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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第2章 森の魔女の娘
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第8話 エルナ


 暗かった。


 どこを見ても何もない。身体の感覚も、ほとんどなかった。澪は、自分が目を閉じているのか、それとも本当に何も見えない場所にいるのかさえわからなかった。


 何か、とても大きな音を聞いた気がする。眩しい光。身体を強く引かれる感覚。それから――。


「……直人」


 呼んだつもりだった。


 けれど、声は聞こえなかった。代わりに、遠くで何かが泣いている。細く、高い声だった。


 どこから聞こえているのだろう、と澪は思った。また声がした。今度はさっきより大きい。喉が震え、息を吸う。


「あ――」


 泣き声が響いた。


 そこで初めて、それが自分の声なのだと気づいた。


 何が起きているのかわからない。声を止めようとしても止まらなかった。直人を呼びたい。ここがどこなのか確かめたい。身体を起こしたい。そう思っているのに、何一つ思いどおりにならない。


 腕を動かそうとすると、何かがばたつくような感覚だけが返ってくる。手を握ろうとしても、指がどこにあるのかさえ曖昧だった。首を上げようとしても、まったく力が入らない。


 怖くなった。


 澪はもう一度、大きく息を吸った。また泣き声が出る。


 視界が少しずつ明るくなってきた。ぼやけた灰色の向こうに、濃い色の影がいくつも重なっている。しばらくして、それが木なのだとわかった。


 枝と葉。その隙間に見える空。


 冷たい空気が肌に触れている。土と、湿った葉の匂いがした。


 森だった。


 病院ではない。道路でもない。車もない。


「……なお、と」


 言おうとした。


 けれど口から出たのは、意味のない音だった。


 澪は必死に視線を動かした。どこにもいない。直人がいない。


 最後に見たのは、運転席にいた直人だった。前を向いていた。その顔が突然変わった。


『澪』


 あの声だけが、やけにはっきり蘇った。


 短くて、鋭くて。いつもの直人とはまるで違う声。その直後に、白い光が迫ってきた。


 澪はもう一度、身体を動かそうとした。けれど駄目だった。腕も脚も、自分のものなのに自分のものではないようだった。


 視界の端に、一瞬だけ小さな手が入った。


 あまりにも小さい。丸くて、頼りない指。


 澪は動きを止めた。いや、止めたつもりになっただけで、実際には身体はまだ小さく震えていた。


 何これ。


 もう一度手を見ようとしても、首が動かない。身体にかかっている布の向こうから、小さな腕が出る。その近くで、淡い色のものがふわりと揺れた。


 髪、だろうか。


 白に近い、銀色。光の弱い森の中でもわかるほど淡い色だった。


 意味がわからなかった。


 怖い。


 直人。


 助けて。


 そう思った瞬間、また泣き声が大きくなった。自分でも驚くほど激しい声が、森の中へ響いていく。


 誰か。直人じゃなくてもいい。誰か来て。


 けれど、声にならない。


 泣くことしかできなかった。


 どれくらいそうしていたのかわからない。


 遠くで、何かが動く音がした。葉を踏む音が、少しずつ近づいてくる。


 澪は泣きながら、そちらを見ようとした。


 木々の間から、人影が現れた。


 女の人だった。


 視界がまだぼやけていて、顔もうまく見えなかった。ただ、その人が澪を見つけた瞬間、足を止めたことだけはわかった。


「――……?」


 何かを言っている。


 聞いたことのない言葉だった。


 澪は泣き止めなかった。


 女は周囲を見回し、何度か大きな声を出した。誰かを呼んでいるのかもしれない。けれど返事はなく、森は静かなままだった。


 やがて女が近づいてきて、澪を見下ろした。


 一瞬、その表情が変わった。


 視線が澪の顔に止まり、それから額にかかった淡い白銀色の髪へ移る。驚いたようにも見えたが、それはほんの一瞬だった。


 女はすぐに顔を上げ、さっきよりも鋭く周囲を見回した。木々の奥まで探るように視線を巡らせる。


 それでも、誰も出てこない。


 しばらくして、女は小さく息を吐いた。


 澪には、その意味がわからなかった。ただ、知らない人が自分を見て何かを理解したらしい。そのことが、不安だった。


 女がさらに近づいてくる。


 澪は身体を縮めようとした。けれど、それすらできない。


 両手が身体の下へ差し込まれ、ふわりと持ち上げられた。


 澪は一瞬、息を止めた。


 そして、温かいものに包まれた。


 人の身体だった。


 冷えていた頬に布の柔らかさが触れる。背中を支えられ、その腕の中へすっぽりと収められた。


「――……、……」


 女の声が近い。


 何を言っているのかはわからない。けれど、その声は静かだった。怖がらせようとしている声ではない。


 澪は泣きながら、その人の顔を見た。


 知らない人だった。


 直人ではない。


 そのことがわかった途端、胸の奥がぐっと痛んだ。また涙が出た。


 女は困ったように眉を下げ、澪を少し揺らした。それから澪を包んでいた布を整え、風が当たらないように抱き直す。


 もう一度だけ周囲を見る。


 それから何かを決めたように、森の中を歩き始めた。


 澪には何もできなかった。どこへ連れていかれるのかもわからない。逃げることも、尋ねることもできない。


 ただ、女の腕の中は温かかった。


 その温かさだけが、今の澪に理解できるものだった。


     *


 次に目を開けたとき、火が見えた。ぱち、と小さく音を立てている。


 暖かい。


 澪は布に包まれ、柔らかいものの上に寝かされていた。天井は木でできている。視界を動かせる範囲には、いくつもの瓶や束ねた植物があり、壁には乾燥した葉や花のようなものが吊るされていた。


 森で拾った女が、すぐそばにいる。何かを火にかけたり、布を用意したりしながら、ときどきこちらを確認していた。


 目が合うと、女は少し表情を緩めた。


 森ではよく見えなかった顔も、今なら少しわかる。


 落ち着いた栗色の長い髪。深い緑の瞳。二十代半ばほどに見える、整った顔立ちの女だった。若いのに、妙に落ち着いた雰囲気がある。


 ここは、あの人の家なのだろうか。


 そう考えられるくらいには、澪の頭も少し落ち着いていた。


 けれど、落ち着けば落ち着くほど、わからないことが増えていく。


 自分の身体。


 知らない森。


 知らない女。


 聞いたことのない言葉。


 そして、直人がいない。


 事故。


 あれは夢ではなかった。夢だったなら、今の方がもっとおかしい。


 白い光が来て、大きな音がして、それから何もわからなくなった。


 自分は、どうなったのだろう。


 死んだ。


 その言葉が頭に浮かんだ。


 澪はすぐに否定したくなった。でも、この身体をどう説明すればいいのかわからない。


 もし、自分が死んだのだとしたら。


 直人は。


 そこまで考えて、息が詰まった。


 直人も同じ車にいた。運転席にいて、自分より先に迫ってくるものに気づいていた。


『澪』


 最後に聞いた声。


 もし。


 もし、直人も――。


「あ……」


 喉から声が漏れ、また泣き声になった。


 嫌だ。


 考えたくない。


 直人は生きているかもしれない。助かったかもしれない。病院にいるかもしれない。自分だけがおかしなことになったのかもしれない。


 でも、それを確かめる方法がない。


 立つことすらできない。名前すら言えない。どこにいるのかもわからない。


 直人がどこにいるのか、知ることさえできない。


 涙が止まらなかった。


 女がすぐにこちらへ来て、何かを言いながら澪を抱き上げた。


「――……、……」


 言葉はわからない。


 でも、背中をゆっくり撫でている。何度も、同じ速さで。


 澪は泣いた。


 怖いからなのか。悲しいからなのか。直人に会いたいからなのか。もう自分でもわからなかった。


 ただ泣くことしかできなかった。


 女はそれを止めようとはしなかった。泣き止めとも言わない。理由を聞くこともできない。


 ただ、ずっと抱いていた。


 少しずつ、澪の声が小さくなっていく。


 身体が疲れたのだと思う。泣くだけで、信じられないほど体力を使う。


 瞼が重い。


 眠りたくなかった。眠ったら、また何かが変わってしまいそうだった。


 けれど、この身体は澪の意思を待ってくれなかった。


     *


 目を覚ますたび、同じ女がいた。


 何度眠って、何度起きたのかはわからない。明るかった窓の外が暗くなったことで、一日が過ぎたらしいとだけわかった。


 女は澪の世話をしていた。身体を温め、布を替え、鍋で温めた乳白色の液体を、小さな匙で少しずつ口へ含ませる。


 さらさらしているのに、口に入るとわずかに濃い。かすかに甘く、どこかクリーミーな味がした。


 何なのかはわからない。


 ただ、今の身体はそれを飲むと落ち着いた。


 最初は何をされるのも怖かった。けれど、その人が澪を傷つけるつもりがないことだけは、少しずつわかってきた。


 夜になり、部屋の中が静かになった。暖炉の火が小さく鳴っている。


 女は椅子に座り、澪を腕の中へ抱いていた。


 しばらく澪の顔を眺めている。何かを考えているようだった。


 それから、頬にかかっていた淡い髪を指先でそっと避け、布を掛け直した。


 その仕草には、ためらいがなかった。少なくとも今夜は、澪をどこかへ置いていくつもりなどないように見えた。


 そして女は、自分の胸元を指して言った。


「ロザリー」


 澪は瞬きをした。


「ロザリー」


 もう一度。


 女は自分を指している。


 ロザリー。


 名前だ。


 たぶん。


 澪はぼんやりとその顔を見た。


 ロザリーは何度か同じ音を繰り返したあと、今度は澪を見た。何かを考えるように黙り、それから少しだけ首を傾げる。


 長い言葉をいくつか口にした。


 やっぱり意味はわからない。


 けれど、そのあとロザリーは、一つの音を選ぶようにゆっくりと言った。


「エルナ」


 澪は瞬きをした。


「エルナ」


 ロザリーの指が、澪の胸元へ軽く触れる。


 もう一度。


「エルナ」


 自分に向けられている。


 それだけはわかった。


 名前。


 この小さな身体につけられた名前なのだろう。


 エルナ。


 ロザリーが微笑んだ。


 澪はその顔を見上げる。


 私は、水瀬澪だ。


 そう思った。


 藤崎直人が、澪と呼んだ。


 最後にも。


 あの白い光の中で。


『澪』


 忘れたくなかった。


 忘れるわけがないと思った。


 ロザリーが、また同じ音を口にする。


「エルナ」


 それが自分に向けられたものだということだけは、わかった。


 澪はまだ、その名前を自分のものだとは思えなかった。


 それでも、ロザリーの腕の中は温かかった。


 重くなっていく瞼に逆らえず、澪は目を閉じた。


 最後に聞こえたのは、知らない世界でつけられた、知らない名前だった。


「エルナ」




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