第8話 エルナ
暗かった。
どこを見ても何もない。身体の感覚も、ほとんどなかった。澪は、自分が目を閉じているのか、それとも本当に何も見えない場所にいるのかさえわからなかった。
何か、とても大きな音を聞いた気がする。眩しい光。身体を強く引かれる感覚。それから――。
「……直人」
呼んだつもりだった。
けれど、声は聞こえなかった。代わりに、遠くで何かが泣いている。細く、高い声だった。
どこから聞こえているのだろう、と澪は思った。また声がした。今度はさっきより大きい。喉が震え、息を吸う。
「あ――」
泣き声が響いた。
そこで初めて、それが自分の声なのだと気づいた。
何が起きているのかわからない。声を止めようとしても止まらなかった。直人を呼びたい。ここがどこなのか確かめたい。身体を起こしたい。そう思っているのに、何一つ思いどおりにならない。
腕を動かそうとすると、何かがばたつくような感覚だけが返ってくる。手を握ろうとしても、指がどこにあるのかさえ曖昧だった。首を上げようとしても、まったく力が入らない。
怖くなった。
澪はもう一度、大きく息を吸った。また泣き声が出る。
視界が少しずつ明るくなってきた。ぼやけた灰色の向こうに、濃い色の影がいくつも重なっている。しばらくして、それが木なのだとわかった。
枝と葉。その隙間に見える空。
冷たい空気が肌に触れている。土と、湿った葉の匂いがした。
森だった。
病院ではない。道路でもない。車もない。
「……なお、と」
言おうとした。
けれど口から出たのは、意味のない音だった。
澪は必死に視線を動かした。どこにもいない。直人がいない。
最後に見たのは、運転席にいた直人だった。前を向いていた。その顔が突然変わった。
『澪』
あの声だけが、やけにはっきり蘇った。
短くて、鋭くて。いつもの直人とはまるで違う声。その直後に、白い光が迫ってきた。
澪はもう一度、身体を動かそうとした。けれど駄目だった。腕も脚も、自分のものなのに自分のものではないようだった。
視界の端に、一瞬だけ小さな手が入った。
あまりにも小さい。丸くて、頼りない指。
澪は動きを止めた。いや、止めたつもりになっただけで、実際には身体はまだ小さく震えていた。
何これ。
もう一度手を見ようとしても、首が動かない。身体にかかっている布の向こうから、小さな腕が出る。その近くで、淡い色のものがふわりと揺れた。
髪、だろうか。
白に近い、銀色。光の弱い森の中でもわかるほど淡い色だった。
意味がわからなかった。
怖い。
直人。
助けて。
そう思った瞬間、また泣き声が大きくなった。自分でも驚くほど激しい声が、森の中へ響いていく。
誰か。直人じゃなくてもいい。誰か来て。
けれど、声にならない。
泣くことしかできなかった。
どれくらいそうしていたのかわからない。
遠くで、何かが動く音がした。葉を踏む音が、少しずつ近づいてくる。
澪は泣きながら、そちらを見ようとした。
木々の間から、人影が現れた。
女の人だった。
視界がまだぼやけていて、顔もうまく見えなかった。ただ、その人が澪を見つけた瞬間、足を止めたことだけはわかった。
「――……?」
何かを言っている。
聞いたことのない言葉だった。
澪は泣き止めなかった。
女は周囲を見回し、何度か大きな声を出した。誰かを呼んでいるのかもしれない。けれど返事はなく、森は静かなままだった。
やがて女が近づいてきて、澪を見下ろした。
一瞬、その表情が変わった。
視線が澪の顔に止まり、それから額にかかった淡い白銀色の髪へ移る。驚いたようにも見えたが、それはほんの一瞬だった。
女はすぐに顔を上げ、さっきよりも鋭く周囲を見回した。木々の奥まで探るように視線を巡らせる。
それでも、誰も出てこない。
しばらくして、女は小さく息を吐いた。
澪には、その意味がわからなかった。ただ、知らない人が自分を見て何かを理解したらしい。そのことが、不安だった。
女がさらに近づいてくる。
澪は身体を縮めようとした。けれど、それすらできない。
両手が身体の下へ差し込まれ、ふわりと持ち上げられた。
澪は一瞬、息を止めた。
そして、温かいものに包まれた。
人の身体だった。
冷えていた頬に布の柔らかさが触れる。背中を支えられ、その腕の中へすっぽりと収められた。
「――……、……」
女の声が近い。
何を言っているのかはわからない。けれど、その声は静かだった。怖がらせようとしている声ではない。
澪は泣きながら、その人の顔を見た。
知らない人だった。
直人ではない。
そのことがわかった途端、胸の奥がぐっと痛んだ。また涙が出た。
女は困ったように眉を下げ、澪を少し揺らした。それから澪を包んでいた布を整え、風が当たらないように抱き直す。
もう一度だけ周囲を見る。
それから何かを決めたように、森の中を歩き始めた。
澪には何もできなかった。どこへ連れていかれるのかもわからない。逃げることも、尋ねることもできない。
ただ、女の腕の中は温かかった。
その温かさだけが、今の澪に理解できるものだった。
*
次に目を開けたとき、火が見えた。ぱち、と小さく音を立てている。
暖かい。
澪は布に包まれ、柔らかいものの上に寝かされていた。天井は木でできている。視界を動かせる範囲には、いくつもの瓶や束ねた植物があり、壁には乾燥した葉や花のようなものが吊るされていた。
森で拾った女が、すぐそばにいる。何かを火にかけたり、布を用意したりしながら、ときどきこちらを確認していた。
目が合うと、女は少し表情を緩めた。
森ではよく見えなかった顔も、今なら少しわかる。
落ち着いた栗色の長い髪。深い緑の瞳。二十代半ばほどに見える、整った顔立ちの女だった。若いのに、妙に落ち着いた雰囲気がある。
ここは、あの人の家なのだろうか。
そう考えられるくらいには、澪の頭も少し落ち着いていた。
けれど、落ち着けば落ち着くほど、わからないことが増えていく。
自分の身体。
知らない森。
知らない女。
聞いたことのない言葉。
そして、直人がいない。
事故。
あれは夢ではなかった。夢だったなら、今の方がもっとおかしい。
白い光が来て、大きな音がして、それから何もわからなくなった。
自分は、どうなったのだろう。
死んだ。
その言葉が頭に浮かんだ。
澪はすぐに否定したくなった。でも、この身体をどう説明すればいいのかわからない。
もし、自分が死んだのだとしたら。
直人は。
そこまで考えて、息が詰まった。
直人も同じ車にいた。運転席にいて、自分より先に迫ってくるものに気づいていた。
『澪』
最後に聞いた声。
もし。
もし、直人も――。
「あ……」
喉から声が漏れ、また泣き声になった。
嫌だ。
考えたくない。
直人は生きているかもしれない。助かったかもしれない。病院にいるかもしれない。自分だけがおかしなことになったのかもしれない。
でも、それを確かめる方法がない。
立つことすらできない。名前すら言えない。どこにいるのかもわからない。
直人がどこにいるのか、知ることさえできない。
涙が止まらなかった。
女がすぐにこちらへ来て、何かを言いながら澪を抱き上げた。
「――……、……」
言葉はわからない。
でも、背中をゆっくり撫でている。何度も、同じ速さで。
澪は泣いた。
怖いからなのか。悲しいからなのか。直人に会いたいからなのか。もう自分でもわからなかった。
ただ泣くことしかできなかった。
女はそれを止めようとはしなかった。泣き止めとも言わない。理由を聞くこともできない。
ただ、ずっと抱いていた。
少しずつ、澪の声が小さくなっていく。
身体が疲れたのだと思う。泣くだけで、信じられないほど体力を使う。
瞼が重い。
眠りたくなかった。眠ったら、また何かが変わってしまいそうだった。
けれど、この身体は澪の意思を待ってくれなかった。
*
目を覚ますたび、同じ女がいた。
何度眠って、何度起きたのかはわからない。明るかった窓の外が暗くなったことで、一日が過ぎたらしいとだけわかった。
女は澪の世話をしていた。身体を温め、布を替え、鍋で温めた乳白色の液体を、小さな匙で少しずつ口へ含ませる。
さらさらしているのに、口に入るとわずかに濃い。かすかに甘く、どこかクリーミーな味がした。
何なのかはわからない。
ただ、今の身体はそれを飲むと落ち着いた。
最初は何をされるのも怖かった。けれど、その人が澪を傷つけるつもりがないことだけは、少しずつわかってきた。
夜になり、部屋の中が静かになった。暖炉の火が小さく鳴っている。
女は椅子に座り、澪を腕の中へ抱いていた。
しばらく澪の顔を眺めている。何かを考えているようだった。
それから、頬にかかっていた淡い髪を指先でそっと避け、布を掛け直した。
その仕草には、ためらいがなかった。少なくとも今夜は、澪をどこかへ置いていくつもりなどないように見えた。
そして女は、自分の胸元を指して言った。
「ロザリー」
澪は瞬きをした。
「ロザリー」
もう一度。
女は自分を指している。
ロザリー。
名前だ。
たぶん。
澪はぼんやりとその顔を見た。
ロザリーは何度か同じ音を繰り返したあと、今度は澪を見た。何かを考えるように黙り、それから少しだけ首を傾げる。
長い言葉をいくつか口にした。
やっぱり意味はわからない。
けれど、そのあとロザリーは、一つの音を選ぶようにゆっくりと言った。
「エルナ」
澪は瞬きをした。
「エルナ」
ロザリーの指が、澪の胸元へ軽く触れる。
もう一度。
「エルナ」
自分に向けられている。
それだけはわかった。
名前。
この小さな身体につけられた名前なのだろう。
エルナ。
ロザリーが微笑んだ。
澪はその顔を見上げる。
私は、水瀬澪だ。
そう思った。
藤崎直人が、澪と呼んだ。
最後にも。
あの白い光の中で。
『澪』
忘れたくなかった。
忘れるわけがないと思った。
ロザリーが、また同じ音を口にする。
「エルナ」
それが自分に向けられたものだということだけは、わかった。
澪はまだ、その名前を自分のものだとは思えなかった。
それでも、ロザリーの腕の中は温かかった。
重くなっていく瞼に逆らえず、澪は目を閉じた。
最後に聞こえたのは、知らない世界でつけられた、知らない名前だった。
「エルナ」




