第101話 保護の申し出
「……エルナといいます」
名を伝えてから、エルナはもう一度、マリエラを見た。
片耳の飾りが、陽の下で小さく光っている。後ろに控えた二人も、研究所の戸口に立つ男も、王女の言葉を待っていた。
「私に、どんなお話があるんでしょうか」
「ラーデンで起きたことについて、お聞きしたいのです。少し、お時間をいただけませんか」
ラーデンで起きたこと。
荷台に積んだ保存筒へ、目が向きそうになった。あの猪についてなら、ニーナやグレンにも聞けるはずだった。
けれど、彼女は自分を待っていたと言った。
「殿下。俺たちは、まだ荷を引き渡している途中でして」
グレンが口を開いた。
「研究所に試料を渡したあと、役所へ書類を届けることになっています」
「ええ。まずは、お仕事を済ませてください。お食事も、まだなのでしょう?」
マリエラは一行を見渡し、エルナへ視線を戻した。
「そのあとで、研究所へお越しいただけますか。部屋をお借りできるか、相談しておきます。わたくしも、中の方と確認することがありますので」
すぐに連れていかれるわけではないらしい。
エルナは、隣に立つルークを見た。
「ルークにも、一緒にいてもらっていいですか」
「もちろんです」
返事を聞いてから、彼へ向き直る。
「一緒に、来てもらえますか」
「うん。俺も聞くよ」
ルークが答えた。その声に、少しだけ息をつきやすくなる。
何を聞かれるのかは、まだわからなかった。なぜ自分を知っているのかも、確かめておきたい。
「では、食事を済ませたら、また来ます」
「ありがとうございます。入口の方へ、声を掛けてください」
マリエラが会釈を返す。エルナも頭を下げると、彼女は護衛の二人とともに建物へ戻っていった。
戸口で道を譲っていた男が、こちらへ来る。
「お待たせしました。担当が参りますので、試料は奥の部屋へお願いします」
ニーナが荷台の覆いへ手を掛けた。
「移す先の容器は、用意されていますか。筒を開ける前に、見せてもらいたいのですが」
「はい。ご案内します」
彼女は頷き、バルドへ顔を向けた。
「大きい方、お願いできる?」
「おう」
エルナも鞄を肩へ掛け直した。ニーナの後ろについて、研究所へ入る。
頭の中には、まだ、先ほどの言葉が残っていた。
*
「遠いところを、よく運んでくれた」
奥の部屋で待っていた男は、荷台から運び込まれた筒へ目を向けた。
「魔獣の調査をしている、ヘルマンだ」
ニーナが名乗り、三本の筒について説明する。ヘルマンは保存に使っている仕組みと、途中で状態に変化がなかったかを尋ねた。
ニーナは答えながら、用意された容器を確かめている。
「これなら、移せます。先に、小さい方から」
蓋が外され、研究員の手へ試料が渡った。
皮と肉片。それぞれが別の容器へ収められたあと、バルドが大きな筒を作業台へ置く。
中から現れた黒い牙を見て、エルナは足を止めた。
あの猪の口元にあったものだった。
身体から離され、台の上へ置かれても大きい。窓から入る光を受けて、黒い表面が鈍く光った。
ヘルマンが身を寄せる。脇に控えていた研究員も、手元の紙へ何かを書きつけた。
「これが、報告にあった牙か」
「ええ。採った時の様子は、この記録に」
ニーナが紙を広げた。
ヘルマンは牙と記録を見比べてから、顔を上げる。
「実際に、こいつを見た者はいるか。動いているところを」
「私も、見ました」
エルナが答えると、彼の視線が向いた。
「身体のどこから、火が出ていた?」
「肩と、背中です。首の付け根にも、出ていました」
あの時の姿を思い浮かべる。
黒い毛の間で揺れる炎。動くたびに、火の粉が飛んでいた。
「身体全部が燃えていたわけでは、ありません。火が出ているところと、そうでないところがありました」
「近づこうとすると、火に阻まれました」
ルークも口を開いた。
「風で横へ飛んだ火が、草に移るのも見ています。猪が通ったところだけじゃなかった」
ヘルマンの手が動いた。
「離れたところへも、飛んだんだな」
「はい。火が弱くなって、ようやく剣が届くところまで入れました」
ヘルマンは紙へ書き足してから、牙の方を見た。
「こいつ自身を倒しても、周りの火は残る。そこも、討伐に出る者へ伝えておかないとな」
エルナは頷いた。
魔獣が倒れたあとも、人々は走っていた。水を運び、火の残っている場所を探していた。
「あの猪のような魔獣は、ほかでも出ているんですよね」
「ああ。報告を聞いたか」
「はい。出発前に、グレンさんから聞きました」
「今は、ひとまず《焔獣》という呼び名で記録をまとめている。身体から火や異常な熱を出す個体の報告を、比べられるようにな」
「焔獣……」
声にしてみると、炎を噴く肩が、また頭に浮かんだ。
「同じ原因で変わったのかは、まだわからない。牙のことも、これから調べる」
ヘルマンは、黒い牙のそばへ記録を置いた。
エルナは少し迷ってから、尋ねた。
「魔獣が出た場所で、水や草木に変わったことがなかったかも、わかりますか」
「水や草木?」
「はい。ここへ来る途中で、井戸の水が減った村や、葉に斑点が出ている畑を見たんです。ほかの土地でも、同じようなことが起きているのか、知りたくて」
ヘルマンは、手元の紙へ目を落とした。
「魔獣の報告には、出た場所の様子が書かれていることもある。ただ、畑のことまで調べた記録となると、ほかの者にも聞かないとわからんな」
「あとで、そういう話を聞かせてもらうことはできますか」
「ああ。まずは、どこに何があるか確かめよう。今日、ここへ届いたものも整理したい。時間が取れるようになったら、ギルドへ伝言をしておく。それでいいか」
「はい。お願いします」
エルナとルークは、連絡を受けるために名を伝えた。
ヘルマンが書き留めるのを見て、エルナは一度、台の上の牙へ目を戻す。
運んできたものを、調べてくれる人がいる。
すぐに答えが出るわけではなくても、尋ねたいことを話せたのが嬉しかった。
ニーナは空になった三本の筒を受け取り、内側や蓋を確かめてから、ケースへ戻していた。
グレンが受領の確認を受け取る。エルナたちは礼を言い、外で馬を見ていたフィンのところへ戻った。
*
役所への届け物は、研究所でのやり取りよりも短く済んだ。
グレンがラーデンからの被害報告書と救援物資の要請書を渡す。受け取った担当者が宛先と書類を確認し、受領を証明する紙を返してくれた。
その足でギルドへ寄り、研究所の分と合わせて窓口へ出す。
「これで、今回の依頼は終わりだ」
戻ってきたグレンの言葉に、ニーナが息をついた。
「無事に渡せて、よかったわ」
「じゃあ、飯だな」
フィンが言った。
「ああ。さっき、食べるところを見てたんだろ」
「見てた。馬車を置けそうなところも、あったぞ」
フィンが顎で通りの先を示した。
少しして、六人は食堂の卓を囲んでいた。
運ばれてきた皿から、温かい匂いがする。エルナはパンをちぎり、一口食べた。
噛んでいるうちに、自分もお腹が空いていたのだとわかった。
向かいでは、ニーナが水を飲み、椅子の背へ軽く寄りかかっていた。
「あの部品の店、あとで戻ってもいいかしら」
「さっき、通ったところか」
グレンが聞く。
「ええ。気になるものがいくつかあったの」
「わかった。俺は少し休んでる。荷は見ておくから、行ってこい」
「ありがとう。あまり遅くならないようにするわ」
ニーナは答えてから、エルナを見た。
「二人は、このあと研究所ね」
「はい。お話を聞いてきます」
口にすると、先ほどの少女の顔が浮かんだ。
自分より年下に見えた。けれど、彼女が名乗っただけで、周りの人たちの姿勢が変わった。
何を知っていて、何を尋ねようとしているのだろう。
エルナは手元のパンへ目を落とした。
「話が済んだら、ギルドへ来てくれ」
グレンが言った。
「馬と荷は、こっちで見ておく」
「ありがとうございます」
「俺たちも、その辺を歩いてるかもしれないけどな。戻る場所が決まってれば、探し回らずに済む」
フィンが言い、ルークも頷いた。
「ああ。ギルドへ戻るよ」
バルドは空いた皿を少し寄せて、店の人へ声を掛けた。パンを追加で頼むのを見て、ニーナが笑う。
「まだ食べるの?」
「歩く前に、食っときたい」
「俺にも一つくれ」
フィンが言い添えた。
エルナも小さく笑って、残りのパンを口へ運んだ。
食事を終える頃には、卓の上の皿はどれも空になっていた。
エルナは鞄を持ち、ルークと一緒に席を立つ。
「じゃあ、またあとで」
ニーナの声へ頷いてから、二人で通りへ出た。
店から離れると、人の声がまた近くなった。荷車を避けて道の端へ寄り、研究所へ向かう角を曲がる。
「少し、緊張しますね」
「うん。俺も」
ルークは建物の並びを見てから、エルナへ顔を向けた。
「でも、何の話かは、聞いておきたいな」
「はい」
自分の知らないところで、何かが伝わっている。
それが気になったまま、この街で過ごすのは落ち着かなかった。
ルークと並び、研究所の入口へ戻った。
*
案内されたのは、廊下の奥にある部屋だった。
卓を挟んで椅子が並び、窓際には棚が置かれている。マリエラは二人が入ると立ち上がり、向かいの席を勧めた。
「来てくださって、ありがとうございます」
「お待たせしました」
エルナは椅子の脇へ鞄を置く。ルークも名を伝えてから、隣へ座った。
案内の男が退き、扉が閉まる。
護衛の二人は、外に残っていた。
エルナは膝の上で手を重ねた。外套の袖が少しずれ、腕輪の縁が見える。指で布を直し、マリエラへ目を向けた。
「ラーデンの火災について、報告を受けています」
静かな声で、彼女が切り出した。
「魔獣が倒されたあとも火が広がり、その中で、火を鎮めた女性がいたと聞きました。《雪の魔女》と、呼ばれているそうですね」
膝の上の指が、強張った。
フードの内側で、髪布が額に触れている。
マリエラの視線は、まっすぐ自分へ向いていた。
「その方は倒れて、若い剣士に運ばれたと。その剣士が、今回、グレンさん方とセレドへ向かうことになったと伺いました」
エルナは、隣へ目を向けた。
ルークも、マリエラを見ていた。卓のそばに置いた手を、わずかに動かす。
「一行には、若い女性も同行していると聞いています」
そこまで話してから、マリエラは口を閉じた。
窓の向こうで、荷車の車輪が鳴っていた。その音が通り過ぎるのを聞きながら、エルナは彼女へ目を戻す。
「エルナさん。あなたが、《雪の魔女》と呼ばれている方でしょうか」
喉が狭くなったようだった。
今も、髪は隠している。腕輪もつけていた。
それでも、ラーデンで起きたことや、一緒にいる人のことまで、知られている。
どこから、どれだけの話を聞いたのだろう。
エルナは息を吸った。すぐには、頷けなかった。
「……なぜ、その魔女を捜していたんですか」
マリエラは、少し顎を引いた。
「わたくしは今、各地の水や、暮らしの状況を確かめています。井戸の水が減り、畑を続けることが難しくなった村も見てきました。その途中で、ラーデンの報告が届いたのです」
エルナは、黙って聞いた。
「どのようなことが起きたのか、知りたいと思いました。そして、その方が倒れるまで力を使ったと聞いて、ご本人のことも気にかかっていました」
マリエラの目が、一度、エルナの手元へ下りた。
「魔女がいるという噂は、街を離れても伝わります。何ができるかも知らないまま、その力を頼りにしようとする者が現れるかもしれません。害そうとする者も、いないとは言えません」
害そうとする者。
その言葉は、よくわかった。
髪を隠すたび、誰かと初めて会うたび、考えずに済んだわけではなかった。目の前で自分を見る顔が変わることも、知っている。
「あなたを、お守りしたいと考えています」
マリエラは言った。
「王宮へ、いらっしゃいませんか。王家の庇護のもとで、お住まいと、生活に必要なものをご用意いたします」
「……王宮で、暮らすんですか」
「ええ。周りにいる者にも、あなたを守るよう命じられます。噂を聞いた者が、容易に近づくことも防げるでしょう」
思っていたよりも、大きな話だった。
火事の時のことを、詳しく尋ねられるのかもしれない。何ができるのか、見せてほしいと言われるのかもしれない。
ここへ来るまでに考えていたこととは、違っていた。
「その代わりに、魔法を使っていただくというお話ではありません」
マリエラが続ける。
「ラーデンで人を助けた方が、そのために危険な目に遭うことを、そのままにしておきたくないのです」
エルナは、彼女の顔を見た。
言葉は落ち着いていた。こちらが答えるのを待つ間も、視線を逸らさない。
髪布の下に収めた髪を、見せるようには言われていない。けれど、魔女であると認めるのも、隠していたものを一つ外すことには違いなかった。
まだ、相手のことをほとんど知らない。自分の力も、身体のことも、すべてを話せるわけではなかった。
あの火事で、力を使ったこと。
まずは、そのことだけを伝えようと決めた。
「ラーデンで、火を消すために力を使ったのは、私です」
声は、思っていたより小さくなった。
マリエラが、ゆっくりと頷く。
「お話しくださって、ありがとうございます」
相手の顔から、目を離さないようにする。
魔女だと知っても、マリエラの表情は変わらなかった。それに少し息がつけてから、先ほどの申し出を考えた。
王宮に、住む。
自分を守る人がいて、暮らしに困らないようにしてもらえる。何かを買う時も、街を歩く時も、誰に気づかれるだろうと考えることは、今より減るのかもしれない。
差し出されたものが、どれほど大きいかはわかった。
それでも、そこで暮らす自分を思い浮かべようとすると、ほかのものが先に浮かんだ。
家の棚に残してきた薬草。
採取に出かける、歩き慣れた道。
ルークに会いに、街へ下りた時のこと。
この旅に出たいと伝えた、ギルドの卓。
何かを知りたくて出かけ、道の途中で、知らなかった人たちと話をした。今日も、研究所で聞きたいことを尋ねたばかりだった。
隣には、ルークがいる。
エルナは彼の横顔を見た。こちらへ顔を向けた彼と目が合い、また、マリエラへ向き直る。
王宮なら安全なのだとしても、そこへ移って暮らしたいとは思わなかった。
「私を心配してくださって、ありがとうございます」
エルナは言った。
声を整えようとすると、少し間が空いた。マリエラは、その先を待っていた。
「でも、王宮へ移って暮らすことは、考えていません」
マリエラは口を開きかけ、少しだけ間を置いた。
エルナは膝の上で手をほどき、彼女の返事を待った。




