第97話 祈る者たち
Side:セレドの聖職者
乾いた豆が、木の升から袋へ落ちた。
イレーネは袋の底を軽く揺すり、収まりを確かめた。向かいで口を支えていたクラウスが、脇へ置いた木札を取る。
「粉は、これで全部か」
「今日出せるのは、それだけね。ほかの村へ送る分も残さないと」
クラウスは壁際の袋へ目を向けた。
セレドの聖環教会には、周辺の村から救援の要請が届いていた。井戸から汲める水が減った。作物の育ちが悪い。手紙に書かれていることは、どこも少しずつ似ている。
机の端には、今朝読み直した書簡が開いてあった。
そこには、畑へ向かう道で魔獣を見かけることが増えたとも記されている。働きに出るのを控える日が続き、残っていた食料だけでは足りなくなりそうだという。
「畑に出られないのでは、次も困る」
「ええ」
イレーネは頷き、木札に記された届け先を確かめた。
頼まれた分を、全部は揃えられない。それでも、ここに置いたままでは、誰の腹も満たせなかった。
「まずは、これを送ってもらいましょう」
クラウスが袋の口を寄せ、紐を巻いた。イレーネも隣の袋を引き寄せ、布の継ぎ目に破れがないか確かめる。
窓は開けてあった。庭から入る風が、机の上の紙の端を持ち上げた。
荷をひとまとめにしたところで、イレーネは昼の便で届いた書簡へ手を伸ばした。
「ラーデンからか」
「ええ。向こうの教会からよ」
火事があったという知らせは、先に届いていた。被害の詳しい様子については、まだわからないことが多かった。
イレーネは紙を広げた。
巨大な猪のような魔獣が現れ、身体から火を噴いた。乾いた草や柵に燃え移り、家を焼かれた者もいる。
現地の教会では、被災した人々の食事や寝場所の世話を続けているという。
その下の一行を読み、イレーネは小さく息をついた。
「亡くなった方は、いなかったそうよ」
「そうか」
クラウスの声も、少し緩んだ。
「それはよかった」
「怪我の治療が続いている方は、いるみたい。でも……」
続きを読んでいた目が止まる。
白銀の長い髪をした、若い魔女。
消火に加わった者たちから、その魔女に助けられたという話を聞いたと記されていた。
炎が急に弱まり、近くの空気が冷たくなった。同じ頃、空から白い小さなものが降り、地面や屋根を覆ったという。
「……白いもの?」
「何だ?」
クラウスが顔を上げる。
「火事の最中に、空から白いものが降ったとあるわ」
「雨ではなく?」
「ええ。触れると冷たくて、手の上で水になったそうよ」
クラウスは結び終えた袋から手を離した。
イレーネは、袋の口に残った粉へ目を向けた。あんなふうに、さらさらしたものだったのだろうか。
窓の外には、薄い雲が浮かんでいた。あの空から庭を覆うほど降ってくる様子を思い描こうとしても、うまく形にならなかった。
書簡の後ろには、見慣れない名が添えられていた。
雪。
役所で古い記録を調べたところ、似たものが見つかったという。その名から、街では魔女を「雪の魔女」と呼ぶ者がいるらしい。
「雪の魔女、と呼ばれているそうよ」
「雪……」
クラウスが、その言葉を繰り返した。
イレーネは書簡を差し出した。彼は手を拭って受け取り、目を通し始める。
机には、村から届いた要請も開いたままになっていた。
水が足りない。畑へ出られない。次に食べるものを、何とか送ってもらえないか。
イレーネは、その紙を窓から入る風の届かないところへ寄せた。
「火へ近づけるようになったと、ここにあるな」
クラウスの声に顔を上げる。
彼が指しているのは、消火に加わった者の話だった。
「ええ。水を運んでいた人たちも、助かったのでしょうね」
イレーネは頷いた。
燃える家の前で、水を運び続ける。熱に阻まれ、近づけない時のことは、想像できた。その熱が和らいだのなら、どれほどほっとしただろう。
「力を貸してくれたのね」
口にしてから、書簡の中の「魔女」という文字をもう一度見た。
クラウスは紙を机へ戻した。その指が、村から届いた要請の端へ触れる。
「あの村の者たちがこの話を聞けば、魔女に来てほしいと思うかもしれん。井戸の水を増やしてくれ、畑を元に戻してくれと」
「……そうね」
「だが、魔女が人々を殺したという記録も残っている。助かったという話だけで、警戒を解いてよいのか」
イレーネも、教会で学んだ時に読んだ覚えがあった。遥か昔のことで、記述はわずかしか残っていないという。
魔女が迫害に抗って人々を害したのか、人々を害したことで迫害が始まったのか。どちらが先だったのかは、その記録からは分からなかった。
「また人が害されてからでは、遅い」
クラウスは、村からの書簡を手元へ寄せた。
「水が足りず、畑から糧が得られない。獣の出方まで変わってきている。女神の定めた巡りが、どこかで乱れているように思える」
イレーネは、壁際に残った食料へ目を向けた。
以前と同じだけ送れれば、それで足りるという話ではなくなっていた。前の便を出したばかりの村から、また要請が届くこともある。
「そんな時に、こういう力の話が届く。巡りの乱れと、無関係なのだろうか」
「この魔女が、水や畑の異変に関わったという話はないわ」
クラウスは、すぐには答えなかった。
イレーネにも、何が起きているのかは分からない。
魔女の力に頼ってはいけない。
何度も教わり、自分でも人へ伝えてきた言葉だった。クラウスが案じていることは、イレーネにも分かる。人々が危険な目に遭わないようにするのも、自分たちの務めだった。
それでも、書簡には助けられた人たちの話が残っていた。
火へ近づけるようになった。
その短い一文へ、もう一度目を落とす。
魔女だと知っていても、その場にいた人たちは、助かったと話している。
「向こうへ、もう少し詳しく聞いてみましょう」
イレーネは言った。
「魔女のことをか」
「ええ。あの場で何があったのか。助けられた人たちが、何を見て、どう感じたのか」
クラウスが書簡へ目を戻す。
「向こうの教会で話を聞いてくれた人に、頼んでみるわ」
「……そうだな。私も、詳しく知りたい」
イレーネは頷いた。
返事を書くための紙を取り、机の空いているところへ置く。書簡をそばへ寄せた時、村からの要請が目に入った。
「役所へも、今の不足を知らせておこう」
クラウスが言った。
「この量では、次の便まで持たないかもしれん」
「ええ。来ている要請も添えるわ」
イレーネは、村の書簡を手前へ寄せた。
まず、食料の不足を知らせるために、必要なことを書き出す。頼まれた量と、今日送れる量。ほかの村からも要請が届いていること。
その隣では、クラウスが荷の結び目を確かめていた。
役所へ出すものを整えてから、ラーデンへの返事に取りかかった。被災した人々への支援を続けている相手を労い、魔女に救われたという人たちの話を、もう少し聞かせてほしいと添える。
書き終えて筆を置くと、クラウスが袋を一つ持ち上げた。
「運び手が来た。これも出しておく」
「お願い」
イレーネは紙が乾くのを待ち、宛先を添えた。
それから立ち上がり、彼の後を追って、残った荷の運び出しに加わった。
*
作業場へ戻ると、壁際の袋が減っていた。
空いたところを眺め、イレーネは机に残した書簡を揃えた。返事と役所への要請は、次の便に渡す束へ収めてある。
ラーデンから来た紙の端を整え、ほかの書簡の上へ重ねた。
そのあとで、礼拝堂へ向かった。
扉を押すと、作業場に残る物音が少し遠くなった。高い窓から入る光が、長椅子の端へ落ちている。
イレーネは前へ進み、両手を組んで頭を垂れた。隣にクラウスが立つ気配がして、衣の擦れる音が止まる。
村で食料を待つ人たちに、今日の荷が無事届くように。
残る糧が尽きる前に、次の支援を送れるように。
ラーデンで怪我をした人々のことも祈った。家を失った者が、落ち着いて眠れる場所を得られるように。火のそばで働いた者が、また自分の暮らしへ戻れるように。
書簡にあった言葉を思い返す。
白銀の長い髪をした、若い魔女。
まだ想像もつかない白いものを降らせ、火の近くにいた人たちを助けたという。
イレーネは、組んだ指をわずかに動かした。
書簡には、その後のことまでは書かれていなかった。
その人も、無事だったのだろうか。




