第96話 街道の魔獣
宿場を離れてから、道は山裾の林に沿って続いていた。
木々の間から日が差し、荷台に落ちる影がゆっくり動く。エルナはフードの縁を直し、後ろの道へ目を向けた。朝、宿の前で確かめた荷は、どれも収めた場所にある。
隣でニーナが点検具を離した。
「今のところ、落ち着いてるわ」
「よかったです」
エルナが答えると、ニーナも頷き、道具をケースへ戻した。
後ろで、枝が折れた。
「グレン、後ろだ!」
バルドの声に、エルナは身体ごと振り向いた。
林の縁が揺れている。低い枝が押し分けられ、黒褐色の大きな頭が現れた。
熊だった。
けれど、エルナが知っている熊よりも、肩がひどく厚い。長い毛の下には、丸太のような前脚があった。道へ出た足が土を踏み、曲がった爪の先が地面を削る。
「熊の魔獣だ。こっちへ来るぞ!」
バルドが大斧を手にした。
御者席でグレンが馬へ声をかける。荷馬車の歩みが少し速まった。右脇にいたルークが剣を抜き、後方へ回る。
熊が走り出した。
太い脚が地面を蹴るたび、背が大きく上下する。見ていたよりも速く、荷馬車との距離が縮まった。
バルドが斧を構えて横へ出る。低く払われた刃へ熊が顔を向け、その前脚が上がった。
バルドはすぐに踏み込まず、横へ外れた。爪が先ほどまで彼のいた場所を掠める。その反対側へルークが回り、剣を向けた。
弦が鳴った。
前から戻ってきたフィンが、荷馬車の脇で次の矢を取っていた。
熊の肩には、矢が一本刺さっている。けれど、長い矢柄が大きく突き出したままだった。熊はそちらを気にする様子もなく、ルークへ向き直る。
もう一本が脇へ当たった。
それも、動きを止めなかった。
「駄目だ、浅い!」
フィンが声を上げ、すぐに弓を背へ回した。
「グレン、俺が持つ!」
「ああ。少し先で止めろ」
御者席へ上がったフィンが手綱を受け取る。グレンは盾を腕へ通して下り、長剣を抜くと、後方へ走った。
エルナは荷台の縁を掴んだ。車輪が石を越える。その向こうで、熊がもう一度前脚を振っていた。ルークが下がり、空いた脇へバルドが動く。
「ここで止めるぞ!」
フィンの声がして、荷馬車が止まった。
道は緩く広がっている。エルナが後ろを見れば、熊と、その周りを動く三人が見えた。グレンが前へ入り、熊を荷馬車から外へ向けようとしている。
ニーナが小さな玉を取り出した。
「閃光玉を使うわ!」
「わかった!」
グレンが返す。
盾を上げて顔を隠し、熊から間合いを取った。バルドとルークも一歩離れ、顔を背ける。
ニーナは荷台の後ろへ身を寄せ、熊の足元へ玉を投げた。
「エルナ、伏せて」
エルナは顔を下げ、目を閉じた。
瞼の向こうが、一瞬白くなる。
馬が鼻を鳴らした。前方でフィンが低く声をかけている。エルナが顔を上げると、熊は頭を振っていた。
止まった、と思ったのは一瞬だった。
熊はすぐに顔を戻し、グレンへ踏み込んだ。
「来るわ!」
ニーナの声とともに、大きな前脚が横へ振られた。
グレンが盾を斜めにし、身体ごと外へ抜ける。爪の先が盾の縁を擦り、耳に残る音を立てた。
その先で、地面が抉れた。
土が跳ね、小石が道を転がる。
エルナの指に力が入った。あの爪を正面で受けていたら、盾ごと押し潰されていたかもしれない。
「バルド!」
「おう!」
熊の脇へ、大斧が入った。
鈍い音がして、肩から首の付け根の毛が赤く濡れる。バルドは両足を踏ん張り、食い込んだ刃を引いた。
熊が吠えた。
斧が抜けるより早く、大きな頭がそちらへ向く。
反対側から、ルークの剣が伸びた。
鼻先を刃が掠める。熊が頭を引き、ルークへ牙を剥いた。その間に斧が抜け、バルドが下がる。
ルークも、そこには残らなかった。
振られた前脚から離れ、もう一度地面を蹴る。続けて来た爪が、彼の靴の前で土を掻いた。
グレンが横から剣を送る。
頬へ赤い筋が走った。それでも、熊は顔を向けなかった。
ルークを追って、さらに前へ出る。
「まだ来るぞ!」
バルドの声がした。
一撃を外した前脚が地面を叩き、もう一方が横へ薙がれた。ルークが腰を落として退く。爪はその頭上を抜けたが、熊は止まらず、太い後ろ脚で土を蹴った。
グレンが斜めに入り、追ってくる爪へ盾を合わせた。
足を引くのと、盾の縁へ爪が掛かるのが重なる。
鈍い音がした。
盾が大きく押し戻され、グレンの左肘が脇腹へ跳ねた。靴が土を削り、片膝が落ちる。
「グレン!」
エルナの声は、熊の唸りに重なった。
ルークが、その脇を抜けていた。
肩の傷へ剣が入る。熊の胴が捩れ、刃が浅く抜けた。ルークが外へ退くのと入れ替わりに、バルドの大斧が横から叩き込まれた。
重い身体が揺れる。
グレンは剣を持ったまま立ち上がり、熊の正面から離れた。盾を持つ腕が一度下がり、すぐに上がる。
熊が大きく首を振った。
二人の刃から身体を引き、今度は道の中央へ出る。頭が上がった。その先には、荷馬車があった。
前方で馬の蹄が鳴る。
「来るぞ!」
フィンの声とともに、ニーナの手がエルナの肩へ触れた。
「低くして」
エルナは荷台の縁へ身を伏せた。
バルドが熊の前へ回る。斧を振り下ろしたが、熊は大きく踏み込み、刃の外側を抜けようとした。
ルークが反対側へ回り、肩の傷を斬った。
熊の口が開く。
ルークはすぐに剣を引き、横へ抜けた。熊の前脚が、その後を叩く。
また土が跳ねた。
グレンが二人の間へ出た。熊が牙を剥き、そちらを向く。グレンは林寄りへ退きながら、声を張った。
「正面を空けろ。踏み込ませる!」
バルドが斧を引いて横へずれた。空いたところへ、熊が突っ込む。
エルナは縁へ指を掛け、低い姿勢のまま後ろを見た。
グレンは、盾を前へ突き出さなかった。熊が迫ると横へ抜け、身体を追ってきた爪から、さらに足を運ぶ。
伸びた胴の脇へ、バルドが入った。
斧が肩の傷を捉える。
今度は、深く入った。
熊が吠え、身体ごと振り返る。バルドは斧を抜きながら退いた。振られた前脚が彼の胸の前を通り、その先の細い木へぶつかった。
枝が折れ、剥がれた樹皮が飛ぶ。
バルドが斧を構え直すより早く、熊は低く頭を戻した。
ルークの剣が傷へ伸びる。
届く前に、大きな口がそちらを追った。ルークが刃を引き、横へ身をかわす。熊はそれを追い、傷の下の前脚を土へ踏みしめた。
肩がせり上がる。
その足を、そこに。
湯の温もりを保った時の感覚を咄嗟に手繰り、エルナは地面に接した前脚へ強く意識を向けた。
手応えが返るのと、熊の肩が揺れるのが同時だった。
前脚が、上がらない。
熊が唸り、肩に力を込める。太い胴が捩れ、もう一方の脚が土を掻いた。それでも、傷の下の足は離れない。踏み替えられないまま、巨体が傾いだ。
ルークが足を踏み替え、前へ出た。
グレンの剣が、反対側から顔先を掠める。熊がそちらへ牙を向け、動く前脚を振った。
その脇へ、ルークが入った。
剣が、赤く濡れた傷へ通る。
刃が、肩の奥へ深く入る。ルークはすぐに身体を引き、剣を抜いた。
熊が吠え、頭を振る。
ルークはバルドのいる側を避け、外へ抜けた。
空いたところへ、大きな斧が振り下ろされた。
重い音がした。
熊の首が傾き、後ろ脚が地面を蹴る。留まった前脚が肘から曲がり、巨体が林側へ崩れた。
土と枯れ葉が跳ねる。
三人はすぐに離れた。倒れた身体が動いているあいだ、誰も近づかない。
最後に後ろ脚が一度伸びて、それきり止まった。
しばらくして、グレンが顔を上げた。
「怪我は?」
「俺はない」
バルドが返す。ルークも無事を伝え、荷台からニーナとエルナが答えた。
グレンは左腕を一度持ち上げ、盾の内側へ目を落とした。
「左腕を打った。ほかは大丈夫だ」
熊の動きが止まっていることをバルドが確かめ、ルークは剣を手に林の縁へ目を向ける。
グレンが荷馬車のそばへ戻ってきた。盾を外して脇へ立てかけ、袖を上げる。革帯の当たっていたところが赤く腫れていた。
エルナは鞄から布を出し、水袋を取った。
水を含ませ、軽く絞る。
「これ、当てておきますか」
「ありがとう」
グレンが受け取り、左腕へ当てた。口元がわずかに強張り、それから息が抜ける。
盾の縁には、深い筋が残っていた。
盾が押し戻された時の音を、エルナはまだ覚えている。
前方では、フィンが馬へ声をかけていた。蹄の音が、少しずつ落ち着いていく。
ニーナが荷の縄と筒を確かめる。エルナは自分の手へ一度目を落とし、彼女の横顔を見た。
「ニーナさん。今、あの足を止めようとしたんです」
筒へ添えられていた手が止まった。
「熊の足を?」
「はい。地面についたままになればと思ったら、器の時と同じ手応えがあって」
刃を拭いたルークが、荷台のそばへ来た。熊の方へ一度顔を向け、それからエルナを見る。
「あの足、エルナだったんだ」
エルナは頷いた。
「肩は動いたのに、足が上がらなかった。あそこで、傷へ入れたんだ」
ニーナも、倒れた熊へ目を向けた。
「熱を動かしたの?」
「いいえ。その時の流れは、感じませんでした」
「身体は大丈夫?」
「はい。変わった感じはありません」
指を動かしても、力が抜ける感じや痛みはなかった。ニーナはその手元を見てから、エルナへ顔を戻した。
「あとで、詳しく聞かせてね」
「はい」
ルークも、エルナを見ていた。
「助かったよ。ありがとう」
「……よかったです」
エルナは、少し笑った。
グレンは左腕へ布を当てたまま、道の先を見ていた。バルドの肩も、まだ呼吸に合わせて上下している。あの大きな身体が倒れるまで、三人とも動きを止めなかった。
自分が留めた一本の足を、すぐに攻撃へつないでくれた。
道を見ていたグレンが振り返った。
「荷は大丈夫か」
「ええ。筒も、今は落ち着いてるわ」
「なら、出る支度をしよう。ここで長くは止まりたくない」
ルークが荷の方へ回る。エルナも鞄を寄せ直し、荷台の後ろを空けた。
バルドは、熊の大きな脚を見ていた。
「しかし、こんなところまで来てるのか」
「普段は、もっと山の方なんですか」
エルナが尋ねる。
「ああ。こいつは、もっと奥にいる種類だ。街道で出くわすとはな」
バルドが林の向こうへ目を向けた。重なった枝の奥に、山の斜面が続いている。
エルナもそちらを見た。
水の減った、小屋の近くの水場。採れる場所が少なくなっていた薬草。途中の村で見た井戸と、傷んだ畑。
山の中で暮らす獣にも、何かが起きているのだろうか。
「場所は覚えておこう。ギルドへ寄った時に伝える」
グレンが言った。
熊は林寄りに倒れており、道の中央は空いていた。バルドとルークは爪を幾つか回収し、布に包んで袋へ収める。保存筒とは離れたところへ置いた。グレンは、そのあいだも林と道を見ていた。
フィンが御者席から顔を向けた。
「次に休むところまで、俺が持つ。グレン、腕を休めとけよ」
「ああ。頼む」
ルークが盾を取り上げ、御者席の脇へ収めた。グレンは左腕へ布を当てたまま、馬車の前へ回る。
ルークが荷馬車の右脇へ戻る。ニーナも、いつもの場所へ座り直した。
車輪が動き始める。
エルナは一度、自分の手を見た。
あの足には、触れていなかった。
地面に残った前脚と、すぐに踏み込んだルークの姿が、まだ目に残っている。あの時の手応えを、あとでニーナにも詳しく話そう。
手を荷台の縁へ戻し、顔を上げる。
ルークがこちらを見た。エルナが小さく頷くと、彼も頷いて、道へ目を戻した。
エルナも林へ顔を向け、木々の間を見続けた。




