お前は…」
彼はゆっくりとノアを抱き上げる。
抱きしめると、
ノアはまた笑い、
明原の服を引っ張る。
まるで、外の世界の荒波など知らないかのように。
明原は長い間、その小さな存在を見つめていた。
「…なぜ…」
声は震えている。
「…お前は、ここにいるんだ…」
答えは返ってこない。
聞こえるのは、無邪気な笑い声だけ。
それが…
時に、胸を締め付けるほどに痛い。
外では、
ライオラが家の中を眺めていた。
その光景を目にし、
彼女はまた、静かにため息をつく。
「…もう、引き返せるところにはいないのよね、明原」
明原は答えない。
だが…
彼自身、それを痛感していた。
遥か南の地では…
地面が微かに震え始めていた。
それは地震ではない。
圧力だ。
鍛錬場の真ん中に、
一人の男が厳然と立っていた。
大きく、
屈強な体躯。
まるで岩そのもののような存在感。
彼の名は、
ガルドロス・ヴァルンハイム。
ムシャーフ王国に属する、石の大導師。
弟子たちを指導していた彼だったが、
突然、動きを止めた。
足を地に踏みしめ、
長年の勘が告げていた――何かが来る、と。
「…この感覚は…」
瞳を細める。
足元の大地が…
確かに震えている。
だが、魔法によるものではない。
「…魔力ではない…」
弟子たちは互いに顔を見合わせ、
困惑している様子だ。
だがガルドロスには、
すべてがわかっていた。
「…何かが、こちらへ向かっている」
彼は遥か彼方、水平線の彼方を見つめる。
南へ。
そして、久しぶりに胸の奥が熱くなるのを感じた――
この手で、受けて立ちたいと。
日ノ村に戻る。
夕暮れが迫り、
空は茜色に染まりつつあったが、
村の空気は依然として重たいままだ。
一人の村人が、おずおずと明原の家へ近づいてきた。
迷いながらも、
ようやく口を開く。
「…あの…明原さん…」
明原が振り向く。
村人の顔は強張り、
恐怖に染まっている。
「…昨夜の…あれは…」
「…やっぱり、あんたが連れてきたんじゃ…ないのかい…?」
その問いは、
単純な言葉だった。
だが…
刃のように胸に突き刺さる。
明原は何も言えない。
村人は手を握りしめ、
「…俺たちは、ただ平穏に暮らしたいだけなんだ…」
声が震えている。
「…頼む…これ以上、この村に災いなんて…持ってこないでくれ…」
沈黙。
側で見ていたライオラは、
鋭い眼差しを向けるが、
何も言わない。
明原はただ立ち尽くしていた。
怒ることも、弁解することもできず。
ただ、心の中で…
何かが崩れ落ちる音がした。
「…わかってる」
小さな声。
村人は頭を下げ、
その場を去っていく。
ライオラが近づく。
「…あれは、あんたのせいじゃない」
明原はゆっくりと首を横に振る。
「…だが、被害が出てるのは事実だ」
沈黙。
太陽が沈み、
辺りは暗くなり始める。
ライオラが決意したように言った。
「…行くしかないわ」
その言葉が、
ついに告げられた。
明原はすぐには応じない。
「ここにいたら…」
「…またこの村が標的になる」
理屈は正しい。
誰もが理解できることだ。
「…それだけは、絶対に嫌だから」
明原は地面を見つめる。
平穏な暮らしがしたかった。
そのために、全てを捨ててここへ来たんだ。
だが…
世界は、それを許してはくれないらしい。
彼は家の中を見る。
安らかに眠るノアの姿。
そして…
ゆっくりと瞳を閉じた。
「…わかった」
ライオラが僅かに目を見開く。
「…行こう」
その決断が…
今、ここに下された。
だがそれは、逃げるためではない。
守るための旅立ちだ。
明原が瞳を開く。
その瞳の奥には、
久しく見ていなかった炎が宿っていた。
それは怒りの炎ではない。
強い意志の、覚悟の炎だ。
遥か南の地…
空の色が変わり始めていた。
ムシャーフ王国の国境付近…
一つの影がゆっくりと歩いている。
何の焦りもなく、
ただ悠然と。
アケディア。
彼が一歩踏み出すたび、
大地は枯れ果て、
草は黒く変色し、
空気さえもが凍りつく。
彼は前を見据える。
王国の城壁が見えるその先へ。
「…さて、見せてもらおうか…」
瞳がわずかに開かれる。
「…この世界が、今どれほどの力を持っているのか」
そして、迷いなく一歩を踏み出す。
その先に待つのは――
更なる破滅の序章だった。
「次回更新: 4月 22日 20:20」




