第7話 冬の海
休日の朝、澪が家を出ると、ちょうど直人の車が角を曲がってくるところだった。前回と同じ場所で停まり、助手席側の窓が少し下がる。
「おはよう」
「おはよう」
澪が乗り込むと、暖かい空気が頬に当たった。シートベルトを締めながら、ダッシュボードの時計を見る。
「早い」
「言ったでしょ。今日はちょっと遠いから」
「ちゃんと起きたよ」
「偉いね」
「子ども扱いしないで」
「休みの日なのに八時台に起きたから」
「普通でしょ」
「僕もそう思う」
「じゃあ言わないで」
直人が笑いながら車を出す。澪は手袋を外し、膝の上へ置いた。冬物を買いに行った日に直人と選んだものだった。
「それ、まだ使ってるんだ」
「気に入ってるから」
「よかった」
「直人が選んだやつだし」
「最後に決めたのは澪だけどね」
「じゃあ二人で選んだ」
「前もそれ言ってたよ」
「覚えてるよ」
澪は少し笑って、窓の外を見る。空は薄く曇っていたが、雨の気配はない。前回のように雪も降っていなかった。
「海までどれくらい?」
「一時間半くらい。高速使って、混んでなければ」
「遠いね」
「言ったよ」
「途中で寝たらごめん」
「どうぞ」
「直人一人になるじゃん」
「運転してるから大丈夫」
「そういうもの?」
「寝られる方が気を遣わなくていいときもあるよ」
「じゃあ寝る」
「早いな」
「まだ寝ないけど」
車は朝の街を抜け、やがて高速道路へ入った。澪は前回と同じように音楽を選び、直人がときどき曲名を聞いた。知っている曲もあれば、片方しか知らないものもある。そのたびに少し話して、また黙る。
しばらく走ったところで、一度休憩を取ることになった。
立ち寄ったサービスエリアは、休日らしくそこそこ人が多かった。車を降りると冷たい風が吹きつけ、澪はすぐに手袋をはめる。
「寒い」
「海、もっと寒いと思うよ」
「まだ着いてないのに」
「帰る?」
「帰らない」
「ですよね」
二人で売店へ入り、直人はコーヒー、澪は温かいミルクティーを買った。レジへ向かう途中、澪が小さな菓子袋を手に取る。
「これ買おう」
直人が袋を見る。
「なにそれ」
「地域限定だって」
「味、すごいね」
「だから気になる」
「絶対おいしくないよ」
「食べてから言って」
「僕も食べる前提?」
「半分」
直人が笑う。
「また半分」
「いいでしょ」
「どうぞ」
結局その菓子も買い、車へ戻った。助手席に座ると、澪は手袋を外して膝の上へ置く。
走り出してしばらくしてから袋を開けた。澪が一つ食べ、少し黙る。
「どう?」
「……思ったより普通」
「その間なに」
「期待してた味と違った」
「おいしい?」
「まずくはない」
「微妙な評価」
「食べる?」
「そこまで聞いて食べたいと思う?」
「半分だから」
「義務なんだ」
そう言いながら直人も一つ食べた。
「普通だね」
「でしょ」
「なんでちょっと嬉しそうなの」
「同じ感想だったから」
「それで?」
「うん」
目的地に着いたのは、昼前だった。直人が駐車場へ車を停めると、澪は膝の上に置いていた手袋をもう一度はめた。
車を降りた瞬間、潮の匂いと一緒に強い風が吹いてきた。澪は反射的に肩をすくめる。
「寒い」
隣で直人が笑った。
「言ったよね」
「思ったより寒い」
「帰る?」
「帰らない」
「二回目」
駐車場から海沿いの遊歩道へ向かう。冬の海は灰色がかった青で、空との境目が少し曖昧だった。波が寄せるたび、白い飛沫が見える。夏のような賑わいはなく、歩いている人もまばらだった。
「いいね」
澪が言う。
「寒いけど?」
「それ込みで」
「さっきから寒いしか言ってないよ」
「海はいい」
「寒いのは?」
「嫌」
「雪のときと同じこと言ってる」
「好きなものと寒いのは別だから」
「澪の中では一貫してるんだね」
「してるよ」
二人はゆっくり歩いた。海へ降りることはせず、柵のある遊歩道から眺める。風が吹くたびに澪の髪が顔へかかり、そのたびに耳へかけ直した。
「写真撮る?」
直人がスマートフォンを取り出す。
「海?」
「僕ら」
「なんで?」
「せっかく来たし」
「別にいいけど」
二人で並び、海を背にする。一枚目を確認した澪が言う。
「直人、目つぶってる」
「ほんとだ」
「もう一回」
二枚目を撮る。
「今度私変」
「そう?」
「変」
「普通じゃない?」
「消して」
「厳しいなあ」
三枚目でようやく二人とも納得した。
「これでいい」
「採用?」
「採用」
直人が三枚目だけを澪へ送る。受け取った写真を開いて、澪はもう一度確認した。
「うん。これは普通」
「普通が合格基準なんだ」
「大事でしょ」
「最初の二枚も送る?」
「いらない」
「記念に」
「三枚目だけでいい」
「じゃあ僕が持っとく」
「勝手にして」
直人が笑った。
そのあともしばらく海沿いを歩き、昼になってから近くの店へ入った。暖房の効いた店内へ入ると、澪は手袋を外してコートのポケットへ入れる。
海のそばらしく魚料理が多い。澪はメニューを何度も行き来しながら悩んでいた。
「今日はちゃんと悩むね」
直人が言う。
「なにそれ」
「この前、なんでもいいって言ってたから」
「あれは疲れてたの」
「うん」
「今は元気」
「ならよかった」
澪は少し考えてから、定食を一つ選んだ。
「最近はちゃんとお昼も食べてるよ」
「聞いてないよ」
「報告」
「ありがとうございます」
「心配してたでしょ」
「まあね」
「だから」
「じゃあ安心しました」
「うん」
以前なら、そこで少し引っかかっていたかもしれない。けれど今は何もなかった。
料理が来ると、直人が自分の皿から一切れ取る。
「これ食べる?」
「食べる」
澪が口を開けるわけではなく、自分の小皿を差し出す。
「そこに」
「はい」
「直人もこれいる?」
「一口」
「一口ね」
「そこ強調する?」
「前科あるから」
「どっちに?」
「直人」
「僕?」
「知らない」
「適当だなあ」
そんなことを言いながら食事を終えた。
店を出る前に、澪はコートのポケットから手袋を取り出してはめ直した。
午後は海沿いの小さな店を何軒か見て回った。雑貨店で澪が小さなガラス細工を手に取る。青と透明の色が混ざった、海を模したものだった。
「それ買うの?」
「うん」
「誰に?」
「自分」
「自分にお土産?」
「買うでしょ」
「そうなんだ」
「直人は買わないの?」
「別にいいかな」
「じゃあ見るだけ?」
「見るだけ」
「便利な言葉」
「どこかで聞いたな」
二人で笑う。澪はガラス細工を買った。
店を出たあと、今度は直人が別の売店で小さなキーホルダーを見ていた。
「買うの?」
「迷ってる」
「欲しいなら買えば」
「澪、そういうとき決断早いよね」
「何百円でしょ」
「まあね」
「じゃあ買う」
「僕のものだけど」
「買わないの?」
「買います」
結局、直人も買った。
夕方が近づくにつれ、空の色が少しずつ薄く変わっていった。最後にもう一度海を見てから、二人は駐車場へ戻った。
「楽しかった?」
直人が鍵を開けながら聞く。
「うん」
「寒かったけど?」
「それ込みで」
「ならよかった」
澪は助手席へ乗り込み、手袋を外して膝の上へ置いた。暖房が効くまで少しかかる。
「次は寒くないところ」
「室内?」
「うん」
「映画とか?」
「それでもいい」
「じゃあ何か探しとく」
「お願い」
直人も乗り込み、エンジンをかけた。
「帰りますか」
「お願いします」
車が駐車場を出る。しばらく一般道を走ったあと、帰りも高速道路へ入った。
最初のうちは、今日見たものの話をしていた。澪はスマートフォンを取り出し、直人から送られてきた三枚目の写真を開く。
「これはちゃんと撮れてるね」
「ちゃんとってなに」
「最初の二枚ひどかったから」
「一枚目は僕だけでしょ」
「二枚目は私」
「平等だね」
「嬉しくない」
澪は写真を閉じる。
「最初の二枚、消した?」
「消してない」
「なんで」
「面白いから」
「消して」
「考えとく」
「今消して」
「運転中です」
「あとで」
「わかった」
日が落ちるにつれ、窓の外は暗くなっていった。行きよりも道は空いている。
澪は何度か欠伸をした。
「眠い?」
直人が聞く。
「ちょっと」
「寝てていいよ」
「直人一人になるじゃん」
「朝も同じ話したね」
「したっけ」
「したよ」
「じゃあ寝てもいい?」
「どうぞ」
澪はシートへ身体を預けた。
「着いたら起こして」
「うん」
「サービスエリア寄るなら起こして」
「わかった」
「あと――」
「まだあるの?」
「ない」
「おやすみ」
「寝るとは言ってない」
「はいはい」
目を閉じる。音楽が小さく流れている。タイヤが路面を走る音と、暖房の風。
しばらくして、澪はまた目を開けた。眠ったのかどうか、自分でもよくわからなかった。
「今どこ?」
「もう半分以上来たよ」
「早い」
「寝てたからね」
「寝てた?」
「少し」
「そっか」
澪は身体を起こし、外を見る。道路沿いの灯りが流れていく。
「映画、何見る?」
「もうその話?」
「次の休み」
「澪が見たいのでいいよ」
「それ一番困るやつ」
「じゃあ僕が探す」
「お願い」
「また決める係?」
「得意でしょ」
「いつ決まったの、それ」
澪が笑う。直人も少し笑った。
そのあとだった。
前方に、大きな光が見えた。
一瞬、何なのかわからなかった。
本来、同じ方向へしか車が流れないはずの車線の先から、大型トラックのヘッドライトがこちらへ向かってくる。
直人の表情が変わった。
「澪」
名前を呼ばれた。
短く、鋭い声だった。
直人がブレーキを踏み込む。身体がシートベルトに引かれた。クラクションの音が響き、視界の中で白い光が急速に大きくなる。
澪は何かを言おうとした。
その前に、世界がひっくり返った。
凄まじい音がした。
身体がどこにあるのかわからなくなった。
暗いのか、明るいのかもわからない。
耳の奥で何かが鳴っている。
息をしようとして、うまくできなかった。
直人。
そう思った。
呼ばなければと思った。
けれど、口が動いたのかさえわからない。
直人、と呼んだつもりだった。
声になったかどうかは、わからなかった。
序章、ここまでありがとうございました!
澪と直人、二人の日々はここでひと区切り。
物語は次章から、新しい場所へ進んでいきます。
第2章「森の魔女の娘」も、楽しんでいただけたら嬉しいです!




