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第15話:広がる波

日の村の朝は、いつもと変わらぬ様子で訪れた。


空は晴れ渡り、風は穏やか。

村人たちの活気に満ちた声が響き渡る。


だが、一部の者たちにとって


その穏やかさは、まるで張り詰めたガラス細工のように脆く感じられた。


村はずれの小さな家の中、不知火明原は窓辺に静かに座っていた。


彼の視線は外の世界へと向けられている。


表面的には、何もかもが平穏だ。


だが、その心の内は穏やかではなかった。


その背後では、リオラ・ライゼンが壁にもたれ、彼の様子を見守っている。


そして部屋の中央では――


ノアが木の床に座り、小さな布を手に、ご機嫌な声を上げて遊んでいた。


「…ばぁ…」


見た目には、この上なく平和な光景だ。


だが二人は知っている。


これは、ただの表向きの姿に過ぎないことを。


ようやくリオラが、沈黙を破った。


「もう一度、試してみる必要があるわ」


明原はすぐには振り向かない。


「何を、試すって?」


リオラがゆっくりと近づいてくる。


その眼差しは真剣だが、昨日ほどの刺々しさは消えている。


「この子のことを、はっきりさせるの」


彼女の視線が、ノアへと向けられる。


明原は静かにため息をついた。


本心では、こんなことはしたくなかった。


だが今回ばかりは――

彼もそれを拒むことはしなかった。


「…分かった」


リオラはノアの前に膝をつき、

ゆっくりと手を差し出す。


指先には小さな電光が灯った。


それは極めて穏やかな輝きで、

まるでただの蛍光灯か、何かの明かりのように見える。


ノアはそれをじっと見つめた。


小さな瞳が、光の動きを追いかける。


その様子は、どこからどう見ても普通の赤ん坊だ。


リオラが少しずつ手を近づけていく。


だが、特に異常な反応は見られない。


圧力もなければ、禍々しいオーラも感じられない。


ただ、純粋な好奇心だけがそこにある。


「…何も、感じないわね」


リオラが低く呟く。


だが彼女は簡単には引き下がらない。


再度、試すように、もう少しだけ近づけ、時間をかけてみる。


しかし結果は同じ。


ノアはただ無邪気に声を上げて笑うだけだった。


「…あー!」


リオラはゆっくりと手を下ろした。


数秒の沈黙の後、彼女は立ち上がる。


「…はっきりしたことは、何も言えないわ」


声の調子は平坦だ。


確証もなければ、否定する材料もない。


明原が彼女を見た。


「それなら、この子は安全だってことだ」


リオラはすぐには答えなかった。


彼女は再びノアの方を向き、静かに言う。


「…それとも、私たちがまだ、本当の姿を見ていないだけなのかも」


率直な言葉だった。


そしてその一言が、再び場の空気を重くする。


だが今回は――

それ以上は追及しない。


リオラはため息をつき、

床に腰を下ろすと、ノアのすぐ側に座った。


すると赤ん坊は、すぐに彼女の指をぎゅっと掴んだ。


小さくて、温かい手。


リオラは一瞬、呆然とその感触を味わっていた。


その表情は、いつの間にか和らいでいる。


「…本当に、ただの赤ん坊なのかもね…」


ノアがまた、くすくすと笑う。


その様子を眺めながら、明原は思った。


この騒動が始まって以来、初めて――

心の底から、少しだけ安らぎを感じていることに。




時は過ぎ、午後が訪れた。


魔物の襲撃もなければ、地鳴りもない。


奇妙な存在が姿を現すことも、一切なかった。


まるで世界全体が、彼らに少しの休息を与えてくれているかのようだった。


明原は家の外に座り、

膝の上ではノアがすやすやと眠っている。


隣にはリオラも腰を下ろし、

二人はただ黙って風に身を任せていた。


夕暮れの風がそっと吹き抜け、

土と草の薫りを運んでくる。


穏やかだ。


あまりにも、穏やかすぎるほどに。




遥か彼方の地。


南方に広がる岩肌の山々の間に、

一つの王国が聳え立っていた。


ムシャフ王国。


その地は固く、空は広く、

そして、その武力は四方の国々に知れ渡っている。


王国の広大な訓練場では、

激しい打撃音が轟いていた。


ドンッ!!


場の中央に、一人の男が立っている。


背が高く、体は筋骨隆々。

眼光は鋭く、まさに武人といった風格だ。


彼の周りには、数人の弟子たちが地面に倒れ伏し、

肩で息をしている。


この男こそ、ガルドロス・ヴァルンハイム。


“岩の師範”と呼ばれる存在だ。


彼は静かに息を吐き、

短く命じた。


「立て」


その声は厳格そのもの。


弟子たちはなんとか体を起こそうとするが、

手足は未だに震えが止まらない様子だ。


「弱い」


ガルドロスはゆっくりと歩き出す。


その一歩一歩が、地を踏みしめるように重い。


「この程度で倒れるようでは…この外の世界では生き残れんぞ」


その時、突然――


彼の足取りがぴたりと止まった。


足元の地面が――

微かに、震えているのだ。


極めて細やかな振動だが、

彼のような存在にとっては、はっきりと感知できるものだった。


彼はその場に膝をつき、

手で直接、地面に触れる。


眉をひそめ、低く呟いた。


「…これは、ただの地震ではないな」


弟子たちは顔を見合わせる。


「師範?」


ガルドロスは答えない。


彼の視線は、ただ一つの方角へと固定されている。


西へ――

遥か遠くの彼方へ。


「…何かが、動き始めている」


彼はゆっくりと立ち上がった。


その身に纏う雰囲気が、一瞬にして変わる。


重厚で、厳しく、そして警戒心に満ちたものへと。


「…しかも、自然の摂理にはない、何かが…」




日の丸村。


空は夕闇に染まり始めていた。


明原はまだ同じ場所に座り、

膝の上のノアは変わらず眠り続けている。


リオラも前を見たまま、口を開かない。


だが、彼女の思考は遠くへ飛んでいるようだった。


ようやく、明原が静かに口を開いた。


「…お前は、いつまでここにいるんだ?」


ごく普通の問いかけ。


だがその一言は、リオラを一瞬、言葉に詰まらせた。


彼女はすぐには答えない。


夕風が髪をなびかせる。


ゆっくりと明原の方を向き、

少しだけ意外そうな瞳で彼を見つめる。


「…どうして、そんなこと聞くの?」


明原は前を向いたまま、

淡々と答える。


「ただ、知りたいだけだ」


真っ直ぐな答え。

だが、どこかぎこちない。


リオラは視線を逸らした。


彼女の頬が、ほんのりと朱く染まっているのが見える。


だが、平静を装って問い返す。


「…私に、いなくなってほしいの?」


明原は黙ったままだった。


数秒の間。


何の言葉も返ってこない。


だがその沈黙こそが――

全てを物語っていた。


リオラは少しだけうつむく。


胸の鼓動が、いつもより少しだけ速くなっているのを感じる。


だが、それ以上は何も言わなかった。


明原もまた、それ以上は問いかけない。


その沈黙は――

どこか気恥ずかしく、

だけど、不思議と温かいものだった。




夜が訪れた。


村は再び深い静寂に包まれ、

家々の明かりも一つ、また一つと消えていく。


家の中では――


ノアが安らかな寝息を立てている。


明原は窓辺に立ち、

外の闇を眺めていた。


その背後に、リオラが静かに座っている。


言葉はない。


空気は穏やかだ。


だが――

確かに、何かが変わり始めている。


窓から夜風が吹き込み、

部屋の明かりの火がゆらゆらと揺れる。


まるで、安定を失ったかのように。


その様子を見ながら、明原の瞳が細められた。


また、あの感覚が蘇ってきたのだ。


彼が昔、よく知っていた感覚。


戦場で、

そして、終わることのなかった闘いの中で感じた、あの予感が。


彼は再び西の空を仰ぐ。


遥か、遥か彼方。


そして初めて、彼の中に眠る“師範”としての本能が、囁きかけた。


これは、まだ終わりなどではない。


むしろ――

本当の意味で、始まったばかりなのだ、と。


背後では、リオラが彼の背中を静かに見つめていた。


何も言わない。


だが彼女には分かっている。


変化は、すでに起きているのだと。


かつての明原が――

ゆっくりと、確実に、戻ってきつつあることを。




世界の様々な場所で。


同じ風が吹き渡り、

目には見えない何かが運ばれていく。


普通の人間には感じることのできない、微かな波紋。


だが、力ある者たちには、それがはっきりと分かる。


エルフの森で。

岩の山々の王国で。

そして、日の丸村という小さな集落で。


世界は、ゆっくりと、

だが着実に動き始めていた。


その中心で


一人の赤ん坊が、何も知らずに静かな眠りについている。


この世の全ての中心が、

この小さな存在の上にあることなど、知る由もなく。

「次回更新: 4月 18日 20:20」

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