第94話 昔のルーク
午後は、緩い上りが長く続いた。
荷馬車が平らな道へ出ると、エルナは座る位置を少し変えた。荷台の縁へ添えていた手を膝へ戻し、背を伸ばす。隣でニーナも肩を回していた。
日が低くなる頃、畑の向こうに家並みが見えた。
「今日は、あそこで泊まる」
グレンが手綱を持ったまま言った。
道が広がり、荷車を引く人や、桶を運ぶ人とすれ違う。家の窓から声が聞こえ、その先の大きな建物には、馬を繋ぐ場所があった。開いた扉の奥から、器の触れ合う音がする。
荷馬車が止まると、ルークがエルナの鞄を受け取ってくれた。
地面へ下り、足を伸ばす。座っている間には気づかなかったところまで、身体が固まっていた。
エルナはフードの端を直し、入口へ顔を向けた。
「ここ、宿なんですか」
「ああ。下が酒場で、上に部屋がある」
ルークが入口へ顔を向ける。
中から、前掛けをした男が出てきた。グレンが声をかけ、人数と、馬もいることを伝える。
「四人の部屋と、二人の部屋なら空いてるよ。泊まれるのは、村じゃうちだけだ」
「それで頼む。馬車は裏へ回していいか」
「ああ。奥の囲いを使ってくれ」
男が指した方へ、フィンが先に歩いていく。グレンも御者席へ戻った。
裏には、ほかの荷車も置かれていた。
二頭の馬を外し、荷を下ろす。エルナも鞄と寝具を運び、ニーナと使う部屋へ入った。寝台が二つ並び、壁際には小さな机がある。
鞄を置いて廊下へ出ると、奥の部屋では、ルークたちが保存筒を収めていた。
「こっちの布、もう少し寄せてもらえる?」
ニーナに言われ、エルナは筒の下から出ていた布を直した。転がらないように収めたところを確かめ、手を離す。
ニーナが点検具を当てる。グレンは書類の包みを自分の荷へ収め、フィンとバルドも寝具を置いていた。
光が落ち着いたのを見届けて、エルナは部屋の入口へ戻る。
一階から、肉を焼く匂いが上がってきた。
「腹減ったな」
バルドが言った。フィンも、廊下へ顔を出す。
「もう食えるってさ。先に席、取ってくる」
「俺も行く」
二人が階段へ向かった。
ニーナは最後の筒を確かめ、ケースを閉じる。
「今は大丈夫。寝る前に、もう一度見るわ」
「ああ」
グレンが頷いた。
部屋へ鍵を掛け、エルナも皆と階段を下りた。
*
食事処には、すでに何組かの客がいた。
壁際で酒を飲む男たち。荷を足元へ置き、パンをちぎっている二人連れ。窓の近くでは、店の人と客が立ったまま話している。
フィンが、奥の長い卓から手を上げた。
エルナはルークの隣へ座った。向かいにはフィンとニーナがいて、バルドは運ばれてきた杯を手に取っていた。
「食事は皆、同じのでいいかい」
宿の主人が聞く。
グレンが頷くと、肉と根菜の煮込み、それに切り分けたパンが運ばれてきた。
器を受け取り、エルナも匙を取った。
湯気の向こうで、バルドが肉を崩している。フィンはパンを一つ取ってから、杯へ口をつけた。
「こうして出てくる飯も、いいな」
バルドが言った。
「薪を集めなくていいものね」
ニーナが言った。
「食ったあと、そのまま寝台へ行ける」
フィンが続ける。バルドは杯を置いた。
「馬の方は、あとで見てくるぞ」
「俺も行く。水、減ってるかもしれないし」
フィンが返した。
エルナは煮込みを口へ運んだ。よく煮えた根菜が、舌の上で崩れる。椅子の背へ身体を預け、もう一口すくった。
しばらく、器と匙の音が続いた。
「ルーク。マルタさんたち、変わりなかったか」
グレンが聞いた。
「ああ。子どもたちも元気だった。帰る前まで、庭で遊んでたよ」
「球、投げてたのか」
「うん。ダンが、なかなか終わりにしてくれなくて」
グレンが口元を緩める。
エルナも、袖を掴んでいた小さな手を思い出した。
「次は自分から投げるって、約束していましたね」
「帰った頃にも、覚えてそうだな」
「きっと、覚えていますよ」
ルークが笑った。
エルナはグレンとフィンへ顔を向ける。
「柱に、お二人の名前も残っていました」
「背を測るやつ?」
フィンが聞き、エルナは頷いた。
「はい。ルークの印を見ている時に、見つけました」
「まだあるのか、あれ」
フィンはパンをちぎり、少し笑った。
柱の前へ立つ、小さいルーク。あの時は、一人で立っている姿を想像していた。
隣に、フィンやグレンもいたのだろう。
「昔から、一緒に遊んでいたんですか」
「遊んでたよ。こいつ、呼べば大体来たし」
フィンが、パンを持った手でルークを示した。
「外から窓、叩いて呼んでたんだろ」
「聞こえるからな。その方が」
「人が何してるかも、見ないで」
「来ない時は来ないだろ。来たのはお前だよ」
ルークが少し笑い、器へ匙を戻す。
「まあな」
「何をして遊んでいたんですか」
エルナが尋ねると、フィンはすぐに答えた。
「木に登ったり、屋根に上がったり」
「……孤児院の屋根ですか」
「ああ。庭の木から、端に手が届くところがあってさ」
エルナは、訪れた建物を思い浮かべた。庭から見上げた屋根の上へ、二人とも登っていたらしい。
「ルークも?」
隣を見ると、彼は頷いた。
「俺も登れたよ。ただ、フィンの方が早かった」
「俺が上で待ってるんだよ。まだ来ないのかって」
「先に行ったの、お前だろ」
「そりゃ、先に着くから」
フィンが杯を取る。その顔を見て、エルナは笑った。
「上がって、何をするの?」
ニーナが尋ねた。
「寝転がったり。塀の向こうを見たり。屋根の上なら、道まで見えるんだ」
「叱られなかったんですか」
「叱られたよ。二人とも」
今度はルークが答えた。
フィンが杯を下ろす。
「あれ、こいつが下を覗いたんだよな」
「マルタさんの声がしたからだろ」
「それで、目が合った」
フィンが言うと、グレンも笑った。
「降りてくるまで、下で待たれてたな」
「グレンも、見ていたんですか」
「ああ。呼ばれて庭へ出たら、二人とも上にいた」
「降りたら、並ばされた。どっちから登ったって聞かれて」
ルークは向かいへ目を向けた。
「フィンって答えた」
「そこは迷わないんだよ、こいつ」
フィンが言った。バルドの笑い声が、卓の端から上がる。
「先だったんだろうが」
「そうだけどさ」
エルナはフィンへ顔を向けた。
「一人で登っていれば、叱られずに済んだかもしれませんね」
「一人じゃ、つまんないだろ」
すぐに返ってきた。フィンは笑って、杯を取る。
「まあ、先に上で待ってるのは、俺だったけどな」
「川じゃ違ったけど」
ルークが言った。
フィンの手が止まる。エルナは二人を見比べた。
「川?」
「泳げなかったんだよ。こいつ」
「最初は、だろ」
フィンがすぐに返す。
「一緒に遊びに行ったら、浅いところから動かないから。どうしたんだと思って」
「お前が、先に泳いでいくからだ」
「泳ぎに行ったんだろ」
「だから、そのあと練習したんだよ」
ニーナが、口元へ指を添えて笑っていた。
エルナも匙を持ち直したが、口へ運ぶ前に、またフィンを見る。
「泳げるようになるまで、何度も行ったんですか」
「行った。浅いところで、ずっとやってたよ。手を動かすと、足が沈むしさ」
「ちゃんと泳げるようには、なったよ」
ルークが言った。
「そう。ちゃんと、なった」
フィンは頷き、杯を取る。
「それからは、勝負したんですか」
エルナが聞くと、ルークが先に笑った。
「した」
「こいつに勝てたことは、なかったけどな」
フィンがルークを指した。
「ずっと泳いでたやつに、追いつけって言われてもな」
「勝負しようって言ったのは、フィンだろ」
「泳げるようになったら、やってみたくなるだろ」
ルークが笑う。エルナもつられて笑い、匙が器の縁へ軽く触れた。
「二人とも、負けるともう一回やりたがったな」
グレンが言った。
「駆けっこでも、球投げでも。終わりにしようって言ってから、長いんだ」
「だって、あと少しならって思うだろ」
フィンが返す。
「それは、わかる」
ルークまで頷き、エルナはまた笑った。
「グレンも、一緒に遊んでいたんですよね」
「ああ。ハンスやリリアもいたし、ほかの子もな。庭で遊ぶ時は、人数が増える」
グレンは、パンへ煮込みの汁を少し含ませた。
「棒を振ってた時には、二人とも、よくついてきてたよ」
「棒、ですか」
「剣のつもりでな。俺は、子どもの頃から冒険者になりたかったから。強くなりたいって連中で集まって、走ったり、振ったりしてた。ハンスも一緒だったよ」
エルナは顔を上げた。
「パン屋の、ハンスですか」
「そう」
グレンが頷く。
店の奥でパンを並べていた人が、木の棒を握っている。隣には、今より小さいグレンがいた。
「少し、意外です」
「今は、生地を捏ねてるからな」
グレンが笑った。
「そっちも腕は使うだろ」
バルドが言う。ちぎったパンを持ち上げ、自分の腕を曲げてみせた。
「毎日やってりゃ、いい鍛錬になりそうだ」
「今度、聞いてみればいい」
フィンが言い、バルドは本当に聞くつもりらしく頷いた。
ルークも笑い、器に残っていた根菜をすくった。
「グレンが出たあとも、やってたよ。まだ残ってた年上のやつらと」
「ああ。あれな。遊びに行こうと思って呼んだら、こいつが棒を振ってるんだよ」
フィンが言った。
「お前も、たまに一緒にやってたろ」
「たまにな」
「俺を呼びに来たんじゃなかったのか」
「待ってるより、動いてる方がいいだろ」
グレンが笑った。
エルナは二人を見比べた。
「待っているうちに、自分もやりたくなってしまうんですね」
「見てると、簡単そうに見えるんだよ。やると、そうでもないけど」
フィンが言った。
「それで、もう一回になるんだろ」
ルークが返すと、フィンもすぐに口を開いた。
「お前もだろ」
エルナは口元を緩め、手元のパンを両手で割った。
主人が、パンの入った籠を運んでくる。
「追加、いるかい」
「もらう」
バルドが答えた。エルナは籠を受け取り、ニーナへ回す。
「酒も、もう一杯」
フィンが空いた杯を上げる。
「俺も頼む」
バルドが続けた。
食事処には客が増えていた。入口で立ち止まった男が、壁際の卓へ声をかける。座っていた一人が立ち、荷物を寄せて場所を空けた。
エルナは、パンの端をちぎった。
「仕事のあとも、皆で食べたりするんですか」
「一緒の時もあるよ」
フィンが答えた。
「組んだ顔ぶれによるけどな。飯だけの時もあるし、そのまま飲む時もあるし。仲間と娼館まで流れたこともあるよ」
「長いな、お前の飲みは」
バルドが言った。
「休みの前だって。仕事の前の日に、そこまで飲むかよ」
新しい杯が運ばれ、フィンは場所を空けた。バルドも礼を言って受け取り、主人へ朝の食事は何時から出るのか尋ねている。
窓の外は、もう暗くなっていた。
入口が開くたびに、外の空気が足元を通る。奥の卓から笑い声が上がり、その向こうを、料理の皿を持った店の人が通っていった。
エルナは残っていたパンを食べ終え、匙で器の底をすくった。
ルークが籠の最後の一つを取り、こちらへ見せる。
「まだ食べる?」
「半分なら」
彼が二つに割り、片方を渡してくれた。エルナは受け取り、残っていた煮込みの汁へ少し浸す。
ニーナは背筋を伸ばし、肩へ掛かっていた髪を払った。
「部屋へ戻ったら、そのまま眠ってしまいそうだわ」
「私もです。座っていたら、眠くなってきました」
「揺れなくなったからかしら」
「それも、あるかもしれませんね」
エルナは椅子に座り直し、足を少し前へ伸ばした。ルークも、卓の下へ足を投げ出している。
フィンが杯を傾けながら、グレンへ明日の道を尋ねた。エルナもパンを食べながら聞く。話の合間には、隣の卓の声や、戸口で交わす挨拶が届いた。
バルドが、空になった杯を置いた。
「さて。馬の方、見てくるか」
「俺も行くよ」
フィンが残りを飲み、杯を下ろす。
ニーナも、そろそろ筒を見てくると言った。グレンから鍵を受け取り、階段へ向かう。フィンとバルドは、馬の様子を見てから上がると言って、裏口へ向かった。
エルナは食べ終えた器を卓の奥へ寄せ、散らばったパン屑を集めた。隣では、ルークが最後のパンを口へ入れている。
グレンは主人と、朝の出発のことを話している。
エルナが立つと、ルークも椅子を引いた。
「上がろうか」
「はい」
卓から離れ、階段へ向かう。
ルークが先に一段上がり、手すりへ手を掛けた。それから、エルナを振り返る。
エルナは彼の顔を見て、少し笑った。
「どうした?」
「フィンを追いかけて、屋根へ上がるところを想像してしまって」
「まだ、あの話?」
ルークも口元を緩めた。
「はい。もう少し待ってほしくて、呼んだりしていたのかなって」
「呼んでも、先に行くんだよな。あいつ」
「今、木登りをしたら、どうなるんでしょう」
ルークは、少し考える顔になった。
「どうかな。今でも、あいつは身軽だし」
「やってみたくなりますか」
「……もう一回くらいは」
エルナは笑った。
目の前の彼が、屋根の端へ手を伸ばす。今よりずっと小さな手で、先へ行く友人を追いかける。
「やっぱり、負けたくないんですね」
「それは、そうだろ」
ルークは言ってから、エルナを見た。
「そんなに、面白かった?」
「はい」
エルナは素直に頷いた。
「あなたのことですから」
彼は、少し黙った。
それから笑い、手すりから手を離した。エルナへ手を差し出す。
「じゃあ、フィンの話も思い出しとく」
「また言い返すんですか」
「少しは」
エルナは笑いながら、その手を取った。
指が重なる。彼の手は、自分の手をすっぽり包むほど大きい。
握り返して、一段目へ足を掛ける。
ルークも歩き始めた。すぐ隣で、彼はまだ少し笑っていた。




