第13話:なぜ日の村なのか?
日の村に、いつものように朝が訪れた。
空は晴れ渡り、風が野原をそっと渡っていく。鶏の鳴き声と村人たちの話し声が穏やかに響き、まるで昨夜何もなかったかのようだった。
だが、一部の者たちにとって――
その静けさは、どこか現実味のないものに感じられた。
村はずれの小さな家の中、不知火明原は窓辺に立っていた。
彼の視線は外の世界へと向けられている。
表面的には、何もかもが静かだ。
だが、彼の心の内は穏やかではなかった。
その背後で、リオラ・ライゼンが腕を組んで座っていた。
彼女の表情は真剣そのもの。
昨日までの余裕は、跡形もなく消えている。
「これは偶然じゃない」
張り詰めた空気を破るように、リオラの声が響いた。
明原はすぐには答えなかった。
だが、彼自身も分かっていた。
リオラの言う通りだ、と。
ようやく彼は口を開く。
「一番近いダンジョンは…ここから随分遠いはずだ」
リオラは頷く。
「なのに、ゴブリンが村の真ん中に現れた」
彼女は明原を見据えた。
「魔力の痕跡すら、なかった」
明原は昨夜の出来事を思い返す。
黒い灰となって崩れ去ったゴブリンの体。
それは空虚で、何一つとして後には残らなかった。
この世界の法則そのものが、捻じ曲げられているのだ。
「…まるで、無理やり生かされている何か、だな」
彼は低く呟いた。
リオラは目を細める。
「あるいは――そもそも生きるべきではない、何か」
沈黙が降りる。
二人は共通の認識に至っていた。
これはただの魔物の襲撃などではない。
これは…実験、なのだ。
部屋の片隅から、小さな声が漏れた。
「…あー」
明原が振り向く。
小さな畳の上で、一人の赤ん坊が布を握って遊んでいた。
ノア。
深紅の瞳が、壁の一点を茫洋と見つめている。
まるで、この世には見えない何かを眺めているかのように。
リオラがゆっくりと立ち上がった。
彼女の視線は、その赤ん坊に釘付けになる。
「この子が現れたのは…事件が起きる前だった」
明原は即答しなかった。
リオラが続ける。
「そしてその後から…奇妙な存在が現れ始めた」
彼女は一歩、また一歩と近づく。
その足取りはゆっくりだが、圧力が漲っている。
「これが偶然だと、思うか?」
明原がようやく彼女を見た。
その瞳は穏やかだが、僅かな緊張感が漂っている。
「彼はただの赤ん坊だ」
以前と同じ答え。
だが今回ばかりは――
その言葉は、あまりにも弱々しく響いた。
リオラはノアの前に膝をつき、その瞳を覗き込んだ。
一瞬の間――
二人の視線が交わった。
その瞬間、リオラは確かに何かを感じ取った。
極めて微かで、けれど底知れぬ何か。
彼女の中に眠る“師範”としての本能が、激しく警鐘を鳴らした。
彼女はすぐさま立ち上がる。
「…気に入らない」
明原はため息をつき、ノアをそっと抱き上げた。
「何があろうと…俺はこの子を置いていったりはしない」
リオラは返事をしなかった。
だが彼女の眼差しは変わっていた。
より一層、厳しく、真剣な色へと。
もしこの子が事の中心だというのなら――
それは即ち、この子こそが最も守られるべき存在だ、ということだ。
昼下がり。
村は再び活気を取り戻しつつあった。
だが明原の歩みは、昨日までのように気軽なものではない。
ノアを抱く腕には、いつもより力が込められている。
彼の視線は鋭く、周囲の気配を逃さない。
リオラが隣を歩く。
彼女もまた、全身で警戒し、何もかもを見据えている。
村のどの一角も、以前とは違って見えた。
まるで、何かが暗闇からこちらを窺っているようで。
その時――
パキッ…!
何かが裂ける音がした。
音の出処は、家の裏手。
明原とリオラは即座に足を止め、そちらを見た。
地面が――
割れている。
細い黒い亀裂が走り、その中から――
小さな手が、這い出してきた。
浅黒く、荒れた皮膚。
ゴブリンだ。
だが…それは何かが違う。
瞳は空洞で、光の欠片もない。
生気というものが、完全に欠落していた。
「下がれ!」
リオラの声が轟く。
周囲の村人たちが慌てて後ろへ退いた。
一体のゴブリンが這い出る。
続いて、もう一体。
計二体。
だがその放つ気配は…空虚そのものだった。
明原が眉をひそめる。
「また、か…」
リオラが手を掲げる。
指先には小さな電光が奔るが、彼女はそれを抑え込んだ。
大きく目立つことは、許されない。
最初の一体が襲いかかる。
リオラは易々と回避。
動きは速く、無駄がない。
一閃、拳が鳴る。
バキッ!
ゴブリンは弾き飛ばされた。
二体目が横から隙を窺う。
リオラは体を捻り、鋭い蹴りを一閃。
全ては数秒の出来事だった。
再び沈黙が訪れる。
だが案の定――
倒れた体は何も残さない。
ゴブリンの体は亀裂が走り、やがて――
砕け散った。
黒い灰となって、風に舞い、消えていく。
リオラはその場に立ち尽くし、数秒の間、虚空を見つめた。
「…全く、同じだ」
明原が近づき、地面に膝をつく。
手で土に触れる。
確かに何かが残っている。
だがそれは魔力ではない。
冷たく、重く、明らかに異質な感覚。
「これは魔法じゃない」
明原が呟くと、リオラが問いかける。
「じゃあ、これは何なの?」
明原は答えなかった。
だが彼の頭の中では、一つの結論が形を成しつつあった。
そしてその答えは、極めて不吉なものだった。
村人たちが落ち着きを取り戻した後も、二人はその場に留まり、地面の亀裂を見つめていた。
小さな傷だが、それは確かに存在している。
リオラが膝をつき、指でそっと触れる。
だが次の瞬間、手を引っ込めた。
「…冷たい」
顔をしかめ、彼女は続ける。
「まるで…この世界のものじゃないみたい」
明原は亀裂を見つめ、ゆっくりと立ち上がった。
彼の視線は、一つの方角へと定められる。
西へ――
遥か彼方の地平線へ。
「…源は、あそこだ」
リオラも同じ方向を見る。
彼女もまた、同じ感覚を抱いていた。
膨大なエネルギー。
深く、暗く、そして巧妙に隠された何か。
地面の底の底。
この世界の表層から、遥かに隔てられた場所。
そこは深い闇に閉ざされていた。
だがその暗黒の中に、一つの空間が存在する。
広大で、冷たく、そして静寂に包まれた世界。
その中央に、黒き玉座が鎮座していた。
そこに腰掛ける者――
アルギエル・ルシファー。
その姿は靄に包まれ定かではないが、放たれる威圧感だけで空気すらも重く歪む。
彼の側には、一人の女が佇んでいた。
穏やかで、気品に満ちた佇まい。
レイラー・ゼルナルダだ。
彼女の冷ややかな瞳が、眼前の光景を見つめている。
彼らの周囲では、闇そのものが形を成しつつあった。
ゴブリンたち。
だがそれは、本来の姿とは似ても似つかない。
魂がなく、魔力もない。ただの抜け殻。
レイラーが静かに口を開く。
「最初の実験…成功、といったところね」
その声は平坦で、まるで他人事のようだ。
アルギエルは動かない。
だがその声は、地鳴りのように響く。
「まだ、足りん」
レイラーは微かに笑みを浮かべる。
「この世界はまだ、安定しすぎている」
彼女は遠くを見つめる。
まるで、遥か上空にある日の丸村の様子すら見通しているかのように。
「だけど…ヒビは入ったわ」
アルギエルがゆっくりと手を挙げる。
彼の周囲で闇が渦巻き、新たな存在が生まれ出る。
数はより多く、力はより強く。
「試せ」
短い命令。
レイラーは頷き、その瞳に鋭い光を宿す。
「…特に、あの地点を重点的に」
日の丸村。
夕暮れの風が吹き抜ける。
だが空気は、もはや以前のものではない。
明原は佇み、西の空を見上げていた。
その眼差しは、深く、厳しい。
「これは…俺が今まで戦ってきた魔王とは、違う」
隣に立つリオラも頷く。
彼女もまた、本能でそれを理解していた。
何かが根本的に違うのだ。
より不可解で、より深く、そして――遥かに危険な何か。
夜が訪れた。
小さな家の中は再び静まり返る。
ノアが畳の上で眠っていた。
寝息は穏やかで、どこにでもいる赤ん坊のようだ。
だが――
ゆっくりと、その瞳が開かれる。
深紅の瞳が、闇の中で仄かに輝いた。
明原がそれを見た。
リオラもまた、見ていた。
二人はただ黙って、動かない。
ノアは彼らを見つめる。
無表情なまま。
その一瞬、時間が凍りついたかのようだった。
だが次の瞬間。
赤ん坊は、ふわりと微笑んだ。
まるで、ただそれだけのことのように。
瞳の輝きは収まり、いつもの姿に戻る。
そして再び、静かな寝息が響いた。
沈黙。
リオラが、声を殺して囁く。
「…明原」
明原は答えない。
彼の視線は、依然として赤ん坊の上にある。
リオラが続ける。
「もしも…」
言葉を選ぶように、一拍置いて。
「彼らの狙いが、この村自体じゃなかったとしたら?」
明原がゆっくりと顔を上げ、リオラを見た。
そしてまた、ノアへと視線を戻す。
部屋の中は、言葉にならない思いで満たされていた。
答えは、とうに出ている。
だが誰も、それを口にすることはできなかった。
ようやくリオラが、極めて小さな声で告げた。
「…狙いは、この子の中にある何か、なのかもしれない」
夜風が窓を叩く。
その瞬間、明原の胸の内に、久しく忘れていた感覚が蘇った。
明確なる脅威。
それは、過去に戦ったどんな敵よりも、巨大で、恐ろしいものだった。
「次回更新: 4月 16日 20:20」




