第16話:東向きの海流
風が激しく吹いている。
いつもよりも、はるかに激しく。
空へとそびえ立つ絶壁の上には、まるで風そのものと一体になったかのような王国が佇んでいた。
ヴェルモラ=ゼフィリアン王国。
その上空の空は果てしなく広く、雲は目に見えない何かに押し流されるかのように速く動いている。
そして最も高い頂上に——
一人の女が、ただ佇んでいた。
長い髪は風になびき、まるで勝手に踊っているかのよう。
彼女は目を閉じている。
静かで——
まるで、他の者には聞こえない何かの音に耳を澄ましているかのようだった。
彼女の名は——
カエリス=ヴェイラ。
「風の大賢者」。
世界の変化に最も鋭敏に感じ取り、均衡を守る者。
ゆっくりと、彼女は目を開けた。
その瞬間——
表情がわずかに変わった。
「……おかしいな」
小さな声は風にかき消されそうだったが、その言葉の裏には重たい意味が込められていた。
非常に、重たい意味が。
彼女は一歩前に踏み出す。
絶壁の端からは、眼下の大地がすべて見渡せた。
森。
平野。
大地を裂くように伸びる自然の道。
そしてその先——
何かが動いている。
数が多い。
あまりにも多い。
魔物たちだ。
ゴブリン。
オーク。
その他の種族も——
だが……
彼らは攻めてこない。
破壊もしない。
怒りをあらわにもしない。
ただ、歩き続けているだけだ。
大集団となって——
同じ方向へ。
東へと向かって。
カエリスは目を細めた。
「……侵略ではない」
周囲の風が、彼女の心に応えるかのように、さらに速く回り始める。
「……これは移動だ」
彼女の足が止まった。
視線はさらに深く、遠くを見つめている。
「一つの地点を目指している……」
そこへ、数人の衛兵が駆けつけた。
「カエリス様! 魔物の軍団はまだ増え続けています! 我々は——」
「だめだ」
即座の返答だった。
静かだが——
誰も逆らうことのできない響きがあった。
衛兵たちは口をつぐむ。
カエリスは振り返りもせず、ただ魔物たちの流れを見つめたまま。
「もしこれが攻撃だったなら……彼らはとうの昔に国境を破壊しているはずだ」
彼女はゆっくりと前へ進む。
「だが、彼らはそうしなかった」
突然、風がぴたりとやんだ。
まるで世界全体が息をのんだかのように。
「……彼らは我々の存在など、目にも入っていないのだ」
その言葉に、周囲の空気が凍りつく。
衛兵たちは顔を見合わせ、理解できずにいた。
だがカエリスにはわかっていた。
そしてその事実こそ、最も恐ろしいことだった。
彼女は身を躍らせた。
体は絶壁から滑り落ちるように——
だが、落下することはない。
風が彼女を支え、抱き上げ——
木の葉が流れに従うように、軽やかに運んでいく。
瞬く間に——
彼女は魔物たちの列の真ん中に立っていた。
最初に目に入ったゴブリンが彼女に気づいた。
だが、攻撃してこない。
ただ歩き続け——
東へと向かっている。
カエリスは手を上げた。
周囲の風が集まり——
凝縮され、鋭い刃となる。
そして——
ヒュウッ——
一閃。
数体の魔物が瞬く間に切り裂かれた。
だが、血は流れない。
叫び声も上がらない。
彼らの体は亀裂が入り——
やがて——
砕け散る。
黒い灰となって——
風に舞い上がっていく。
カエリスはその場に凍りついた。
目がわずかに見開かれる。
「……魔力がない……」
彼女は残された灰を見つめる。
空っぽだ。
完全に、何もない。
核もなければ——
エネルギーもない。
命の気配すら、どこにもない。
だが彼らは動いていた。
彼女は拳を強く握りしめる。
周囲の風が震え始める。
「……これは生き物ではない」
小さな声だったが——
そこには恐ろしい真実が含まれていた。
魔力のない魔物。
法則の外にある世界。
存在してはならないもの——
彼女はゆっくりと東の方を向く。
はるか彼方だが——
彼女には感じ取れるものがあった。
そこに何かがある。
魔力でもなければ——
魔法でもない。
もっと……異質な、何かが。
「……貴様は、何を生み出そうとしている?」
ささやきは風にかき消された。
——はるか南の地。
岩ばかりの硬い大地。
空はいつもより暗く、風の重たさが肌に伝わってくる。
ムシャフ王国では、日頃から鍛錬の声が響いていた。
だが今日は、何かが違っていた。
ガルドロス=ヴァルンハイムはただ佇み——
一歩も動こうとしない。
弟子たちは待っていたが——
彼は何の指示も出さない。
手を地面につけ——
目を閉じる。
数秒が過ぎ——
やがて——
彼は目を開けた。
「……力が強まっている……」
声には重たい響きがあった。
ゆっくりと立ち上がり——
彼の視線は西の方へと向けられる。
「……そして、広がり続けている」
一人の弟子が近づいてきた。
「先生……これは脅威なのでしょうか?」
ガルドロスはすぐに答えなかったが——
答えは明らかだった。
「……ああ」
——別の場所。
柔らかな光に満たされた森の中。
エルフの国、イェルヴァリセス。
普段なら、この地の空気は柔らかな魔力の流れに満たされている。
だが今日——
その流れは乱れ——
不安定に揺れていた。
高い塔の上——
エリンドラ=シルファエルは佇み、目を開けていたが——
その意識ははるか彼方にあった。
彼女の背後で——
エアエル=アシア=シルファエルは胸に手を当て、震えている。
「私には……もう、流れについていけません……」
声が震えていた。
エリンドラは手を上げ、魔力の流れを探ろうとするが——
だが——
「……一部が、消えてしまっている」
エアエルは驚いたように彼女を見つめる。
「消えてしまった?」
エリンドラはゆっくりと頷いた。
「……まるで、魔力そのものの存在が、何者かに消し去られたかのようだ」
沈黙が降りた。
これは単なる乱れではない。
これは——消去だ。
——東の地。
大きな湖と清らかな川の流れに囲まれた王国。
水が命の源とされるこの地——
その水辺に、一人の女が佇んでいた。
長い髪。
普段は穏やかな瞳——
だが今は、鋭い光をたたえている。
彼女の名は——
セラフィナ。
「水の大賢者」。
彼女は手を水面に触れさせる。
普段なら、水は彼女の意思に応え、震え、流れを変える。
だが今日——
一部の水は何の反応も示さない。
ただ、空っぽなまま。
彼女はゆっくりと手を引っ込めた。
「……何もない」
目を細め——
はるか東の彼方を見つめる。
「……魔力を持たないエネルギー……」
小さな声だが——
はっきりとした言葉だった。
彼女は立ち上がる。
長い間感じたことのない——
不安な気持ちが、心の底からわき上がってきた。
——小さな村、ヒノムラへと戻る。
夜の闇が包み込み——
外見は静かで——
物音一つしないように見える。
だが、それは表面だけのこと。
小さな家の中——
シラヌイ=アキハラは座り込み——
手のひらの上には小さな炎が浮かんでいた。
だがその炎は震え——
安定していない。
彼はそれを見つめながら言った。
「……炎でさえ、感じ取っているのか」
彼の背後で——
リオラ=ライゼンが壁にもたれ、窓の外を眺めている。
「……近づいてきている」
アキハラは手を握りしめ、炎を消した。
だが、胸の中の不安は消えない。
部屋の片隅で——
ノアが眠っている。
穏やかな寝顔——
まるで何も起こっていないかのようだ。
だが——
夜風が窓から吹き込んだ瞬間——
ノアの目がわずかに開いた。
赤く——
深い色の瞳が——
そしてまた、ゆっくりと閉じられる。
アキハラはそれに気づかなかった。
だがリオラは——
見ていた。
彼女はその場に凍りついたが——
何も言わなかった。
——はるか西の地。
地下深く。
闇の中で何かが動き——
形を成していく。
魔力もなければ——
魂もない。
だが彼らには目的がある。
そして、すべての目的は——
一つの地点へと向けられている。
世界中が見向きもしなかった——
小さな一つの村へ。
だが今——
その村が、すべての中心となろうとしている。
——ヴェルモラへと戻る。
絶壁の上——
カエリス=ヴェイラは再び佇んでいた。
周囲の風は回り続け——
以前よりも激しく——
手に負えないほどに荒れ狂っている。
彼女は目を閉じ——
流れを感じ取る。
魔物たちの動き。
彼らの向かう先。
その真の目的——
やがて——
彼女は目を開けた。
鋭い視線が宙を切る。
「……東に……」
風が一瞬だけやんだ。
「……何かがある……」
——同じ瞬間。
小さな村で——
アキハラは家の外に立ち、夜の空を見上げていた。
静かな表情だが——
瞳には確固たる決意が宿っている。
「……彼らが来る……」
手のひらに再び炎が浮かぶ。
今度の炎は——
以前よりも安定し——
はるかに強い力をたたえていた。
伝説は——
今、再び動き始めたのだ。
そしてこの世界は——
もう二度と、元の姿には戻らない。
「次回更新: 4月 19日 20:20」




