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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第6章 広がる世界
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第98話 留める力


 次に荷馬車が止まったのは、道が緩く曲がる手前の木陰だった。


 グレンが林の中を確かめ、フィンが馬を寄せる。街道からは少し離れていたが、木々の間から、来た道も先の道も見えた。


 エルナは荷台から下り、水袋を取った。グレンが左腕へ当てていた布を外している。赤くなったところは、まだ腫れていた。


「濡らし直しますね」


「ああ。頼む」


 受け取った布へ水を含ませ、軽く絞って渡す。グレンはそれを腕へ当て、道を見渡せる木のそばへ腰を下ろした。


 馬のそばでは、フィンが具を緩めていた。バルドが水を運び、ルークは荷の縄と、御者席の脇に収めた盾を確かめている。


 エルナが昼に食べるものを出していると、ニーナが点検具をケースへ戻した。


「筒は、今のところ大丈夫よ」


「はい。パン、ここへ置きますね」


「ありがとう。それで、さっきの足のことなんだけど」


 エルナは包みから手を離した。


「もう少し、聞かせてもらえる?」


「はい」


 ニーナの隣へ腰を下ろす。ルークも水袋を置き、荷台へ片手を添えて立った。


「熊が足をついた時、そのまま、そこに留まってくれたらと思ったんです。湯や井戸水の時みたいに」


「足を、地面へ?」


「はい。そうしたら、似た手応えがありました」


 地面を踏みしめた、太い前脚。肩がせり上がり、その爪がまたルークを追おうとしていた。


 思い出すと、膝の上の指が少し曲がった。


「あの足、エルナが止めたのか」


 馬のそばから戻ったバルドが言った。


「止まった、と思います。私も、触らずに出来たのは初めてで」


「それで、あの傷へ入れたんだな」


 グレンがルークへ顔を向ける。ルークが頷いた。


「ああ。あの時なら届くと思った」


 バルドも、自分の斧へ目を向けた。


「こっちを向き直られずに済んだのは、助かったな」


 エルナは三人を見た。あの短い間に、それぞれが動いていた。自分から何かを伝える間もなく、足が留まった隙へ踏み込んでくれた。


「今も、同じように出来そう?」


 ニーナが尋ねた。


「……見てもらってもいいですか。あの時と同じことが出来るか、私も確かめてみたいんです」


 ニーナは一度、エルナを見た。エルナは胸元へ目を落とし、言葉を付け加えた。


「命紋のことも、あとで見てみます。今まで試した分も、どうなっているか」


「ええ。確かめたら、教えてくれる?」


「はい」


 ニーナは足元へ目を落とした。


「足を留めるなら、座っている人の片足はどうかしら。立ったまま足が上がらなくなったら、転ぶかもしれないもの」


「足なら、俺のでいいぞ」


 バルドが鞄を置き、木の根元へ腰を下ろした。片方の膝を立て、靴底を土へつける。


「これでいいか」


「はい。そのままで、お願いします」


 エルナも立ち上がった。二歩ほど離れたところで、土に接した靴へ目を向ける。


 熊の足は、もっと大きかった。けれど、今、留めたいところは同じだった。


 この靴底が、地面から離れないように。


 意識を向けると、押さえるような小さな手応えが返った。熱を移す時の流れはなかった。


「……今、やってみました」


 バルドが膝を上げようとした。


 靴は動かなかった。


「お」


 もう一度足元を見て、膝へ手を置く。


「上がらんな」


 エルナも靴底を見た。土へ深く埋まったわけではない。さっき置いた、その場所にあった。


「痛くはないですか」


「ない。靴を地面へ押さえられているような感じだな」


 その答えに、エルナは少し息を緩めた。バルドは身を屈め、靴と地面の境を覗き込んだ。


 それから反対の脚を伸ばし、上体を少し横へ向ける。留まっている方の膝も、傾けることは出来る。けれど、靴底は離れなかった。


 フィンが馬の向こうから顔を出した。


「そんなに動かないのか」


「ああ。こっちは動くんだがな」


 バルドが反対の靴を浮かせてみせる。フィンは道の方へ一度目を向け、それから二つの足を見比べた。


「変な感じだな。見た目は、ただ座ってるだけなのに」


「熊も、こんなふうだった」


 ルークが言った。


「全部が動かなくなったわけじゃない。動く方の爪は、まだ振ってたから」


 グレンも頷いた。左腕は休めたまま、目は街道とバルドの足元を行き来している。


 ニーナがエルナへ尋ねた。


「器の時と、感じは似ている?」


「はい。温かさを残した時と、同じような感じでした」


「今も、何かしているの?」


「保とうと思ったのは、今の一度だけです」


 エルナは自分の指を見た。何も掴んではいない。さっきの手応えはあったが、そのあと、足を押さえ続けようとはしていなかった。


 バルドは膝から手を離し、水袋を取った。栓を開けて一口飲む。その間に、フィンは馬の鼻先へ手を伸ばしていた。


 ニーナが、土に接した靴の横へしゃがむ。


「湯の方も、あとから冷め始めたのよね」


「はい。ずっと、そのままではありませんでした」


「なら、これも……」


「おう。今は上がるぞ」


 バルドが片足を持ち上げていた。


 エルナは顔を向けた。靴底が土から離れ、その下へ影が出来ている。強く引いた様子はなかった。


「今、何か変えた?」


 ニーナが尋ねる。


「いいえ。何もしていません」


 バルドは足を戻し、今度は両足を揃えて立ち上がった。


「戻ったな」


 フィンが言う。バルドも頷き、靴の裏についた土を軽く払った。


 ニーナは立ち上がり、エルナへ顔を戻した。


「温度も、靴底の位置も、その時の状態が残ったのね」


「はい」


「エルナが残ってほしいと思った状態を、保っていたのかしら」


 エルナは、バルドの足元を見た。


 そこに留まってほしいと思った。


 湯の時にも、井戸水の時にも。


「……そうなのかもしれません」


「定着、と呼んでみましょうか。まだ、仮だけど」


「定着」


 口にすると、指の下で何かを押さえたような、あの感覚が浮かんだ。


 何をしたのか、自分でもうまく言えなかった。けれど今は、ニーナも、ルークも、バルドの足に起きたことを見ている。


「その言い方、近い気がします」


 ニーナが笑った。


「筒の記録にも、今のことを足しておくわ。あの日に落ち着いていたことと、関係があるかもしれないもの」


「はい。お願いします」


 彼女が荷台の筒へ目を向ける。蓋の近くの輪へ指を添え、位置を確かめてから、ケースの脇にある帳面を取った。


 エルナも食べ物の包みへ戻った。


 名前をつけても、何が起きているのか、全部分かったわけではない。それでも、ニーナの言葉を聞いて、自分の感じたものが少しはっきりした気がした。


「パン、回してくれ」


 バルドに言われ、包みを差し出す。


 彼が取ったあと、ルークへ渡った。フィンも馬のそばから戻り、端へ腰を下ろす。


 エルナは自分の分を取り、ニーナの置いた帳面を一度見た。彼女は書き終えると、パンを受け取って隣へ座った。


     *


 午後も、御者席にはフィンが座った。


「腕は、そのまま休めとけよ」


「ああ。次の分かれ道は、右だ」


「わかった」


 グレンは前を歩き、ルークが荷馬車の右脇へつく。エルナも荷台へ戻り、鞄を足元へ寄せた。


 木陰を抜けると、荷台へ日が差した。ニーナが筒の覆いを直し、エルナも自分のフードの縁を引いた。


 道は、山裾を離れたり、また近づいたりしながら続いていた。


 木々の間へ意識を向けると、魔力がある。


 普段なら、そこにあるだけの感覚だった。けれど今日は、妙に濃く感じるところがあった。しばらく進むと気にならなくなり、また別のところで、落ち着かないものを拾う。


 ラーデンから、もうずいぶん離れた。


 それでも、いつもと違うと感じるものがあった。


 初めて魔石の中の力を感じた時、ロザリーは、それが魔力だと教えてくれた。


 あの人なら、今の土地をどう感じるのだろう。


 車輪が小さな窪みを越えた。エルナは荷台の縁を持ち直し、道を歩くルークへ目を向ける。彼は前を見ていたが、少ししてこちらに気づき、顔を上げた。


 エルナが笑うと、彼も口元を緩めて、また道へ目を戻した。


 夕方には、街道から木立へ入った場所で馬車を止めた。


 奥の草は低く、荷馬車の脇に寝床を広げる余地もあった。グレンとフィンが周囲を確かめ、馬を外す。


 エルナはニーナと荷を下ろし、食料や鍋を出した。それから、水を分けた器と、身体を拭く布を取る。


 荷馬車の脇へ、ニーナと二人で目隠しの布を張った。向こうでは、ルークが火に使う枝を分けている。グレンは枝道の見えるところにいて、フィンが馬へ水を与えていた。


「先に使っていいわよ」


「ありがとうございます」


 エルナは器を持って布の内側へ入った。


 まだ、肌の上の細い線を見られる明るさがあった。


 襟元を緩める。


 左胸に、淡い紋様が見えた。


 ラーデンで目を覚ました日に、ここを確かめた。火事の前にはなかった細い線が、端へ伸びていた。


 エルナは、その線を目でたどった。


 先は、覚えているところで止まっている。さらに枝分かれした線も、新しく伸びた線も見当たらなかった。


 あれから、筒へ触れた。


 湯の温かさを残し、井戸水でも試した。今日は、熊の前脚を留めた。そのあとには、バルドの靴も。


 何度か使った。


 それでも、命紋はあの時のままだった。


 エルナは、少し肩を下ろした。


 熱を移す時とは違う。手応えだけでなく、こうして目で確かめたあとにも、違いがあった。


 もう一度、細い線の先を見る。


 増えていない。


 襟元を戻し、布を水へ浸す。手を動かし始めてからも、口元が少し緩んでいた。


 身体を拭き終え、布の外へ出る。使った水を木の根元へ捨て、器をすすぎ、水袋から新しい水を注いだ。


 ニーナは筒を見終え、食材の包みを開いていた。


「次、どうぞ」


「ええ。ありがとう」


 エルナは声を少し落とした。


「命紋も、見てみました」


 ニーナが手を止める。


「ラーデンで確かめた時から、線は増えていませんでした。あのあと、何度か使っていますけど」


 枝を置いていたルークも、顔を上げた。


「変わってなかった?」


「はい」


 答えると、彼の表情が緩んだ。


 ニーナも、小さく息を吐いた。


「そう。確かめられたのね」


「はい。今まで試した分では、進んでいませんでした」


「……よかったわ」


 その声を聞いて、エルナも笑った。


 ニーナは器を受け取り、目隠しの内側へ入った。エルナは根菜の包みの前へ座り、ナイフを取る。


 ルークが隣へしゃがんだ。


「皮は、俺が剥くよ」


「じゃあ、これをお願いします」


 渡すと、彼も自分のナイフを出した。


 皮を剥いたものが、少しずつ板の上へ並んでいく。エルナは受け取ったものから切り、二人の間に置いた鍋へ入れた。


     *


 夜番の時間には、風が少し出ていた。


 エルナはフードの縁へ触れ、林の方へ顔を向けた。枝葉の擦れる音がする。荷馬車の向こうで馬が身じろぎし、見に行っていたルークが戻ってきた。


「落ち着いてる。虫が気になったみたいだ」


「そうですか」


 二人は寝床から少し離れたところへ並んだ。火の明かりは背中側にあり、道へ続く木々の間は暗かった。


 エルナは、その奥へ意識を向けた。


 昼ほど、気になるものはない。


「ルーク」


「うん?」


「魔力のことなんですけど。ラーデンを離れても、少し変なんです」


 彼がこちらを向いた。


「あの、火事の前に感じたのと同じ?」


「似た感じのところはありました。でも、あの夜ほど強くはありません」


 エルナは林へ顔を戻した。


「ずっと同じではなくて。道を進んでいると、気にならなくなったり、また濃く感じたりします」


「今は?」


「今は、それほどでもないです」


 ルークも暗い木々へ目を向けた。


「俺には、いつもの林に見えるな」


「はい。見た目では、分からないんです」


「熊が出てきたのも、そういうのと関係あるのかな」


 エルナは、山の斜面を見ていたバルドを思い出した。


「それも、まだ分かりません。水や餌が少なくなったのかもしれませんし」


「あの村でも、猪が畑へ出てたな」


「はい」


 井戸へ継ぎ足された縄。葉に出ていた、小さな斑点。


 井戸や畑なら、ルークも同じものを見ていた。けれど、今話している感覚は、言葉を探して伝えるしかない。


「ほかの土地では、どうなんでしょう」


 口にしてから、エルナは少し考えた。


 自分が通ってきたのは、森と山小屋、その周りの村や、ラーデンへ続く道だった。


 もっと遠い場所で、魔力を感じて暮らしている人もいる。


「ほかの魔女も、同じように感じているのかもしれませんね」


「魔力の変わり方を?」


「はい。その人のいる場所ではどうなのか、聞けたら」


 風が弱まり、葉の音が遠くなった。


 昼、ニーナは自分の話を聞き、湯と靴底に起きたことを並べてくれた。ルークやバルドが見た動きも、自分の手応えとつながった。


 自分だけで考えていた時には、うまく言えなかったことだった。


「……私、ほかの魔女にも会ってみたいです」


 ルークが、エルナを見た。


「ロザリー以外の?」


「はい。今の魔力のことや、その人が暮らしている場所のことを、聞いてみたいです。私が知らないものも、見ているでしょうし」


 誰かが、すべての答えを知っているとは思わなかった。


 ただ、同じものを感じる人が、別の場所で何を感じているのか。その人の言葉で聞いてみたかった。


 エルナは髪布の端へ指を添えた。


「私と同じように、隠して暮らしているかもしれませんね。その人が話してもいいと思ってくれるなら、聞いてみたいです」


「うん。そういう機会があったら、いいな」


 ルークは一度、道の方へ顔を向けた。しばらく様子を見てから、声を戻す。


「セレドなら、各地の話が集まってるだろ。水のことも、魔獣のことも。そういう話を聞いているうちに、何か分かるかもしれない」


「はい」


「俺も、気になってる。熊まで山から下りてきてるなら、この先の道がどうなってるかも知っておきたい」


 エルナは頷いた。


 届ける書類があった。筒の中のものを調べてもらい、ほかの土地で起きていることも聞きたかった。


 その先に、会って話してみたい相手も出来た。


 遠くで枝葉が鳴り、二人は声を止めた。風が梢を渡り、道の方へ抜けていく。馬は静かだった。


 エルナは髪布から手を下ろした。


「その人にも、私の見たことを話せるといいですね」


「うん。向こうにも、エルナに聞きたいことがあるかもしれない」


 エルナは、少し笑った。


 自分が尋ねることばかり、考えていた。


 けれど、ラーデンで感じたものや、小屋の近くの水場のことなら、自分にも話せる。今日、仲間と一緒に確かめたことも。


 どんな声で、どんなふうに話す人だろう。


 まだ顔も名前も知らない相手に、話してみたいことが少しずつ浮かんでいた。




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