第92話 話しておきたいこと
荷馬車が曲がると、村の屋根が木々の向こうへ隠れた。
エルナはしばらく、遠ざかる畑を見ていた。
「その包み、箱の横へ寄せてもらえる?」
ニーナの声で、エルナは荷台へ目を戻した。
買い足した食料の包みだった。端が少し張り出し、ニーナが点検具のケースを置くところへ重なっている。
「ここでいいですか」
「ええ。紐も、そばにあるわ」
エルナは包みを寄せ、紐を取った。ニーナが端を受け取り、木箱の持ち手へ回す。
二人で留め、手を離して確かめた。ケースを置いても、包みは動かなかった。
「ありがとう。これなら出しやすいわ」
「はい」
ニーナがケースを開く。エルナは荷台の外へ目を向けた。
御者席にはグレンがいる。フィンは荷馬車より先を歩き、ルークは右脇、バルドは後ろにいた。
昼に聞いた呼び名が、不意に浮かぶ。
雪の魔女。
店主は、白銀の長い髪をした若い魔女だと話していた。自分の名前も、顔も知らないまま。
エルナは髪布の端へ触れた。
そこから髪は出ていない。左手首には腕輪があり、小さな石は淡く光っていた。
土の下から掘り出された、淡い藤色の髪の赤ん坊を思い出す。触れた指は冷たく、ロザリーが抱き続けても、温かくならなかった。
何もしていなくても、魔女だというだけで命を奪おうとする人がいる。
隠しているのは、そういう人から自分を守るためだった。
車輪が石を越える。
ニーナが木箱へ手を添え、エルナも隣で身体を支えた。
「ここ、石が多いわね」
「はい。さっきから、何度も揺れますね」
ニーナが少し笑った。
エルナも笑い、縁を持ち直す。
並んで座り、必要なものを渡し、揺れれば同じように手をつく。こうして過ごす時間を、エルナは好きになっていた。
エルナは、もう一度髪布の端へ触れた。
あの噂と自分が結びついたら。
隣にいる人も、知ることになる。その時、この距離や声まで変わってしまうだろうか。
エルナは布の端を入れ直した。
ニーナがケースを閉め、脇へ置く。エルナはそこへ紐が出ていないことを確かめてから、道へ目を戻した。
*
夕方、フィンが街道の脇で足を止めた。
木立の間に細い道がある。彼が奥へ入り、グレンも馬を止めて御者席から下りた。
ルークは荷馬車の脇に残り、バルドは後ろの道を見ている。エルナも荷台から木々の間へ目を向けた。
少しして、二人が戻ってきた。
「ここで休もう。水も近い」
グレンが言い、荷馬車を枝道へ入れる。
一度曲がった先に、草の低い場所があった。街道は木立に隠れ、ここからは見えない。
エルナは地面へ下り、来た方を見た。草の薄いところには、古い車輪の跡が残っている。
ほかの人も、使う場所なのだろう。
ニーナは荷台の保存筒へ向かった。グレンとフィンが馬を外し、ルークは水袋を取る。バルドも薪を探しに行った。
エルナは食料を出し、布の上へ根菜を並べた。
手を洗い、ナイフを取る。切ったものを鍋へ移していると、フィンが細い枝を持って戻ってきた。
「これ、火をつける方に使える?」
「はい。ここに置いてもらえますか」
「わかった」
彼はしゃがみ、枝を揃えた。エルナが干し肉の包みを取ると、端を踏まないよう少し横へ寄る。
いつもの声だった。
銀白の髪を見たあと、ルークの部屋へ来てくれた時も。
体調を気遣い、街のことを話してくれた。帰る前には、元気になったらまた一緒に仕事をしようと言っていた。
「飯、どのくらいで出来そうだ?」
馬のそばから、グレンが尋ねる。
「もう少し切れば、あとは煮るだけです」
「なら、先に馬を見てくる」
エルナが頷くと、彼は馬の方へ戻った。
二人とも、自分が魔女だと知っている。
あの部屋では、噂が自分の名前と結びついていないかも尋ねた。けれど、二人は今日も、同じ調子で話している。
エルナは切った干し肉を鍋へ入れた。
また一緒に仕事をしようという言葉が、今、こうして続いている。
ニーナが点検具を収め、残りの根菜を手にして隣へ来た。
「これも入れましょう」
「はい。これ、使ってください」
エルナが板を寄せる。ニーナは空いたところで皮を剥き、切るものを並べた。
バルドも太い枝を抱えて戻り、フィンの揃えたものとは分けて置いている。水を運んできたルークが、鍋へ水を注いだ。
六人で手を動かしている。
エルナもナイフを持ち直し、残りを切った。
話さずに、旅を続けることもできる。
誰からも、説明を求められてはいない。
それでも、髪を見た二人が変わらず接してくれたことは、嬉しかった。ニーナやバルドとのやり取りにも、気を張らずに返事ができる時間が増えている。
エルナは鍋へ最後の根菜を入れた。
この人たちには、自分の言葉で伝えてみたい。
ニーナとバルドが、知ったあとにどうするかは分からない。午後に感じた怖さも、まだあった。
けれど、今夜、自分から話そうと思った。
ルークが鍋を火へ掛ける。ニーナがそばへ腰を下ろし、時々混ぜながら煮えるのを待ち始めた。
エルナは布で手を拭いた。
話すなら、魔女だということだけではなく。
魔法を使う時に、何を使っているのかも知っていてほしい。
寝具を下ろしに荷馬車へ戻ると、ルークも敷布の束を取り出していた。
「こっち、空いてるよ」
草の低いところを指す。
「はい。……ルーク」
「何?」
エルナは毛布を鞄の横へ置き、声を落とした。
「今夜、みんなに、私が魔女だと話したいんです」
ルークの手が止まった。
こちらを見てから、火のそばへ一度目を向ける。
「命紋のことも?」
「はい。使うと、疲れるだけではないことも、知っていてほしくて」
ルークは少しの間、黙っていた。それから頷く。
「夕飯のあとなら、みんな揃ってる。俺も隣で聞くよ」
「はい」
エルナは枝道へ目を向けた。
「ここも、ほかの人が来ることはありますよね」
「あるよ。話してる間も、周りは見てよう。近づいてきたら、一度止めればいい」
エルナは頷き、丸めた敷布を取った。
ルークも自分の分を下ろす。二人で寝床を整えてから、火のそばへ戻った。
*
食後の火は、鍋を煮ていた時より小さくなっていた。
ニーナが器をまとめ、バルドは残ったパンの包みを閉じている。フィンは枝道へ顔を向けられるところに座り、グレンも時々、林の方を見ていた。
エルナは自分の鞄を、膝のそばへ寄せた。
「少し、聞いてもらいたいことがあります」
四人がこちらを向く。ルークも隣へ腰を下ろした。
エルナは声を落とした。
「ここで話すことは、皆さんの間だけにしてもらえますか」
「わかった。外へは話さない」
グレンが答えた。
フィンも頷く。バルドは短く返事をし、ニーナはエルナを見て「ええ」と言った。
エルナは膝に置いた手を、軽く開いた。
一度話せば、知られたことは戻せない。
ニーナとバルドの顔を見る。二人は、続きを待っていた。
火のそばにいる五人へ届くくらいに、声を抑えた。
「私、魔女なんです。ラーデンで、魔法を使いました」
ニーナの手が止まった。
バルドも包みから顔を上げる。エルナはグレンとフィンへ目を向けた。
「二人には、あの時に見られていましたけど。魔法のことは、私からきちんと話していませんでしたから」
グレンが頷く。フィンもこちらを見たまま、続きを待っていた。
言葉で伝えたあとも、髪は布の中にある。
今は、髪も隠さずに話したかった。
フードを背へ下ろす。
左手首の腕輪を外し、開いた鞄のいちばん上へ置いた。次に、髪布の端を引き出す。
指が、少し止まった。
エルナは一度息を吸い、布をほどいた。
銀白の髪が肩から背へ落ちる。
ニーナの視線が、髪へ動いた。バルドもこちらを見ている。
「……あの時の魔女、お前だったのか」
バルドが声を落として言った。
「はい」
「白い髪だってのは聞いてたが」
彼は髪を見てから、エルナの顔へ目を戻した。
「そうか。お前だったんだな」
ニーナも、髪から顔へ視線を戻す。
「その腕輪も、隠すためのものだったの?」
「はい。見た人の意識を、少し逸らす魔道具です」
「そう。……気づかなかったわ」
まだ驚きの残る顔だった。けれど、ニーナは顔をそむけず、エルナへ返事をした。
バルドも、座っていたところから動いていない。
エルナは息を吐いた。
布をほどいてから、止めていたらしい。
髪布を畳み、腕輪の下へ敷く。人が近づけば、先にフードをかぶれる。布も、すぐ取れるところにあった。
エルナはグレンとフィンを見た。
「見舞いに来てくれた時も、二人はいつもと同じでしたよね」
フィンがこちらへ顔を向ける。
「それが、嬉しかったんです」
「俺もさ、聞いていいのか分からなくて」
彼は弓の端へ指を置いた。
「話したくないことまで、聞くのもなと思ってた」
「……そうだったんですね」
「ああ」
エルナは彼を見た。
フィンが尋ねてこなかった理由を、今、初めて聞いた。
グレンもこちらへ顔を向ける。
「お前を信用してる。魔女だと分かっても、それは変わらない」
エルナは膝へ目を落とした。
指先に入っていた力を抜く。肩に触れる髪が、少し動いた。
顔を上げると、グレンはまだこちらを見ていた。
「……ありがとうございます」
グレンが頷き、林の方へ目を向けた。
エルナはそのまま、しばらく座っていた。
ニーナが、ゆっくり口を開く。
「火は、冷やして弱めたの?」
「熱を、別のところへ移しました。あの獣からは、異常に溜まっていた熱だけを。火事では、燃えているものと、火が広がる先から」
エルナは続けた。
「人や家畜の身体には、触れないようにしました」
「それで、雪が?」
「はい。周りの空気が冷えて、そこにあった水分が雪になったんです」
ニーナは火へ目を向け、それからエルナへ戻した。
エルナも小さな炎を見た。
「それと、使う時の負担のことも、話しておきたいんです」
服の上から、左胸へ手を添える。
「魔力は、休めば戻ります。でも、魔法を使う時に減るのは、魔力だけではないんです」
グレンがこちらを見た。
「魔女には、命紋という紋様があります。年を取ったり、魔法を使ったりすると、少しずつ形が増えていきます」
エルナは五人の顔を見た。
「一度進んだ分は、戻りません。命紋が完成した時、その魔女は死にます」
フィンの指が止まった。
バルドは膝に置いていた手を握る。ニーナの唇も少し動いたが、すぐには声にならなかった。
エルナは胸元から手を下ろし、待った。
薪の端が、小さく割れた。
少しして、グレンが尋ねる。
「今は、大丈夫なのか」
「はい。火事のあと、目を覚ましてから確かめました。少し線が増えていましたけど、余白は、まだかなり残っていました」
「そうか」
グレンは頷いた。
それでも、すぐには次のことを聞かなかった。
フィンは弓へ目を落とし、やがて顔を上げる。ニーナは膝の布を見ていた。
「知らなかったわ」
静かな声だった。
「魔法を使うことに、そういう代償があるなんて」
「はい」
エルナは答え、火の方へ目を向けた。
ラーデンでは、こんな小さな火ではなかった。水を運ぶ人が走っていても、その先へ火の粉が飛んでいた。
「使ったことは、後悔していません。あの時は、ラーデンを守りたかったんです」
顔を上げる。
「ほかの方法で止められるなら、その方がよかったですけど」
ニーナが、ゆっくり頷いた。
バルドも口を開く。
「……俺も、あの火は止めたかった」
膝に置いた手を開いた。
「柵を切ってる間にも、火の粉が先へ飛んでたからな」
エルナは彼を見た。
燃える柵へ斧を振るっていた姿が浮かぶ。バルドも、そこで出来ることを続けていた。
「今の話は、聞いといてよかった」
「はい。知っていてほしかったんです」
エルナが答えると、グレンがこちらへ顔を向けた。
「必要な時は、俺たちにも言ってくれ。出来ることがあるかもしれない」
「はい」
「使わずに済む方法も、一緒に考えよう」
エルナは頷いた。
「お願いします」
隣のルークも、黙って聞いていた。エルナがそちらを向くと、目が合う。
彼には、前にも話した。
今日は、ほかの四人も聞いてくれた。
エルナは鞄の上へ目を落とした。畳んだ髪布と腕輪が、火の明かりに見えている。
「教えてくれてありがとう」
ニーナが言った。
エルナはその声を聞き、顔を上げる。
「……ありがとうございます」
*
「これ、洗う水だろ?」
バルドが桶へ目を向けた。
「はい」
「そっちへ寄せるぞ」
彼が木箱のそばへ運ぶ。エルナも立ち上がると、ニーナがまとめた器を差し出した。
「匙も、こっちにあるわ」
「はい」
両手で受け取り、水を少し回す。
顔を下げた時、髪が前へ滑ってきた。エルナは背へ払い、器の底に残った汁を落とした。
ルークが布を取って隣へ来る。
「洗ったら、渡して」
「お願いします」
器を渡し、次のものを受け取る。
グレンは馬の縄を見に行き、フィンは枝道の方で立ち止まっていた。バルドは残った薪を寄せ、ニーナは荷台へ点検具を取りに戻る。
エルナは最後の器を洗い、ルークへ渡した。
拭いたものを木箱へ重ねる。匙もまとめて収めていると、ニーナが戻ってきた。
「鍋の蓋、脇に入れてもらえる?」
「ここですか」
「ええ。そっちなら、朝も出しやすいわ」
エルナが場所を空けると、ルークが洗った鍋を下ろした。ニーナが持ち手を倒し、エルナは蓋を脇へ入れる。
「これで、収まりましたね」
「ええ」
ニーナが頷く。エルナも木箱を閉じた。
髪は、まだ肩に出ていた。
ニーナは、魔女だと知ったうえで隣に立ち、朝の支度の話をしてくれる。
午後、荷台で聞いたのと同じ声だった。
エルナもその顔を見て、普通に返事が出来た。
鞄のそばへ戻り、腕輪を取る。
眠ってからでは、人が近づいてもすぐには隠せない。エルナは左手首へ腕輪をつけ、髪布を広げた。
髪をまとめ、包む。
すぐそばで、ニーナが自分の毛布を広げていた。エルナも布の端を入れ直した。
巻き直すところを、その人に見られてもよかった。
「最初は、俺とフィンで見てる」
戻ってきたグレンが言った。
「ほかの四人は、先に休んでくれ。交代の時に起こす」
「わかった」
ルークが答える。
エルナも敷布へ腰を下ろし、膝へ毛布を掛けた。隣ではルークが靴についた草を取っている。
彼がこちらを見た。
「話せたね」
「はい」
エルナは頷き、少しして続けた。
「……怖かったです」
「うん」
「でも、話してよかったです」
ルークはエルナを見て、少し笑った。
エルナは、ルークの手へ自分から手を伸ばした。
指が触れると、彼も手を開いた。重ねた指を、軽く握り返してくれる。
エルナはしばらく、その手を握っていた。
火のそばでは、フィンがグレンへ何かを伝えている。二人の顔が、順に枝道へ向いた。
ニーナが鞄を置き直す音も聞こえる。
明日の朝には、また器を出す。六人で食べ、荷を積んで、セレドへ向かう。
また迷ったり、怖いと思ったりした時には、この人たちにも話してみていいかもしれない。
エルナはルークの手を離し、毛布を広げた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
髪布の端へ一度触れ、手を毛布の中へ戻す。
エルナは目を閉じた。




