第100話 セレド
六日目の朝、宿の前には、もう荷馬車が出ていた。
グレンが主人へ鍵を返し、バルドが最後の荷を持ち上げる。ニーナは積み直した保存筒を確かめてから、覆いの布を掛けた。
エルナも自分の鞄を荷台へ置いた。布に収めた髪の上からフードをかぶり、ルークが差し出してくれた手を借りて乗り込む。
「気をつけてな」
主人が声をかけた。
「お世話になりました」
エルナが礼を言うと、隣に座ったニーナも笑って会釈した。
フィンが手綱を取る。荷馬車が動き出し、軒下に立つ主人の姿が、少しずつ後ろへ離れていった。
朝のうちは、道の脇に長く影が伸びていた。
橋を渡り、その先も街道を進む。荷台の縁から見える流れが遠ざかると、また前へ顔を戻した。
今日は、セレドへ着く。
出発前には五日から七日と聞いていた道を、もうここまで来ていた。野営の支度をした場所も、井戸のそばで話を聞いた村も、今は後ろにある。
エルナは膝の上で鞄の紐を整えた。
あの村の畑に出ていた斑点や、井戸へ継ぎ足されていた縄を思い出す。
向こうでは、水や草はどうなっていたのだろう。
火を撒く魔獣が出る前にも、何か変わったことがあったのだろうか。
グレンから聞いた報告には、そこまでは書かれていなかった。
ニーナから、各地の報告や記録が集まると聞いている。試料を渡す時に、尋ねてみたいことがいくつもあった。
日が高くなる頃、前を歩いていたグレンが、顔を上げた。
「見えたぞ」
エルナも荷台の先へ目を向ける。
道の向こうに、家並みが広がっていた。
初めは、街道に沿って建物が並んでいるのだと思った。けれど、進むにつれて、その奥にも屋根があることがわかる。手前の家の向こうへ、さらに家並みが続いていた。
「あれが、セレドですか」
「ああ」
グレンが答えた。
エルナは縁へ手をつき、少し身体を前へ寄せた。
自分から、行きたいと言った街だった。
話に聞いていた街が、今は道の先に見えている。
車輪が窪みを越え、荷台が揺れた。
手をつき直すと、脇を歩いていたルークがこちらを見た。
「見える?」
「はい。思っていたより、ずっと奥まで家がありますね」
「うん。あっちからも、荷車が来てる」
彼の示す方へ目を向ける。畑の間を通る道から、一台の荷車が街道へ入ろうとしていた。道の合わさるところで先の馬車が速度を落とし、その後ろもゆっくりになる。
ルークも足を緩め、車輪から少し離れた。
「近くまで来ると、道も増えるな」
「どの道から来ても、ここへ着くんでしょうか」
「そうみたいだな。向こうの道にも、人がいる」
エルナもそちらを見た。
別の場所から歩いてきた人たちが、自分たちと同じ街へ向かっている。
何を運んできたのか、どこで暮らしているのか。すれ違うだけではわからなかった人々の話を、ここで少しは聞けるかもしれない。
*
街の入口でグレンが行き先を伝え、ギルドへの道を尋ねた。
確認を終えて通りへ入ると、車輪の下で鳴る音が変わった。敷かれた石の継ぎ目を越えるたび、荷台へ細かな振動が伝わる。
エルナは鞄を足元へ寄せ、顔を上げた。
ラーデンよりも、通りが広かった。
それでも、馬車同士がすれ違う時には、人が両脇へ避けている。店の前には袋が積まれ、開いた戸口へ木箱が運び込まれていた。二階の窓から呼びかける声がして、荷を担いだ男が、足を止めて上を向く。
近くでは布を広げて品を並べている人がいた。その隣の店からは、焼いたパンの匂いがした。
エルナはそちらへ目を向けてから、道の脇を見た。
「左から、荷車が来ます」
「ああ、見えてる」
フィンが答え、馬をゆっくり進ませる。
脇道の荷車が通りへ出るのを待ってから、また動いた。バルドが後ろから声を掛け、ルークも馬車の横へ戻る。
荷台の向こうで、ニーナが覆いを少し持ち上げた。筒の位置を確かめて布を戻し、小さく息をつく。
「ここまで、来られたわね」
エルナと目が合うと、彼女は笑った。
「はい。もう、渡せるんですね」
「ええ。早く見てもらいたいわ」
ニーナは布の端を留めた。それから、通りへ顔を向ける。
「ああいう店も、あとで覗いてみたいわね」
視線の先には、金属の留め具や輪を吊るした店があった。奥の棚にも、小さな箱がいくつも並んでいる。
「道具に使うものですか」
「ええ。手持ちの部品で合わない時、別の大きさがあると助かるの。普段使っているものと、形が違うこともあるし」
エルナも店先を見た。
薬草を売る店でも、町が変われば、置かれているものが違っていた。ニーナにも、見てみたいものがあるのだ。
店の前を過ぎると、次の建物の陰へ入った。陽射しが遮られ、エルナは少し肩を下ろす。
「この先だそうだ」
グレンが言った。
やがて通りの向こうに、冒険者ギルドの建物が見えた。
入口から、荷を背負った二人連れが出てくる。その脇を、紙を手にした男が中へ入っていった。ラーデンのギルドよりも間口が広く、人の出入りも多かった。
フィンが、グレンの示した場所へ馬車を寄せる。
「到着を伝えてくる。荷を見ていてくれ」
「ああ」
バルドが答えた。
グレンは書類の袋から依頼書を取り、右手に持って建物へ入る。エルナはニーナと荷台を下りた。
しばらく座っていた足を伸ばすと、膝の裏が引っ張られるようだった。ルークもそばへ来て、入口の方を見ている。
「中も、広そうだな」
「はい。ラーデンより、依頼もたくさんあるんでしょうね」
「あとで見てみたいな。この辺りで、どんな仕事があるのか」
彼は建物から出てきた冒険者たちを見送った。腰に下げた袋の口から、束にした枝のようなものが覗いている。
エルナもその背中を見てから、ニーナへ顔を向けた。
「研究所では、水や畑のことも調べているんでしょうか」
「どうかしら。魔獣や素材を扱う人と、別かもしれないわね」
ニーナは少し考え、続けた。
「まず、誰に尋ねればいいか聞いてみましょう。ほかの人の仕事でも、教えてもらえるかもしれないもの」
「はい」
道の途中で見た葉のことも、井戸のことも、話せるようにしておきたかった。エルナは、村で聞いた言葉を頭の中でたどった。
御者席から下りたフィンが、馬のそばで背を伸ばした。
「この辺、飯食うところも多いな」
「さっきから、そっちばっかり見てたな」
ルークが言う。
「あれだけ匂いがしてたら、見るだろ」
フィンは悪びれずに答えた。バルドが通りの向こうへ目を向け、それから空を見上げる。
「もう、昼か」
「腹も減るわけだ」
フィンが言ったところで、ギルドの戸が開いた。
グレンがこちらへ戻ってくる。手に持っていた紙を袋へしまい、荷台の前で足を止めた。
「研究所へは、こっちから連絡を回してくれるそうだ。先に試料を届ける」
「書類は、そのあとか?」
フィンが聞いた。
「ああ。書類は役所だ。そっちも渡して、受領の確認をもらう」
グレンはニーナへ目を向けた。
「向こうで、筒を見てもらえるようにしておくそうだ」
「わかったわ」
ニーナが頷く。
「熊のことも伝えてきた。出た場所は説明したから、あとは記録してもらう」
エルナは、山裾の道を思い出した。
あの大きな身体が出てきた場所を、グレンは覚えていた。これから同じ道を通る人たちへも、そこで何が起きたかが伝わるのだろう。
「届け終わったら、どこかで飯にしよう。馬も休ませたい」
グレンが言った。
「おう」
フィンがすぐに答える。バルドも頷き、馬車の後ろへ回った。
エルナは鞄を持ち直し、荷台へ戻った。
*
ギルドで教わった通りを進み、途中で曲がる。
店の多い道から離れると、人の流れが少し落ち着いた。窓を開けた建物の中から、木を打つ音が聞こえる。大きな籠を抱えた人が出てきて、道の向かいへ渡っていった。
ルークは曲がってきた角を一度振り返り、それから、先へ目を戻した。
エルナも、通ってきた道を見た。
知らない街だった。けれど、こうして一つ曲がるところを覚えると、ギルドからここまでの道が、少しだけつながる。
ニーナが、膝の上の鞄へ手を置いた。
「大きい筒は、向こうで置き場所を決めてから下ろしましょう」
「ああ。声を掛けてくれ」
後ろから、バルドが答える。
エルナは覆いの下へ目を落とした。
あの黒い牙が、また外へ出てくる。ラーデンでは、ニーナも、何がどう違うのかはまだわからないと言っていた。
あの牙を調べたら、何がわかるのだろう。グレンから聞いた、小鹿のような魔獣の報告とも、比べられることがあるかもしれない。
あの猪がどんなふうに走り、火がどこへ飛んだのか。思い返すと、家並みの向こうへ煙が広がった時のことまで浮かんでくる。
「ルーク」
呼ぶと、彼が荷台の方を見た。
「あの猪のこと、私が見た様子も話してみようと思います」
「うん。俺が見たことも話すよ」
ルークは頷き、また道へ目を戻した。
「ここだ」
グレンが足を止めた。
通りから少し奥まったところに、建物があった。
入口の脇には、研究所と記された板が掛かっている。その手前は馬車を寄せられるように空いていて、壁際へいくつかの木箱が積まれていた。
フィンが馬を進め、グレンの声に合わせて止める。
扉のそばにいた男が、こちらへ来た。
「ラーデンからですか」
「ああ。試料を届けに来た。保存筒に収めてある」
グレンが答えると、男は荷台へ目を向けた。
「担当へ知らせます。下ろす場所も確かめますから、少しお待ちください」
「わかった」
男が中へ戻っていく。
ニーナが立ち上がり、エルナも荷台の縁へ手をついた。
その時、入口とは別の方で、人が動いた。
少女が一人、こちらへ歩いてくる。
エルナは、下りかけたところで顔を上げた。
年は、自分より少し下だろうか。蜂蜜色の長い髪は、両脇だけを後ろで留め、残りを背へ下ろしている。
襟元と袖口に細かな刺繍のある上着を身につけ、スカートの裾が歩くたびに柔らかく揺れた。布の艶にも、身体に合った仕立てにも、通りで見かける服とは違う上等さがあった。片耳の小さな飾りが、陽を受けて光った。
その後ろには、腰に剣を帯びた二人が控えていた。
エルナは地面へ下り、外套の裾を直した。
少女はグレンたちの前で足を止める。後ろの二人は、少し離れたところへ留まった。
「ラーデンからいらした一行で、間違いありませんか」
落ち着いた声だった。
グレンが向き直る。
「はい。役所からの書類と、魔獣の試料を運んできました」
少女は頷いた。
研究所の人なのだろうか。
エルナはニーナへ目を向けた。彼女も、少女を見ている。バルドは荷台の後ろに立ち、フィンは馬のそばへ残っていた。
少女の視線が、グレンから動いた。
エルナと、目が合う。
小さく微笑まれ、会釈を返そうとしたところで、少女が口を開いた。
「あなたに、一度お会いしたかったのです。こちらへ来られると伺って、お待ちしていました」
エルナは、すぐには返事ができなかった。
「……私に、ですか」
「ええ」
少女は、まっすぐこちらを見ていた。
顔を合わせた覚えはなかった。声にも、聞き覚えがない。
どうして、自分を知っているのだろう。
どんな話があるのかも、まだわからない。けれど、自分に会うために待っていたという言葉へ、胸の奥がわずかに強張った。
エルナは一度、ルークへ目を向けた。
彼はすぐそばにいた。視線を返してから、少女へ顔を向ける。その横で、グレンも言葉を待っていた。
少女は小さく会釈した。
「ご挨拶が遅れました。わたくしは、リュメリア王国の王女、マリエラ・エステル・リュメリアと申します」
王女。
エルナは、目の前の少女を見た。
グレンが姿勢を改め、頭を下げる。ニーナも荷台へ添えていた手を下ろした。扉から出てきた先ほどの男が、少女の方へ恭しく会釈する。
エルナも頭を下げた。顔を上げると、彼女はまだこちらへ目を向けていた。
マリエラ。
名を聞いても、自分とのつながりは浮かばなかった。
ただ、王女だというその人が、試料を届けに来た自分を待っていた。
エルナは小さく息を吸い、フードの下から、もう一度彼女を見た。




