第9話 知らない世界
何日経ったのか、もうわからなかった。
眠って、起きて、泣いて、何かを飲まされて、また眠る。その繰り返しだった。窓の外が明るくなれば朝で、暗くなれば夜らしい。その程度のことしか、今の澪にはわからない。
何週間かは経っている気がする。最初の頃より、少しだけ身体を動かせるようになった。けれど、できることは相変わらず驚くほど少ない。
起きたいと思っても起きられない。腹が減っても、自分で食べ物を取りに行けない。布がずれて寒くても、自分では掛け直せない。
二十六歳まで生きてきた記憶があるのに、今は何もできない。最初は、それがたまらなく嫌だった。
泣く以外に意思を伝える手段がないことも、ロザリーに身体を持ち上げてもらわなければ場所を移ることさえできないことも、情けないと思った。
けれど、どう思ったところで身体は変わらない。眠気が来れば眠ってしまうし、空腹になれば勝手に喉が鳴る。限界になると、泣こうと思っていなくても泣き声が出た。
そのうち澪は、一つのことを覚えた。
泣けば、ロザリーが来る。
すぐに来る時もあれば、少し待たされる時もある。ロザリーはいつも澪のそばにいるわけではなかった。薬草を刻んだり、鍋を火にかけたり、薪を運んだり、洗った布を外へ干したりしている。
澪が泣くと、離れたところから声が返ってくる。
「――……、……」
意味はわからない。
けれど、そのあと少ししてロザリーが来る。だから最近は、その音を聞くと、待ってて、たぶんそんなことを言っているのだろうと思うようになった。
ロザリーにも生活がある。自分だけを見て、一日中座っているわけではない。
それでも、ちゃんと戻ってくる。
そのことを澪は少しずつ覚えていった。
*
最初に意味がわかった言葉は、自分の名前だった。
「エルナ」
ロザリーがそう言う時は、必ずこちらを見る。だから、これは自分を呼んでいる。それだけはすぐにわかった。
次に覚えたのは、ロザリー。本人が自分を指しながら何度も言っていたから、名前なのだろう。
それ以外の言葉も、少しずつ音のまとまりとして聞こえるようになってきた。朝、顔を見るといつも言う音。何かを飲ませる前に繰り返す音。抱き上げる前に言う音。
まだ意味は正確にはわからない。でも、同じ場面で同じ音が出てくれば、何となく想像はつく。
澪は暇だった。
赤ん坊にできることなど、本当に少ない。だからロザリーの言葉を聞くことと、家の中を眺めることが、いつの間にか一日の大半になっていた。
頭の中では、相変わらず日本語で考えている。直人の声も思い出せる。自分の名前も。
水瀬澪。
会社も、駅も、あの文化会館も、全部覚えている。
なのに、ロザリーの言葉だけがわからない。最初は外国なのかとも思った。けれど、聞いたことのあるどの言語とも違っていた。
壁に置かれた本らしきものを見たこともある。そこに並んでいた文字も、澪には一つも読めなかった。
夢なら、もう少し都合がよくてもいいのに。
そう思う。
少なくとも、何もかもが前の世界と同じではない。そのことだけは、日に日に確かになっていった。
*
ある日の昼過ぎ、ロザリーに抱かれて部屋の中を移動していた時だった。
壁に、小さな鏡が掛かっていた。今まで視界に入っていなかっただけなのか、それとも普段とは違う場所を通ったのかはわからない。
ロザリーの腕の中で、澪は何気なくそちらを見た。
知らない赤ん坊がいた。
白に近い、淡い銀色の髪。透けるように白い肌。薄い青色の瞳。
ロザリーに抱かれている。
澪はしばらく、その赤ん坊を見た。
ずいぶん綺麗な子だな、と思った。赤ん坊の顔なんて、普段じっくり見る機会はほとんどなかったけれど、それでもどこか妙に整って見える。
澪が瞬きをした。
鏡の中の赤ん坊も瞬きをした。
少しだけ手を動かす。向こうの小さな手も動いた。
澪は止まった。
いや。身体が止まったわけではない。
頭の中だけが、遅れて追いついた。
――私?
ロザリーが何かを言った。
澪は聞いていなかった。鏡の中の赤ん坊を見ていた。
水瀬澪とは、どこも似ていなかった。前の自分の顔を忘れたわけではない。鏡を見るたび見ていた顔。写真にも残っていた顔。
それとはまるで違う。
ロザリーにも似ていない。栗色の髪も、緑の瞳も、どこにもない。
淡い白銀色の髪。
薄い青の瞳。
これが。
エルナ。
そう思った。
その名前を自分だとは、まだ完全には思えない。ただ、この身体がそう呼ばれているのだということだけは、前よりずっとはっきりした。
ロザリーが鏡の前を通り過ぎる。知らない赤ん坊の姿も見えなくなった。
澪はしばらく、さっきの薄い青の瞳を思い出していた。
*
それから何日かして、初めて家の外へ連れ出された。
最初に森で拾われた日のことは覚えている。でもあの時は、泣くことしかできなかった。周囲を見る余裕なんてなかった。
今日は違う。
ロザリーは澪を厚い布で包み、自分の身体へしっかり固定した。外は少し肌寒かった。
森の匂いがする。
湿った土。苔。樹皮。風が葉を揺らす音。
澪はロザリーの胸元から、できる範囲で周囲を見た。見たことのない花が咲いている。日本でも似たような植物はあった気がする。でも、葉の形も色もどこか違う。
ロザリーは森の中をゆっくり歩いていた。時々立ち止まり、植物を確かめる。
葉を少し摘む。根元を見て、そのまま通り過ぎるものもある。種のようなものを指で散らしてから、一部だけ持ち帰るものもある。
何をしているのかはわからない。ただ、目についたものを片端から取っているわけではないらしい。必要なものだけを選んでいる。
そんなふうに見えた。
しばらく進むと、水の音が聞こえてきた。
細い沢だった。
ロザリーが足を止める。
その先は、少し様子が違っていた。斜面の一部が崩れている。土が剥き出しになり、何本かの若い木が傾いていた。根が土から出てしまっているものもある。
昨夜、雨でも降ったのだろうか。
沢の水も、その辺りだけ少し濁っている。
ロザリーの表情が変わった。
エルナを抱いたまま、斜面の近くまで行く。しゃがんで土に触れ、根を確かめる。折れた枝を退かし、崩れた土を手で寄せてみる。
しばらくそうしていたが、やがて動きを止めた。
範囲が広い。
一人でどうにかできるようには見えなかった。
ロザリーは腰に下げていた布で、手についた土を丁寧に拭った。それから斜面と沢から十分に離れた、平らな木陰を選ぶ。
厚い布を敷き、その上へエルナを寝かせた。
「――……」
何か言って、綺麗になった手で頭をそっと撫でる。
たぶん、ここにいて。
そんな意味だろう。
澪はロザリーを見た。
ロザリーはもう一度斜面へ戻り、膝をついた。
土に片手を置く。
しばらく動かなかった。
ただ、じっと地面を見つめている。
最初は何をしているのかわからなかった。
けれど、やがて露出していた木の根が動いた。
澪は目を見開いた。
細い根が、土の中へ潜っていく。ゆっくりと。けれど、確実に。
地面を覆っていた草が広がっていく。芽が伸びる。葉が開く。
傾いていた若木の根元から新しい根が生え、斜面へ食い込んでいく。崩れていた土が、植物の根に抱え込まれていく。
ロザリーは何も唱えていなかった。
ただ、地面へ触れ、意識を集中させている。
光ったわけではない。大きな音がしたわけでもない。
ただ、植物が育った。
あり得ない速さで。
澪は動けなかった。
何が起きているのかわからない。
ロザリーは地面へ手をついたまま、しばらく目を閉じていた。やがて手を離す。
伸びた草や根を確かめ、沢の方を見る。濁っていた水はまだ完全には澄んでいなかったけれど、斜面から土が崩れ落ちる様子は止まっていた。
ロザリーは立ち上がろうとして、一度動きを止めた。
ゆっくり息を吐く。
呼吸を整えるように、その場で少し座る。
額には薄く汗が滲んでいた。
澪はじっと見ていた。
何だったの、今の。
目の錯覚?
違う。
あんな速度で根が伸びるはずがない。
何か薬を使った?
それも違う。
何も撒いていなかった。
仕掛け。
そんなものが森の斜面にあるわけがない。
澪の頭の中で、現実的な説明が一つずつ消えていった。
最後に残ったものは、あまりにも現実離れしていた。
――魔法。
いや。
そんなわけない。
そう思った。
思ったけれど、もう一度斜面を見る。さっきまで剥き出しだった土を、新しく伸びた草の根が覆っている。若木も、倒れかけていた時よりずっと安定して見える。
ロザリーが戻ってきた。
少し疲れた顔をしている。
それでもエルナを見ると、いつものように表情を緩めた。
抱き上げられる。
澪はロザリーの肩越しに、さっきの斜面をもう一度見た。
事故に遭った。
目を覚ましたら赤ん坊になっていた。
知らない言葉。
読めない文字。
見たことのない植物。
そして、魔法。
そこまで並べてしまうと、さすがにもう考えたくない言葉が浮かんだ。
異世界。
小説や漫画なら見たことがある。死んで、別の世界へ生まれ変わる。そんな話。
でも、自分に起きるものだとは、一度だって思ったことがなかった。
澪はロザリーの腕の中で、森を見た。
――そんなこと、ある?
それが最初の感想だった。
*
帰り道、澪はずっと静かだった。
赤子なのだから、静かな時など珍しくもないのだろう。ロザリーは特に気にしていない様子だった。
けれど澪の頭の中では、考えが止まらなかった。
もし、本当にここが別の世界なら。
日本へ戻る方法はあるのだろうか。
そもそも、自分は本当に死んだのか。
死んで生まれ直したのだとしたら。
直人は。
胸の奥が重くなった。
直人はどうなったのだろう。あの事故のあと、助かったのか。それとも。
考えそうになって、止めた。
まだわからない。わからないことを、勝手に決める必要はない。
そう思うしかなかった。
森は綺麗だった。木漏れ日が揺れている。遠くで鳥のようなものが鳴いている。
前の世界では見たことのない景色なのに、不思議と嫌いではなかった。
ただ、この景色を、直人は知らない。
そのことだけが、少し寂しかった。
*
家へ戻る頃には、ロザリーの顔色もいつも通りに戻っていた。それでも澪には、森で呼吸を整えていた姿が引っかかっていた。
魔法を使ったから疲れたのだろうか。
でも、それ以上のことは何もわからない。
夜。
ロザリーは机で何かをしていた。薬草を選り分けているようだった。
澪は近くの籠の中に寝かされていた。しばらくぼんやりしていると、ロザリーが顔を上げた。
「エルナ」
澪はそちらを見た。
ただ名前を聞いたから。
それだけだった。
けれど、ロザリーの手が止まった。
「エルナ?」
もう一度。
澪はまたロザリーを見る。
呼ばれた。
そう思って。
ロザリーの表情が、ぱっと明るくなった。
何かをたくさん話しながら立ち上がり、澪のそばまで来る。意味はほとんどわからない。
けれど、嬉しそうなのはわかった。
「エルナ」
今度は近くで呼ばれる。
澪はロザリーの顔を見た。そのまま、小さな手を動かす。
偶然かもしれない。
でも指先が、ロザリーの服に触れた。
ロザリーが笑った。
澪はその顔を見ていた。
水瀬澪という名前を、忘れるつもりはなかった。直人が呼んでくれた名前だった。
それでも、ロザリーが「エルナ」と呼べば、もう自分のことだとわかる。
今は、まだそれだけでよかった。




