第93話 銀白の髪
朝食に使った器は、もう木箱へ収まっていた。
エルナは荷馬車の陰へ布を敷き、鞄から櫛を取り出した。ニーナも保存筒の点検を終え、ケースを閉じている。
馬のそばではフィンが具を直し、バルドは丸めた寝具を荷台へ上げていた。ルークは水袋を提げ、水場の方へ歩いていった。グレンは荷馬車の前に立ち、枝道の曲がる方へ目を配っていた。
エルナは腰を下ろし、髪布の端を引き出した。
ほどいた髪が肩へ落ちる。櫛を通すと、毛先の方で少し引っかかった。指で分け、もう一度、下から梳いていく。
「エルナ」
ニーナは手を拭いた布をしまい、鞄を手にそばへ来た。
「その髪、少し編んでもいい?」
エルナは櫛を止めた。
「編むんですか」
「ええ。似合いそうな形があるの」
ニーナは顔の脇へ手を上げ、髪を取る辺りを指してみせた。
「ここから少しずつ編んで、後ろで合わせるの。残りは、そのまま下ろして」
エルナは自分の髪を見た。いつもは梳いてまとめ、布へ収める。それ以上、形を変えようと思うことはほとんどなかった。
ニーナは、編んだ時の形を考えているらしい。エルナの顔と髪を見て、少し笑う。
「出るまでの間だけでも。今なら、皆だけだもの」
エルナも口元を緩めた。
「はい。お願いします」
櫛を差し出すと、ニーナが受け取った。鞄から細い紐を出し、代わりに渡してくる。
「あとで、それを渡してくれる?」
「わかりました」
髪布を鞄の上へ置く。フードは背に下ろしたままで、左手首の腕輪にも触れなかった。
ニーナが後ろへ回り、敷いた布の端へ膝をつく。
「引っ張ったら言ってね」
「はい」
櫛が毛先から入った。
エルナは紐を膝へ置き、手を重ねた。自分で梳く時とは違うところへ、少しずつ力が伝わってくる。
ニーナは絡んだところを指で分け、櫛を通し直した。
「長いわね。編み目も、綺麗に出そう」
髪を一束、肩の前へ寄せてくれる。朝の光を受けた銀白の髪が、指の間で細く分かれた。
「ニーナは、自分の髪も編むんですか」
「ええ。後ろは見えないから、少しやりにくいけどね」
ニーナは櫛を鞄の上へ置き、エルナの顔の脇から髪を取った。
「家にいた頃は、よく編んでもらっていたの。自分でもやってみたり、いろいろね」
「ご家族に?」
「ええ。父も、母も」
「お父さんも、編んでくれたんですね」
「そうよ。うちはあまり、お金がなかったから。新しい服や飾りは、なかなか買えなかったの」
ニーナの指が、分けた髪を交差させていく。
「それなら髪だけでも可愛くしてやろうって、二人でいろいろ考えてくれてね」
エルナは少し顔を上げた。
「母が、よく言っていたわ。女の子は、おしゃれするともっと可愛くなるのよ、って」
後ろで、ニーナが小さく笑った。
「私も、そう思うの」
髪が、もう一度ゆっくり引かれる。
エルナは膝へ目を落とした。預かっている細い紐を、指で軽く撫でる。
ニーナは、どんな形にするのかを楽しそうに話していた。髪を取る量を変え、途中まで編んだところを確かめている。
自分のために、そうしてくれている。
「……ありがとうございます」
「まだ出来てないわよ」
「はい。でも、嬉しくて」
ニーナの手が、少し止まった。
「そう。それなら、よかった」
また指が動き始めた。エルナも肩の力を抜き、預かっている紐をゆるく持ち直した。
片側が出来ると、ニーナは細い編み目を肩の前へ回して見せてくれた。
「こんな感じ。もう片方も、同じくらいにするわ」
エルナはそっと指を添えた。
同じ髪なのに、束ねるだけの時とは違って見える。細かな重なりが、先へ向かって続いていた。
「綺麗に揃っていますね」
「少しずつ取るの。慣れると、それほど難しくないわ」
ニーナが編んだ髪を後ろへ戻す。エルナは手を膝へ下ろした。
「昔から、手先を使うことが好きだったんですか」
「ええ。うちでは魔道具を買うのも難しかったから、自分で作れたらと思って。錬金術師になれば、暮らしも変えられるでしょう」
反対側の髪が、少しずつ取られていく。
「手に入る本は、何度も読み返したわ。でも、初めは覚えるばかりでね。作ってみたくても、魔石がなかったの」
ニーナは髪の束を持ち替えた。
「そんな時、父が魔石をくれたの。魔力がほとんど残っていない、小さな石だったけど。これで何か作れるか、って」
「何を作ったんですか」
「小さな灯りよ。机の上を照らせるくらいのもの」
ニーナの指が、編み目を揃えるように下へ動いた。
「父も母も、何度も手に取って見てくれてね。私が作ったんだって、すごく喜んでくれたの。長くは点かなかったんだけど」
後ろから聞こえる声に、笑いが混じった。
「でも、ちゃんと灯ったのよ。本で読んでいたものが、目の前で」
エルナも、口元を緩めた。
「嬉しかったんですね」
「ええ。二人が喜んでくれたのもね」
ニーナの指が、また髪を分けていく。
「村では天才だなんて噂になって、訪ねてきた行商人に声をかけてもらえたの。その人の助けで学ぶ道が開けて、ラーデンで資格を取るところまで来られたわ」
エルナは、荷台の大きい筒へ目を向けた。
今朝も、ニーナが点検具を当て、光を見ながら確かめていた。あの筒も、自分で作ったものだと聞いている。
始まりは、父親から渡された小さな石だったのだ。
「その紐、もらえる?」
「あ、はい」
エルナが差し出すと、ニーナの指が端を受け取った。
両側から編んだ髪が後ろで合わされる。軽く引かれ、結び目が収まった。
「出来たわ」
ニーナが手を離す。
エルナは背筋を伸ばし、顔の脇へ指を添えた。細く編まれた髪が、耳の上から後ろへ続いている。残りは肩から背へ落ちていた。
「少し、こっちを向いて」
顔を上げると、ニーナが仕上がりを見ていた。
「うん。やっぱり、似合うわ」
「ありがとうございます」
水袋を手に戻ってきたルークが、荷馬車の手前で足を止めていた。
エルナが顔を向けたところで、そばから声がした。
「……へえ」
紐を持って戻ってきたフィンが、足を止めていた。視線が編んだ髪へ動き、それからエルナの顔へ戻る。
「それ、いいな」
エルナが礼を言うと、彼は頷いた。それでも、まだこちらを見ている。
「フィン。その端、こっちへ回してくれ」
バルドの声で、彼が手元を見た。
「ああ。今やる」
紐の端が渡る。バルドもエルナへ目を向け、口元を緩めた。
「おう。似合ってるじゃないか」
そう言って、荷台の束へ紐を回す。
荷馬車の前にいたグレンも、編み上がった髪へ目を留めていた。エルナがそちらを見ると、目が合う。彼は一拍遅れて頷き、小さく笑った。それから枝道へ顔を戻す。
エルナは、もう一度ルークへ顔を向けた。
彼は、まだこちらを見ていた。
視線が髪から顔へ戻り、目が合う。けれど、彼はすぐには何も言わなかった。
「……どうですか」
尋ねると、ルークが小さく息を吐いた。
「すごく似合う」
彼はエルナを見たまま、少し笑った。
「綺麗だなって、見てた」
その声を聞くと、エルナの口元も緩んだ。
編み目へ触れていた手を下ろす。自分の髪の形より、今はこちらを見ている彼の顔へ目が向いた。
「……嬉しいです」
ルークも笑った。
ニーナが、鞄の上から櫛を取って差し出してくれる。
「後ろも、綺麗につながっているわよ」
「はい」
エルナは櫛を受け取り、鞄へ戻した。
ニーナは立ち上がり、自分の荷を取りに行く。エルナも敷いていた布を畳んで鞄へ戻し、髪布を手に取った。
ルークが水袋を自分の鞄へ収める。フィンとバルドも、寝具を留め終えていた。
ニーナは保存筒の脇へ鞄を置き、荷の紐が輪へ掛かっていないことを確かめている。
エルナは、その筒へ目を向けた。
「ニーナ。一昨日、筒を調整した時のことで、話したいことがあるんです」
ニーナがこちらを見た。
「狼が出た日の?」
「はい。私も布を押さえて、筒に触れていましたよね。調整した状態がそのまま保たれればと思ったら、何かを押さえるような手応えがあったんです」
ニーナは筒へ目を落とした。
「魔法を使ったの?」
「そのつもりはありませんでした。熱が動く感覚もなかったんです。でも、気になって」
ルークも、荷台のそばへ来た。
「それで、その夜に湯で確かめてみました」
「湯で?」
「はい。同じくらい温かい湯を二つの器に分けて、片方だけに触れたんです。そうしたら、何もしなかった方が冷めたあとも、触れた方には温かさが残っていて」
「俺も、両方触ったよ」
ルークが言った。
「同じ場所に置いてたのに、はっきり違った」
「温め続けていたわけではないのね」
「はい。昨日は井戸水でも試しました。冷たさも同じように残ったんです。ただ、どちらも時間がたつと、少しずつ元に戻りました」
ニーナは少し考えてから、筒の蓋のそばへ目を向けた。
「あの日は、確かに長く落ち着いていたわ。橋を渡ったあとも、調整し直さずに済んでいたから」
「でも、筒でも同じことが起きたのかは、まだわかりません」
「ええ。偶然かもしれないし、あなたが触れたことと関係があるのかもしれない。今はまだ、決められないわね」
エルナは頷いた。
ニーナは、点検具を収めたケースへ目を向けた。それから、声を少し落とす。
「その働きを使った時も、命紋は進むの?」
エルナは髪布へ添えた手を止めた。
「……それは、わかりません。熱を動かす時とは違う感じでした。でも、それなら命紋が進まないのかどうかまでは」
ニーナは、筒から手を離した。
「試したあと、身体はどうだった?」
「具合が悪くなったりは、しませんでした。でも、それだけでは……」
「ええ」
ニーナは、しばらくエルナを見ていた。
「わからないまま、何度も試すのは心配だわ」
エルナは頷いた。
「筒を見た時の記録なら、残してあるの。まず、それも見直してみるわ」
ニーナはケースへ一度目を向け、それからエルナへ顔を戻した。
「また確かめる時には、私にも声をかけてくれる?」
「一緒に見てもらえますか」
「ええ。どう確かめるかも、一緒に考えましょう」
エルナの肩から、少し力が抜けた。
「はい。お願いします」
ニーナが頷く。
「筒の方は、これまでどおり途中でも見るわ。昨日も、少し合わせ直しているから、あの時のままずっと、ではなかったの」
「はい。昨日の朝も、調整していましたね」
「働きが落ち着いていても、魔石は使うしね。そこも、別に見ておきたいわ」
ニーナがケースを置き直した。
エルナも、大きい筒へ目を向ける。
まだ、何が起きているのかはわからない。それでも、ニーナは自分が見たことを聞き、筒を扱ってきた側から話してくれた。
次に確かめる時には、その人も一緒にいてくれる。
「冷たい水が長く残るなら、道中は助かるな」
荷の固定を確かめていたバルドが言った。
「水袋でも出来るかは、まだ試していないんです」
「そうか。器と袋じゃ、違うかもしれんな」
「はい」
エルナが答えると、バルドは頷き、結んだところを確かめた。
グレンが枝道の方から顔を戻す。
「そろそろ、出られそうか」
「ええ。筒も荷も大丈夫よ」
ニーナが返す。
フィンも馬のそばで手を上げた。ルークがエルナの鞄を、荷台へ上げやすいところへ寄せてくれる。
エルナは髪布を広げた。
後ろで合わされた編み目へ触れ、背へ落ちている髪を前へ集める。ニーナが、その端を受け取った。
「ここは、少し余裕を残して巻くといいわ」
「このくらいですか」
「ええ。そこを押さえていて」
エルナが布を持つ。ニーナが髪を収め、編んだところへ強く当たらないよう形を整えてくれた。
端を入れ、エルナもそっと確かめる。
髪はすべて、布の中に収まっていた。
「崩れていたら、また編み直せばいいわ」
ニーナが言った。
エルナは手を下ろし、その顔を見た。
「その時も、お願いしていいですか」
「ええ。もちろん」
ニーナが笑う。エルナも笑い、フードをかぶった。
グレンが御者席へ上がり、手綱を取る。フィンは前へ出て、バルドが荷の後ろを一度確かめた。
ルークの手を借り、エルナも荷台へ上がる。
左側へニーナが座った。エルナは右側へ腰を下ろし、自分の鞄を収める。ニーナも足元の紐を内側へ寄せた。
馬が動き始める。
木々の間へ荷馬車が進むと、朝の光が板の上を移った。ルークも右脇へつき、歩き始めている。
エルナは髪布へ、一度だけ指を添えた。
布の下に、細く編んでもらった形が残っている。
隣へ目を向けると、ニーナもこちらを見た。エルナが小さく笑うと、彼女も笑ってくれた。
エルナは手を下ろし、続いていく道へ顔を向けた。




