第99話 湯のある宿
五日目の午後には、行き交う荷車が少しずつ増えていた。
道の先に家並みが見え、その手前で、グレンが御者席のフィンへ声をかける。荷馬車は街道沿いの大きな建物の前で止まった。
軒下には、荷を下ろしている二人連れがいた。開いた入口の向こうで、前掛けをした女が卓を拭いている。
エルナは荷台の縁へ手をつき、立ち上がった。地面へ下りると、足の裏に、まだ車輪の揺れが残っているようだった。
ルークが鞄を下ろしてくれる。受け取って礼を言い、彼と入口へ向かった。
「六人と、馬が二頭だ。二人ずつで、三部屋取れるか」
グレンが、奥から出てきた男へ言った。
「ああ、空いてるよ。馬車は裏へ。明日は、セレドまでかい」
「ああ。朝に出るつもりだ」
「それなら昼には着く。橋を渡った先も、そのまま街道を行けばいい」
グレンが頷く。男は部屋の鍵を取りながら、壁際の戸へ顔を向けた。
「湯も使うなら、先に言ってくれ。順番を取っておくから。宿代とは別になるが」
「湯船があるのか?」
フィンが聞いた。
「ああ。裏で湧く湯を引いてる。ただ、一度にたくさんは出なくてね。小さい浴室を、一組ずつ使ってもらってるんだ。四人までなら入れるよ」
ニーナが、エルナへ顔を向けた。
「入れるのね」
声が、少し弾んでいた。
エルナも、男の示した戸を見る。身体を拭く分の湯ではなく、その中へ浸かれるのだという。
「俺は使うぞ」
バルドが言った。
「俺も」
フィンが続ける。ルークも頷いていた。
「先に二人、その次を四人で頼めるか」
グレンが言うと、男は手元の紙へ書きつけた。
「ああ。今の客が上がって、こっちで支度をしたら声をかけるよ。中から掛け金を下ろして使ってくれ。終わりが近くなったら、戸の外から知らせるから」
「わかった。食事も頼む」
グレンが三つの鍵を受け取る。エルナはニーナと顔を見合わせ、少し笑った。
裏へ馬車を回し、荷を運び入れた。
二階で鍵を分け、エルナはニーナと一部屋を使うことになった。ルークはフィンと、グレンはバルドと同じ部屋へ荷を運ぶ。
保存筒はグレンたちの部屋へ収め、ニーナが点検具を当てる。エルナも下に敷いた布を直し、転がらないことを確かめた。
「大丈夫。寝る前に、もう一度見るわ」
ニーナはケースを閉じ、立ち上がった。
馬の方から戻ってきたルークが、戸口へ顔を出す。
「馬は俺たちで見ておくから。二人は、湯の支度してきていいよ」
「ありがとう。そうさせてもらうわね」
ニーナは自分の鞄を持つ。エルナも荷を取り、二人で使う部屋へ移った。
寝台へ鞄を置き、外套を脱ぐ。
着替えと、身体を拭くための布を出した。髪に使う布も重ね、櫛と細い紐を添える。
ニーナも自分の荷から着替えを取り出していた。
「今日は、髪も洗えるわね」
「はい」
エルナは髪布へ指を添えた。ここ数日は、包み直す時に櫛を通していた。湯で洗えると思うと、その下の頭まで軽くなるようだった。
ほどなく、廊下から声がした。
「お湯の支度、出来たよ」
ニーナと二人で返事をし、布と着替えを持って下りる。
宿の主人に案内された戸の内側は、小さな脱衣場所になっていた。壁に棚があり、腰掛けと、その奥にもう一枚の戸がある。
「終わる前には声をかけるから、ゆっくり使っておいで」
「ありがとうございます」
エルナは礼を言い、主人が離れてから戸を閉めた。掛け金を下ろし、棚へ荷を置く。
髪布の端を引き出すと、肩から背へ、銀白の髪が落ちた。
布を畳み、左手首の腕輪も外して、その上へ置いた。
ニーナも自分の髪をほどいている。
衣服を脱ぎ、畳んで棚へ置く。
ニーナの目が、左胸の淡い紋様へ留まった。
「……これが、命紋なのね」
静かな声だった。エルナも胸元へ目を落とし、頷く。
「はい」
ニーナは少しの間、その線を見ていた。やがてエルナへ目を戻し、柔らかく笑う。
「行きましょうか」
「はい」
エルナも小さく笑い、奥の戸を開けた。
湿った温かい空気が、頬へ触れる。
石で縁を作った湯船に、湯が満ちていた。縁に沿って座れば、四人ほどでいっぱいになりそうな大きさだった。壁の湯口から細い流れが落ち、静かな室内へ、小さな音を響かせている。
エルナはニーナと並び、湯を汲んだ。
棚から小さな石鹸を取り、桶のそばへ置く。
髪を肩の前へ集め、少しずつ湯を含ませる。乾いていた束が重くなり、指の間へ収まった。
「髪、洗うのを手伝いましょうか」
ニーナが聞いた。
「お願いしてもいいですか」
「ええ。後ろを向いて」
エルナが身体の向きを変えると、ニーナが髪を背へ戻した。
「少し、頭を下げてもらえる?」
「はい」
根元へ指が入り、細かく泡立てながらゆっくり動く。
エルナは膝へ手を置いた。自分で洗う時とは、指の当たるところも、力のかかり方も違っていた。
「痛くない?」
「はい。気持ちいいです」
「よかった。長いから、少しずつ流すわね」
ニーナは髪を分け、湯をかけていく。エルナも毛先を受け取り、指でほぐした。
重くなった髪を、ニーナの手が支えてくれていた。自分で持ち上げ直さずに、次の湯を待っていられる。
「この辺り、もう一度流すわ」
「はい」
湯が頭から首の後ろへ伝い、背中へ落ちた。
最後に毛先を軽く絞ってもらい、振り返る。
「ありがとうございます。私も、手伝いますね」
「お願いしようかしら」
今度はエルナが、ニーナの髪へ湯を含ませた。
さっき自分がしてもらったように、髪を分けて洗う。湯を流す前に声をかけると、ニーナが少し頭を下げた。
「熱くないですか」
「ちょうどいいわ」
流し終えると、彼女は濡れた髪を指で集め、こちらへ顔を向けた。
「ありがとう」
エルナが頷くと、ニーナも笑った。
二人で洗った髪を高くまとめ、それから身体を洗った。ニーナが石鹸を渡してくれる。濡らした布へ擦りつけ、腕や脚を拭いていく。
肩の後ろは、ニーナが手を貸してくれた。首の下から背へ布が動き、自分では届きにくいところまで洗ってもらう。
エルナもニーナの背を洗い、肩から湯を流した。二人で桶を戻し、湯船へ向かう。
湯船の縁へ手をつく。片足ずつ湯へ入れ、内側の段へ腰を下ろした。
膝から腰へ、胸元へと、湯が上がってくる。
温かかった。
手足を伸ばすと、指の間にまで湯が触れた。縁へ背を預け、肩を下ろす。
息が、長く出た。
隣で、ニーナも湯の中へ腰を落ち着けていた。目が合い、彼女の口元が緩む。
「いいわね」
「……はい」
エルナは小さく答え、もう一度息を吐いた。
澪だった頃には知っていた、身体ごと湯に包まれる感覚だった。思い出すことも少なくなっていた温かさが、今は肌へじかに触れている。
膝の上で指を開いた。湯の中の手が、ゆっくり揺れる。
「こうして浸かるのは、初めてです」
ニーナが顔を向けた。
「そうなの?」
「小さい頃のことは、わかりませんけど。森では、こんなふうに入れるところがなかったので」
「そう。じゃあ、今日はゆっくり入りましょう」
ニーナは背を縁へ預けた。
「私も、随分久しぶりだわ。こういう宿に泊まれる機会、なかなかないもの」
「仕事で泊まる先に、あったりするんですか」
「たまにね。でも、大抵は部屋と食事で決めるから。ここに湯があるのも、知らなかったわ」
そう言って、彼女は湯へ目を落とした。
「よかった。今日ここまで来られて」
エルナも頷いた。
湯の中で足を少し伸ばす。ニーナも足の置き場所を変え、二人の間に小さな波が立った。
「馬車に座っているだけでも、身体が固まるものね」
「はい。下りた時に、足が変な感じになりました」
「まだ揺れているみたいな?」
「そうです」
「私もよ。地面にいるのにね」
エルナは笑った。
ニーナも笑い、また背を縁へ預ける。
湯口から、細い音が続いていた。戸の向こうで誰かが歩き、その足音も遠ざかっていく。
エルナは縁へ腕を置き、そっと目を閉じた。
手も足も、今は動かさずにいられる。水袋の残りを気にしながら布を絞る必要もなかった。
隣でニーナが身じろぎした時だけ目を開け、顔を見合わせる。どちらも何も言わず、また湯へ目を戻した。
しばらくして、エルナはニーナへ顔を向けた。
「そろそろ、上がりますか」
彼女はすぐには身体を起こさなかった。湯へ目を落とし、それからエルナを見る。
「……あと少しだけ、いい?」
エルナの口元が緩んだ。
「はい。私も、まだ入っていたいです」
「じゃあ、もう少しね」
ニーナが笑った。
エルナも縁へ背を戻した。さっきより、少しだけ足を伸ばす。
それからしばらくして、戸の外から声が掛かった。
「もう少しで時間だよ。上がる支度を頼むね」
「わかりました」
ニーナが返事をした。エルナと顔を見合わせ、今度こそ二人で腰を上げる。
身体を拭いて着替えた。濡れた髪を下ろし、布で水気を取る。外へ出る前に乾いた布で髪を包み直し、腕輪を左手首へ戻した。
戸を開けると、廊下の空気が頬へさらりと触れた。
階段のそばに、着替えを手にした男性たちがいた。
「どうだった?」
ルークが聞いた。
「とても、気持ちよかったです」
答えると、彼も少し笑った。
「よかった」
「ルークも、ゆっくり入ってきてください」
「うん」
「お待たせ。少し整えるから、もうちょっと待ってくれ」
主人が桶を持って浴室へ向かった。
フィンはその背を見送り、バルドへ何か話しかけている。エルナはルークともう一度目を合わせてから、ニーナと階段を上がった。
部屋へ戻って戸を閉め、髪を包んだ布を外す。
湿った束を下ろすと、肩の辺りへ空気が通った。寝台の端へ座り、別の布で挟むように水気を取っていく。
ニーナも自分の髪を拭きながら、椅子へ腰を下ろしていた。
しばらく、それぞれの髪をほぐして過ごした。エルナが後ろへ布を回しにくそうにしていると、ニーナが端を受け取ってくれる。エルナも、彼女の肩へ落ちた濡れた束を、布の内側へ戻した。
廊下を、何人かの足音が通っていった。
髪が乾いてくるのを待ち、エルナは櫛を取った。毛先から少しずつ通し、絡んだところを指で分ける。
ニーナは先に髪をまとめ終え、使った布を広げて掛けていた。
下から、料理の匂いが上がってくる。
エルナも髪をまとめ、布の中へ収めた。櫛と紐を鞄へ戻し、ニーナと部屋を出る。
*
夕食の卓へ揃う頃には、窓の外が暗くなり始めていた。
エルナはルークの隣へ座り、運ばれてきた器を受け取った。根菜と豆の煮込みに、薄く切ったチーズ。卓の真ん中には、パンの籠が置かれる。
ニーナが杯の水を飲み、椅子の背へ身体を預けた。
「今日はもう、立ちたくないわ」
「飯は座って食えるぞ」
バルドが言い、パンを取った。
「ええ。ありがたいわね」
ニーナは真面目な顔で答え、それから笑った。
エルナも匙を取った。柔らかく煮えた豆を口へ運ぶ。湯から出たあと、空腹になっていたことに、ようやく気づいた。
「二人なら、足、伸ばせた?」
フィンが聞いた。エルナは匙を置き、頷く。
「はい。ニーナと並んで入れました」
「いいな。こっちは伸ばすと、向かいに当たるんだよ」
「お前が先に伸ばしたんだろうが」
バルドが言った。
「だから、途中で替わっただろ」
「フィンが伸ばすと、バルドが縮めるんだよな」
ルークが言う。
「そっちへ来るんだ。避けるしかないだろ」
バルドはパンを割り、片方を煮込みへ浸した。
「俺の方にも来てたぞ」
グレンが言った。フィンが、ああ、と笑う。
「最後は、誰も動かさなくなってたけどな」
「浸かってりゃ、十分気持ちいいんだよ」
バルドが答えた。
ニーナが、わかるわ、と頷く。エルナも笑い、卓の下で自分の足を少し前へ伸ばした。
隣のルークへ膝が触れ、彼がこちらを見る。エルナが引こうとすると、彼は小さく笑って首を振った。そのまま肩を少し寄せてきたので、エルナも足を戻しすぎず、椅子へ座り直した。
フィンは杯を取ってから、グレンへ顔を向けた。
「帰りも、ここで泊まろうぜ」
「セレドを朝に出たら、昼にはここだぞ」
グレンが返した。
「最初から、半日で泊まる気か」
「昼から入れるなら、それはそれでいいだろ」
「湯だけ使えるか、聞いてみましょうよ」
ニーナが言った。
フィンが彼女を見た。
「泊まらなくても?」
「ええ。それなら、途中で寄れるでしょう」
ニーナは通りかかった主人へ声をかけた。
「ここは、湯だけ使うことも出来るの?」
「ああ。空きがあればね。帰りにも通るのかい」
「そのつもりなの。また寄れたらと思って」
「それなら、寄った時に声をかけてくれ。使える時間を見てみるよ」
主人が隣の卓へ向かう。ニーナは満足そうに杯を取り、フィンへ顔を戻した。
「使えるそうよ」
「聞くの、早いな」
「わかった方がいいでしょう」
フィンが笑った。
「そうだな。帰りの楽しみ、出来たし」
「お前たち、まだ届け終わってないぞ」
グレンも笑っていた。パンの籠を右手で引き寄せ、左腕の置き場所を少し変える。
「帰りの時間は、その時に見よう」
「おう」
バルドまで頷いた。
エルナは、向かい合った四人を見た。ニーナがもう一口水を飲み、フィンは主人の去った方へ、まだ笑った顔を向けている。
帰りの道に湯がある。その話だけで、さっきから皆の声が明るかった。
「ニーナも、よほど気に入ったんですね」
エルナが言うと、彼女は杯を置いた。
「ええ。ここの名前、あとで書き留めておくわ」
「私も、またニーナと入りたいです」
エルナが言うと、彼女は笑みを向けた。
「ええ。次も、髪を洗い合いましょう」
「はい」
エルナも笑いながら、パンを一つ取った。
籠をルークへ寄せると、彼も手を伸ばす。指が少し触れた。彼がこちらを見たので、エルナはそのまま小さく笑った。
食事処には、ほかにも湯から上がってきたらしい客が増えていた。髪を布で拭きながら椅子へ座る人がいて、主人が杯を運んでいく。
隣の卓から料理の追加を頼む声がした。バルドも器を見下ろし、もう少し食べるかと言う。フィンがすぐに頷いた。
「エルナは?」
ルークが聞いた。
「今の分で、ちょうどよさそうです」
「俺も」
二人で残った煮込みを食べる。向かいでは、ニーナがフィンから回ってきたチーズの皿を受け取っていた。
グレンが、朝の食事の時間を主人へ確かめる。エルナも聞きながら、匙で器の底をすくった。
明日はセレドへ着く。
届けるものも、調べてもらいたいものもあった。けれど今は、追加のパンを分けている二人の方へ、つい目が向く。
「大きい方、食うか」
フィンが聞いた。
「おう」
バルドが答えると、そちらが渡る。代わりにチーズの皿が寄せられ、フィンが一切れ取った。
エルナは口元を緩め、空になった器の横へ匙を置いた。
*
食事を終え、卓の上を空けていると、ルークがそばへ来た。
「少し、外に出ない?」
「はい」
エルナは頷き、椅子に掛けていた外套を取った。
ニーナはそろそろ筒を見てから部屋へ戻ると言い、グレンから鍵を受け取っていた。フィンは、皿に残っていたチーズをパンの端へ乗せている。
エルナはルークと裏手の戸を出た。
馬車を置いた囲いの手前に、小さな中庭がある。壁際には木の腰掛けがあり、入口から少し離れた端が空いていた。
ルークがそこへ向かい、エルナも並んで腰を下ろす。
開いた戸口から、食事処の声が届いた。風が通ると、フードの縁が頬へ触れる。エルナは指で直し、少し顔を上げた。
ルークがこちらを見ていた。
「どうしたんですか」
「今日は、よく笑ってるなと思って」
「そんなに、違いますか」
「うん。ニーナと戻ってきた時も、さっきも」
エルナは、湯の中でなかなか上がろうとしなかったニーナと、帰りのことを真っ先に尋ねた彼女の顔を思い出した。
「楽しかったです。皆、湯の話になると、いつもと少し違って」
「グレンも、帰りの時間を考え始めてたしな」
「はい」
エルナが笑うと、ルークも笑った。
彼も腰掛けの背へ少し寄り、脚を前へ伸ばす。肩が触れた。
エルナはそのまま、二人の間に残っていた隙間を詰めた。ルークの腕が背中へ回り、ゆっくり抱き寄せられる。
肩へ頬を預けると、彼のそばから、湯場と同じ石鹸の匂いがかすかにした。
「眠い?」
近くで聞かれた。
「少し」
エルナは答え、彼の腕へ手を添えた。
「でも、まだ戻りたくありません」
「じゃあ、ここにいようか」
「はい」
ルークの手が、肩の辺りを一度撫でた。エルナも少し身体を預ける。
戸の向こうで、器が重なる音がした。誰かが笑い、その声が遠ざかる。
エルナは目を閉じた。
「寝たら、起こすよ」
「寝ませんよ」
「今、目、閉じてた」
「気持ちよかっただけです」
ルークが小さく笑った。その動きが、頬にも伝わってくる。
エルナは目を開け、顔を上げた。
「……ルークの隣だと、気が緩むんです」
彼の笑みが、少し変わった。エルナを見る目が近い。
「それは、嬉しいな」
背中に回っていた手が、もう少しこちらを引き寄せる。
エルナは彼の腕を持ったまま、顔を近づけた。ルークも顔を傾け、唇が触れる。
柔らかく重なり、少しして離れた。
まだ近くにある彼の顔を見ていると、口元が緩む。ルークの指が頬へ触れた。
「目、覚めた?」
「……それは、覚めます」
彼が笑った。
エルナも笑い、頬にある手へ、自分の手を重ねる。
「ルークだって、さっきから戻ろうとは言いませんね」
「言いたくないから」
返事はすぐだった。
エルナはその顔を見た。こちらを抱く腕も、頬へ触れている手も、そのままだった。
「じゃあ、まだ言わないでください」
「うん」
ルークが笑う。
エルナは彼を見上げたまま少し身体を起こし、今度は自分から唇を重ねた。
背中の腕へ少し力が入る。離れてからも、彼の手が頬をゆっくり撫でていた。
エルナはその掌へ頬を寄せ、また彼の肩へ戻った。
話す言葉がなくなっても、離れたいとは思わなかった。フードの上へ、彼がそっと頬を寄せる。エルナも腕に添えた手を少し滑らせた。
指先が重なると、ルークがその手を取った。
エルナは握り返し、二人の膝の間へ下ろした。
しばらく、庭を通る風と、戸口から届く声を聞いていた。ルークが時折こちらを見るので、エルナも顔を上げる。目が合えば、また少し笑ってしまう。
食事処の音が、少しずつまばらになっていった。
「そろそろ、戻ろうか」
ルークが言った。
エルナは頷いた。今度は自分から身体を起こし、繋いだ手を引く。
「はい」
二人で立ち上がる。ルークは手を離さず、戸口まで並んで歩いた。
中へ戻ると、卓の幾つかは空いていた。主人へ挨拶をし、階段を上がる。
エルナの部屋の前で、足を止めた。
「おやすみなさい、ルーク」
「おやすみ」
指をほどく前に、エルナはもう一度、その手を握った。
ルークも握り返してから、ゆっくり手を離す。
廊下の先へ向かう背中を見送り、エルナは扉へ手を掛けた。彼が振り返ったので、また少し笑う。
ルークも笑っていた。
エルナは口元の緩みをそのままに、自分の部屋の戸を開けた。




