第90話 残る温もり
午後の道では、御者席にフィンが座っていた。
昼に水場で休んでから、グレンと交代した。馬も水を飲み、エルナたちも荷馬車を下りて食事を取った。再び乗った時には楽になった腰が、今はまた、揺れるたびに少し気になっている。
木々の間から差す日が、荷台の縁へ長く伸びていた。前を歩いていたグレンが足を止め、道の脇へ目を向ける。
「今日は、ここで止まろう」
林の切れたところに、細い道があった。奥には草の低い場所が見える。
「前に使ったところか?」
フィンが尋ねた。
「ああ。水も近い」
グレンが先へ入り、フィンも荷馬車を止めて御者席を下りた。二人が草の端や木々の間を確かめるあいだ、ルークは右脇に立ち、バルドは後ろの道を見ていた。
エルナも荷台から周囲を見た。草の低い場所の端には、黒くなった石が残っている。以前にも、ここで火を使ったのだろう。
グレンが戻ってきて手を上げた。フィンが御者席へ乗り、荷馬車を奥へ入れる。
車輪が止まると、ニーナが息を吐いた。
「着いたわね」
「はい」
エルナは鞄の肩紐を外へ出し、荷台の端へ寄った。段へ足を下ろすと、ルークがそばから手を差し出す。その手を借りて地面へ下り、腰をゆっくり伸ばした。
「やっぱり、歩きたくなった?」
「今は、少し」
ルークが笑う。エルナも笑い、彼の手を離した。
ニーナも下りてきて、背筋を伸ばしている。向こうではバルドが肩を回し、フィンは御者席へ置いた鞄を下ろしていた。
グレンは馬のそばへ回っていた。荷馬車から外し、少し離れた木へ繋ぐ。フィンが水の場所を確かめに行くと、ルークも水袋を持って続いた。
ニーナは大きい筒へ点検具を当てていた。エルナはその脇から食料の包みを取り、敷布の束も地面へ下ろす。ケースを開く場所へ鞄の紐が出ていたので、内側へ収め直した。
「夕飯の鍋は、こっちよ」
ニーナが木箱を指した。
蓋を開けると、器や匙の間に鍋が収まっている。取り出し、そばへ置いてから食材の包みを広げた。
干し肉と根菜。パンは布で包まれている。
「野菜、切っておきますね」
「お願い。私も、これが済んだら手伝うわ」
点検具の光が、筒の蓋の近くで淡く灯った。ニーナは側面の覆いも開き、魔石を確かめている。エルナはその手元を一度見てから、採取用のナイフと布を出した。
バルドが薪を抱えて戻ってきた。黒くなった石のそばへ置き、太い枝を分けている。
「水は、向こうか」
「ああ。近いよ」
戻ってきたルークが答えた。水袋を置き、エルナのそばへしゃがむ。
「これに入れる?」
「はい。まず、手を洗いたいので」
器へ水を受け、二人で手を洗った。ルークが板を置き、エルナは切った根菜をその上へ並べていく。
フィンはまた、林の端へ向かっていた。グレンは馬へ水を与え、背中や脚の様子を確かめている。
火がつくと、乾いた枝が小さく鳴った。
ルークが鍋へ水を注いだ。エルナは干し肉と野菜を入れる。小屋で使う鍋より大きく、刻んだものを移しても、まだ底が広く見えた。
ニーナが隣へしゃがんだ。エルナはナイフを止め、彼女へ尋ねる。
「筒の方は、もう大丈夫ですか」
「今は大丈夫。夜にも、もう一度見るわ」
彼女は包みから残りの根菜を取り、皮を剥き始めた。
「これも使いましょう」
「全部ですか」
「ええ。六人いるもの」
エルナは鍋と、残っている食材を見比べた。
小屋では、ルークがいても二人分だった。朝の分まで作った時にも、これほど野菜を刻んではいなかった。
ニーナから渡されたものを切り、鍋へ加える。ルークが火へ掛けると、バルドが薪の位置を直した。
やがて蓋の下から湯気が漏れ始めた。エルナは木匙で混ぜ、野菜の硬さを確かめる。その間に、ルークが器を並べていた。
六つ。
匙も六本あった。ニーナがパンを切り、フィンが戻ってきて、その皿を受け取る。
「もう食える?」
「野菜が、もう少しです」
「じゃあ、こっち置いとく」
フィンはパンを置き、火の向こうへ腰を下ろした。馬のそばから戻ったグレンも鞄を下ろす。
エルナが味を見ていると、ニーナが塩の包みを差し出した。
「少し足します」
「ええ」
混ぜ直すと、今度は根菜も柔らかくなっていた。ルークが空の器を一つ持ち、エルナのそばへ寄せる。
よそって渡す。その器がグレンへ渡り、次の器が差し出された。
最後の器をよそってから、エルナもルークの隣へ腰を下ろした。鍋の中は、ずいぶん減っている。
パンの皿が、火を囲む人の間を回っていた。
バルドが一切れ取り、ニーナへ渡す。ニーナはエルナへ寄せ、エルナが取ると、隣のルークが皿を受け取った。
湯気の向こうで、グレンがスープを飲んでいる。フィンは器を膝へ置き、靴についた土を払っていた。
「午後は、ずっと座っていられたな」
バルドがフィンへ言った。
「あれも、楽ってわけじゃないよ。石を避けたくても、馬車ごとだから」
「避けてくれていたんですか」
エルナが聞くと、フィンは顔を上げた。
「大きいやつはね」
「それでも、あんなに揺れるんですね」
「全部避けてたら、道の端へ行っちゃうからな」
グレンが言った。
エルナは頷き、器を両手で持ち直した。火から少し離れた足元には、夕方の空気が下りてきている。温かいものが腹へ入ると、腰も少し楽になった。
パンの皿が戻ってきた。さっきは重なっていた切れ端が、もう少ない。
ルークは自分の分を取る前に、エルナへ皿を寄せた。
「もう一つ、食べる?」
「はい」
エルナが取ると、彼も一つ取り、残りをフィンへ渡す。フィンは火の向こうへ手を伸ばし、グレンのそばへ置いた。
小屋では、皿は二人の間にあった。
今日は、手を伸ばす先が何度も変わる。誰かの器が空くと、鍋がそちらへ寄せられた。バルドが自分でよそい、まだ残っていると隣へ声をかける。
エルナも器を差し出した。
「少し、お願いします」
「このくらいか?」
「はい」
戻ってきた器には、野菜と肉が一つずつ入っていた。エルナは礼を言い、パンを浸して食べた。
食後は水を分け、器を洗った。ルークが渡してくれるものを拭き、ニーナが木箱へ収める。バルドは残った薪を火のそばへ寄せていた。
グレンが荷馬車の固定を確かめ、戻ってきた。
「夜番は二人ずつにしよう。最初はニーナとバルド、次がルークとエルナ。最後は俺とフィンでやる」
「ああ」
バルドが返し、ニーナも頷いた。
「馬と荷、それから道と林を見ていてくれ。何かあったら、すぐ起こしていい。交代は、次の二人が起きてからだ」
「わかった」
ルークが答える。エルナも頷いた。
敷布を広げる場所には、草が薄く残っていた。石を避けて敷き、鞄を頭の方へ置く。ルークも隣へ自分の寝床を作った。
「こっち、少し下がってる」
彼が地面を指した。エルナは布の端をずらし、手をついて確かめる。
「この辺なら、大丈夫そうです」
「うん」
エルナは髪布の端を入れ直し、フードを外した。毛布を出して横になると、小屋の寝台より、地面の硬さが近かった。
火のそばで、ニーナがケースを開いている。バルドは荷馬車の向こうへ回り、馬の方を見ていた。
隣でルークが横になる。
「おやすみなさい」
「おやすみ。あとでね」
エルナは笑い、毛布を肩まで掛けた。
あとで、話そう。
そう思って目を閉じると、身体の下の硬さより、一日の疲れの方が強かった。
*
「ルーク。エルナ。交代だ」
声で目を開けた。
バルドが二人の寝床のそばに立っていた。エルナが身体を起こすと、隣でも毛布が動く。
「うん。起きた」
ルークが返した。
空は暗く、木々の上に星が見えた。火は眠る前より小さくなっている。エルナは毛布を畳み、外套を着直した。
ルークは剣を腰へ戻していた。エルナもナイフの位置を確かめ、立ち上がる。
「何かあった?」
「いや。馬が一度、動いたくらいだ。道も静かだった」
バルドは答え、荷馬車の方へ顎を向けた。
ニーナが点検具を収めていた。エルナが近づくと、ケースを閉じて顔を上げる。
「荷も筒も大丈夫よ。次に交代する時、私も起こしてもらえる?」
「はい。声をかけますね」
「お願い」
ニーナが寝床へ戻り、バルドも最後に道を見てから横になった。
ルークが馬のそばを確かめている間に、エルナは荷の縄を見た。木箱も、鞄も収めたところにある。荷馬車の脇から街道を見渡し、林の暗いところへも目を向けた。
枝が揺れていた。風が草を撫で、やがて弱くなる。
ルークが戻ってきた。
「馬も落ち着いてる」
「こちらも、荷は動いていません」
二人で火のそばへ戻った。エルナは薪を一本足す。細い炎が上がると、ルークが小鍋へ水を入れ、火へ掛けた。
「少し、湯を沸かそうか」
「はい」
腰を下ろした場所からは、荷馬車の脇を通して街道が見えた。向こうの木々にも隙間がある。ルークは少し横へ座り、林の側を見ている。
エルナもその先を確かめてから、小さく声をかけた。
「ルーク。昼間の筒のことなんですけど」
彼が顔を向ける。
「ニーナが、長く落ち着いていると言っていましたよね」
「うん。合わせ直さなくてよかったって」
「あの筒に、私も少し触れていたんです」
エルナは自分の指を見た。今朝、金属へ触れていたところを、親指で軽く押す。
「布を避けていた時に、整ったところが、そのまま保ってくれればと思って。そうしたら……何かを押さえたような感じがしました」
ルークは黙って聞いていた。
「熱を動かした?」
「いいえ。そのつもりはありませんでした。熱を移す時の感じも、なかったんです」
鍋の底で小さな泡が鳴った。ルークは一度林へ顔を戻し、それからエルナを見た。
「前にも、似たことがありました。山小屋へ移る前、宿で薬瓶を水に入れていたんです。熱に弱い薬だったので、水を少し冷やして」
「魔法で?」
「はい。でも、すぐに止めました。それなのに、眠る前にも、思っていたより冷たく残っていて。部屋はまだ暑かったんですけど……」
エルナは鍋の方へ目を向けた。
「あの時は、気のせいかと思っていたんです。でも、今日の感じが、少し気になって」
「筒が落ち着いてたのも、それかもしれないってこと?」
「……わかりません。ニーナが、うまく合わせてくれただけかもしれないですし」
エルナは荷馬車を見た。大きい筒は、昼間と同じところに収まっている。いくら気になっても、運んでいる試料で何度も試す気にはなれなかった。
ルークが鍋を火から外した。
同じ形の器を二つ出し、同じくらいずつ湯を分ける。どちらにも、細く湯気が立っていた。
「まだ、熱いね」
「はい」
エルナはそばの板へ布を広げた。ルークがその上へ二つの器を並べる。二人とも道へ顔を戻し、しばらく火の音を聞いていた。
木の奥で枝が擦れた。
エルナはそちらを見る。ルークも話をせず、音のした方を見ていた。枝の先が揺れ、少しして、また静かになる。
エルナが器へ手を添えると、もう、持てるくらいの温かさになっていた。
「話しているうちに、冷めてしまいそうですね」
「うん。さっきは、持ちにくかったのに」
ルークも器へ触れた。
エルナは湯の表面を見た。火で温まった水が、今はこの器にある。手のひらへ届く温かさが、もう少し残ってくれればいい。
「……これでも、試せるでしょうか」
「昼間の感じを?」
「はい。熱を動かさずに、今の温かさを、そのままにできたら」
ルークの手が、器から離れた。
彼はエルナを見て、少し間を置いた。
「魔法を使った時とは、違うの?」
その声を聞いて、エルナも彼の顔を見た。
魔法を使えば、命紋も進む。
ルークには、そのことも話してある。
「はい。あの時は、違いました。今も、熱を動かそうとはしていません。あの感じだけ、もう一度確かめてみたいんです」
ルークは頷いた。
「うん。何か感じたら、教えて」
エルナも頷き、器へ目を戻した。指の下に、器の温かさがある。
湯の表面を見て、今ある温かさをここへ残そうと意識した。
昼間と似た、小さな手応えがあった。熱を移す時の流れはなく、指の下で何かを押さえたように感じる。
エルナは指を止め、顔を上げた。
「さっき、少し……ありました」
「昼間と同じ?」
「似ています」
ルークは器を見てから、エルナへ目を戻した。
「じゃあ、少し置いてみようか。俺のも、ここにあるし」
エルナは手を離した。二つの器は、火から離れた同じ板の上に並んでいる。
荷馬車の向こうで、馬が足を踏み直した。
ルークが立ち上がる。エルナは道と林へ目を向けたまま、近づいていく彼の足音を聞いた。馬へかける低い声がして、少しして足音が戻ってくる。
「繋いだところは、大丈夫だった」
「はい」
エルナは馬の方も見てから、二つの器へ順に触れた。自分の分の方が、少し温かい気がする。指を戻してみたが、まだはっきりした違いとまでは言えなかった。
エルナは手を引き、周囲へ顔を戻した。道の向こうは暗いままだった。葉の擦れる音がしている。寝床の方からは、一度だけ布の動く音が聞こえた。
林から風が来ると、火の明かりが細く伸びた。ルークは薪を足し、荷馬車の向こうと林の側を確かめに行く。エルナは道を見て、戻ってくる足音を待っていた。
彼が隣へ腰を下ろしてから、エルナは二つの器へ手を添えた。
今度は、はっきり違った。
ルークの分は、もうぬるい。自分の分には、最初に保とうと思った時の温もりが残っていた。
「ルーク」
声を落として呼び、器を少し寄せる。
「両方、触ってみてもらえますか」
彼は自分の器へ指を添え、エルナの分にも触れた。もう一度、順に確かめる。
「……こっち、まだ温かいね」
「はい」
ルークが顔を上げた。
「置いた時は、同じくらいだったよな」
「そうでした」
エルナは自分の器へ目を落とした。
「熱は、動かしていないんです」
「うん」
「でも、残ってます」
水が冷たく残った夜には、自分の感触しか確かめられなかった。今夜はルークも器へ触れ、同じように温かいと言ってくれた。
彼がこちらを見て笑った。
エルナも笑い、器から手を離した。板の上に置かれた彼の手へ、自分の手を重ねる。
ルークはエルナを見てから、その手を軽く握った。
「……話してよかったです」
「うん。俺も、聞けてよかった」
エルナは繋いだ手を膝の上へ置き、道へ顔を戻した。ルークも林の方へ目を向ける。
風が来ると、火の煙が横へ流れた。向こうの寝床で誰かが寝返りを打ち、毛布の端が動く。
エルナはそちらを一度見た。すぐにまた静かになり、二人もしばらく黙っていた。
空いている手で器を取ると、残っていた温もりは先ほどより少し薄くなっていた。
「これも、冷め始めています」
ルークが器へ触れ、頷いた。
「さっきよりは、そうだね」
エルナは湯を一口飲んだ。まだ温かかった。口の中から喉へ、その温もりが下りていく。
「また、試してみたいです」
「俺も、もう一回見たい」
ルークは自分の器を取り、湯を飲んだ。
エルナは器を膝へ戻し、道の曲がるところへ目を向けた。遠くの草が風で動いている。耳を澄ませると、その向こうで葉の音が続いていた。
隣ではルークも、林の方を見ていた。
*
ルークが空を見上げ、エルナへ顔を向けた。
「そろそろ、交代しようか」
「はい」
ルークは手を離して立ち上がった。彼がグレンとフィンを起こしに行くあいだ、エルナは火のそばに残り、馬のいる方と道を見て、林にも目を戻す。
寝床で布が動き、低い声が聞こえた。グレンが起き、フィンも身体を起こしている。
二人がこちらへ来ると、ルークが馬と荷の様子を伝えた。
「道も、誰も通っていません。林は、風で枝が動いていたくらいです」
エルナも続ける。
「わかった。二人とも、休んでくれ」
グレンが言った。フィンが林の方へ目を向けたのを見てから、エルナはニーナの寝床へ向かう。
小さく名前を呼ぶと、ニーナが目を開けた。
「……交代?」
「はい。グレンとフィンが起きました」
「ありがとう。今、見るわ」
ニーナは身体を起こし、外套を羽織った。エルナがケースを取りやすいところへ寄せると、彼女は点検具を出して筒へ当てる。
光が灯る。
エルナはその手元を見た。今夜の湯と、昼間の筒。同じことが起きていたのかは、まだわからなかった。
「大丈夫よ。あとは朝に見るわね」
ニーナが道具を収め、グレンへ伝えた。ケースを戻し、エルナへも頷いてから寝床へ帰っていく。
ルークは使った器を片づけていた。エルナも布を畳み、木箱へ戻す。
二人で寝床へ戻った。
敷布は、眠る前と同じところにある。エルナが横になると、隣でもルークが毛布を広げた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
エルナは返し、肩まで毛布を掛けた。
指を軽く曲げると、器へ触れた時の小さな手応えが思い出された。
明日の休憩には、残った温もりが薄れていく様子を、もう少し見てみたい。
隣から、寝返りを打つ音がした。エルナはそちらへ顔を向け、暗がりに見える彼の肩を見た。
エルナはゆっくり指を開き、掌を毛布の中へ収めた。




