第6話 ちょっと遠くまで
休日の午前十時過ぎ。澪が家を出ると、少し離れたところに見慣れた車が停まっていた。近づいていくと、運転席の窓が下がる。
「おはよう」
「おはよう」
澪は助手席のドアを開けて乗り込んだ。
「今日、車なんだ」
「うん。あそこ電車だとちょっと行きにくいから」
「この車乗るの久しぶり」
「そうだっけ」
「最近ずっと電車だったじゃん」
「確かに」
澪はシートベルトを締める。車内は暖房が効き始めていたものの、まだ少し冷たい。
「寒い」
「暖房つけてるんだけどな」
「まだ車冷たい」
「もう少し待ってください」
「お願いします」
直人が笑って、車を出した。
今日の目的地は、郊外にある大型のインテリアショップだった。直人が部屋の照明を買い替えたいらしく、数日前に「付き合って」と言われていた。
わざわざ休みの日に照明を見に行くのもどうなのだろうと思ったが、澪も特に予定はなかったし、直人と出かけるなら別に何でもよかった。
「どんなの買うの?」
「まだ決めてない」
「決めてないの?」
「見てから決める」
澪が直人を見る。
「それ私と同じじゃん」
「何が?」
「冬物見に行ったとき、私それ言った」
「ああ」
「真似した?」
「してないよ」
「ほんと?」
「たぶん人類の半分くらいは言うと思う」
「そんなに?」
「適当だけど」
「適当なんだ」
信号が赤になり、車が止まる。直人は前を見たまま、少し笑った。
「ナビお願いしていい?」
「いいよ」
澪はスマートフォンで地図を開いた。
「このまま真っすぐ」
「うん」
「次、右」
「まだ結構先じゃない?」
「うん」
「じゃあなんで今言ったの」
「忘れそうだから」
「僕が?」
「私が」
「ナビとしてどうなの」
澪は気にせず画面を見続ける。
「でも次、ほんとに右だから」
「何メートル先?」
「……一・八キロ」
「早いなあ」
「準備大事でしょ」
「澪、そういうところあるよね」
「なに」
「いや、なんでも」
車内には音楽が流れていた。しばらくして、澪はセンターコンソールのオーディオ画面へ目をやった。
「曲変えていい?」
「いいよ」
「これ飽きた」
「まだ二曲目だけど」
「気分じゃない」
「どうぞ」
澪は車のオーディオを操作して、プレイリストを切り替えた。少しテンポのある曲が流れる。
「これなら眠くならない」
「僕は運転してるから大丈夫」
「眠くなったら困る」
「そのときは休むよ」
「ちゃんとしてる」
「普通です」
そんな話をしているうちに、車は市街地を抜けていった。
目的地に着いたのは十一時前だった。広い駐車場へ車を停め、二人で店へ向かう。中へ入ると、入口からすでに家具や生活雑貨が並んでいた。
「照明どこ?」
澪が案内板を見る。
「二階みたい」
「じゃあ二階」
「その前に」
直人が言う。
「なんでそっち行くの?」
澪はすでに別の方向へ歩き始めていた。
「ソファ」
「僕の買い物じゃなかった?」
「見るだけ」
「さっき僕が言ったやつ」
「人類の半分くらい言うんでしょ」
「そう返ってくるとは思わなかった」
展示されているソファを見ながら歩く。澪は少し大きめのものの前で止まった。
「これいい」
「大きくない?」
「そう?」
「澪の部屋に置いたら、それだけでかなり場所取るよ」
「私の部屋には置かないよ」
「じゃあどこに?」
澪はソファに座ってみた。
「二人ならこれくらいじゃない?」
直人が一瞬だけ澪を見る。
「二人?」
「座るなら」
「そういう意味ね」
「他に何があるの」
「別に」
直人も隣へ座った。確かに二人並んでも余裕がある。
「座りやすい」
「でしょ」
「でも大きい」
「広い部屋に住めばいいじゃん」
「急に話が大きくなったね」
「買うわけじゃないし」
「そうでした」
二人は立ち上がり、そのまま店内を見て回った。ダイニングテーブル、収納棚、ベッド。本来の目的からどんどん離れていく。
「これ」
澪が大きなダイニングテーブルの前で止まる。
「四人用だね」
「大きい」
「二人ならいらないかな」
「来客は?」
直人が聞く。
「来ない」
「断言するんだ」
「呼びたい?」
「別に」
「じゃあ二人用でいい」
「僕らの家具選びになってない?」
「見てるだけ」
「便利な言葉だね」
澪は気にせず隣の棚へ移る。少しして、二人は家電のコーナーへ入った。大きな冷蔵庫がずらりと並んでいる。
澪はその中でもかなり大きめのものを見た。
「これくらいほしい」
直人も見る。
「何人家族?」
「二人でも使うでしょ」
「これ四人くらい入りそうだけど」
「人は入れないよ」
「そういう話じゃない」
澪が笑う。
「でも、大きい方が便利じゃない?」
「まあ、買い置きするならね」
「冷凍庫も広いし」
「そこはいいかも」
「洗濯機も大きい方がいい」
「それは普通のでよくない?」
「まとめて洗うなら大きい方がいいでしょ」
「毎日洗えば?」
「毎日は面倒」
直人が少し意外そうな顔をした。
「そこは澪なんだ」
「何が?」
「毎日ちゃんと家事しそう」
「ちゃんとはやるよ」
「毎日は?」
「やらない」
「はっきりしてるね」
「必要な分だけやればいいでしょ」
「それはそうか」
澪は隣の冷蔵庫へ移った。直人もついてくる。
「でも、一緒に住んだらキッチン広いところがいいね」
何気なく言われ、澪は少しだけ直人を見る。
「この前狭かったから?」
「うん」
「直人が邪魔だった」
「ひどいなあ」
「でもほんとに狭かったでしょ」
「まあね。二人で料理するなら、もう少し広い方がいい」
「冷蔵庫も大きくして」
「それはもう聞いた」
「大事だから」
そこまで話してから、二人とも少し笑った。一緒に住む予定が決まっているわけでもないのに、話だけが妙に具体的だった。それでも、澪は特に変だとは思わなかった。
「そろそろ本来の目的行く?」
直人が言う。
「忘れてた」
「やっぱり」
二階の照明売り場へ移る。今度はちゃんと直人の買い物だった。天井から吊るすもの、壁につけるもの、間接照明。直人は思ったより真剣に見ている。
「今の何が嫌なの?」
「ちょっと暗い」
「そう?」
「夜、本読むとき気になる」
「ああ」
澪は何となく納得した。
「これとか?」
棚の一つを指す。直人が見る。
「いいかも」
「シンプル」
「澪が選ぶとそうなるね」
「嫌?」
「いや。僕もこういうの好き」
「じゃあそれでいいじゃん」
「早くない?」
「見てから決めるって言ってたでしょ」
「一個目で決めるとは言ってない」
「慎重だね」
「普通です」
結局、いくつか見比べてから、最初に澪が指したものに決まった。
「結局これなんだ」
「結果的にね」
「最初から買えばよかったのに」
「それだと買い物の意味なくない?」
「買うもの決まるならよくない?」
「澪、合理的すぎない?」
「無駄がない方がいい」
「理屈はわかるけどね」
会計を済ませ、照明を車へ置く。時計を見ると、もう昼を過ぎていた。
「ご飯食べる?」
「食べる」
「何がいい?」
「近くに何かある?」
「レストラン何軒かあったよ」
「じゃあそこ」
二人は店内に戻り、併設されたレストランへ入った。澪はパスタ、直人はハンバーグを頼んだ。
料理を待っている間、直人が思い出したように言う。
「そういえば、うちの部署の人、結婚するらしいよ」
「へえ」
「昨日ずっとその話だった」
「職場ってそうなるよね」
「本人より周りの方が盛り上がってた」
「わかる」
「式もするって」
澪は少し考えた。
「大変そう」
「第一声それ?」
「だって大変そうじゃん」
「おめでとうとかじゃないんだ」
「本人いたら言うよ」
「そういう問題?」
「式場決めて、呼ぶ人決めて、服決めて、席順決めて」
「確かに」
「お金もかかるし」
「現実的だね」
「大事でしょ」
直人が小さく笑った。
そこへ料理が運ばれてくる。二人で食べながら、さっき見た家具の話へ戻った。
「あのソファよかった」
澪が言う。
「まだ言ってる」
「座りやすかった」
「でも大きかったよ」
「広い部屋にすればいい」
「家賃上がるね」
「働こう」
「急に現実」
「大事でしょ」
「今日それ何回目?」
「数えてない」
澪はパスタを巻きながら言う。
「でも部屋は二つほしい」
「寝室別?」
「違う。自分の部屋」
「ああ」
「一人になりたいときあるから」
直人はすぐに頷いた。
「それは僕もほしい」
澪が少し意外そうに見る。
「直人も?」
「あるよ。一人で本読んだりしたいし」
「じゃあ三部屋いる」
「寝室入れて?」
「うん」
「ますます家賃上がるね」
「だから働こう」
「そこに戻るんだ」
二人で笑った。
「料理は交代ね」
「できる範囲でね」
「なんで逃げ道作るの」
「澪の方が上手そうだから」
「毎回は嫌」
「毎回とは言ってないよ」
「じゃあ半分」
「厳密に?」
「だいたい」
「よかった」
「作らない方は洗い物」
「それはいいね」
「泡残さないで」
「もう残さないよ」
「信用してない」
「一回で信用失った」
「泡は大事」
「大事なこと多いなあ」
「多いよ」
自分たちでも、何の話をしているのだろうと思う。けれど楽しかった。
昼食を終えたあとも、少し店内を回った。今度は直人が「これよくない?」と小さな棚を見つけ、澪が「置く場所ある?」と聞いた。
結局、その棚は買わなかった。直人が最初から買うつもりだった照明だけが、今日の買い物になった。
店を出る頃には、午後三時を過ぎていた。自動ドアを抜けたところで、澪は足を止めた。
「……雪」
直人も立ち止まり、空を見上げる。
いつの間にか、灰色の空から細かな白いものが落ち始めていた。まだ地面に残るほどではない。風に揺られながら、頼りなく降りてきては消えていく。
「ほんとだ」
澪はそのまま空を見ていた。
「嬉しそう」
「うん」
「雪、好きだよね」
「好き」
「寒いのは嫌なのに?」
澪が直人を見る。
「寒いのと雪は別」
「都合いいなあ」
「別だよ」
また空へ目を戻す。店の明かりを背にすると、白い粒がさっきよりよく見えた。
「積もるかな」
「これは無理じゃない?」
「そっか」
「残念そう」
「ちょっと」
直人が笑う。
「そんなに好き?」
澪は少し考えた。
「静かになるから」
「静か?」
「積もった朝って、いつもより音少なくない?」
「ああ。雪が音吸うっていうね」
「そう。それが好き」
澪は手のひらを上に向けた。小さな雪が一つ落ちて、すぐに溶けた。
「あと、全部白くなるのも好き。いつもの道なのに、全然違って見えるから」
「へえ」
「なに」
「いや。澪らしいなと思って」
「どういう意味?」
「静かなの好きじゃん」
「まあね」
「でも、積もったら通勤大変だよ」
「それは嫌」
「やっぱり都合いい」
「好きなのと困るのは別」
直人が笑う。
澪はもう一度だけ空を見上げた。雪は相変わらず、細かく降っていた。
「寒くなってきた」
「雪好きなんじゃなかった?」
「雪は好き。寒いのは嫌」
「わかりました」
二人で駐車場へ向かった。
「ちゃんと本来の目的達成したね」
助手席に乗りながら澪が言う。
「澪が途中で家具見始めるから忘れかけたけど」
「楽しかったでしょ」
「まあね」
「じゃあいいじゃん」
「それならいいけど」
直人が車を出す。フロントガラスに落ちる雪は、ワイパーを使うほどでもなかった。駐車場を出る頃には、降り方も少し弱くなっていた。
「積もらなさそう」
澪が窓の外を見ながら言う。
「さっきからそれ気にしてるね」
「せっかく降ったのに」
「今度、雪見に行く?」
「寒いからいい」
「雪好きなのに?」
「見るのが好きなの」
「難しいなあ」
「そう?」
「澪基準では普通なんだろうね」
「普通」
帰りは、行きより会話が少なかった。疲れたというより、話したいことを全部話したあとの静けさだった。
澪は窓の外を眺めたり、スマートフォンを見たりする。信号で車が止まったところで、直人が言った。
「その袋の中にガムあるから取ってくれる?」
「これ?」
澪は足元に置いていた買い物袋を覗き込み、小さな包みを取り出した。
「うん。ありがとう」
澪は一枚取り出して渡す。直人が受け取って口に入れた。
「私ももらう」
「どうぞ」
澪も一枚取って口に入れる。ちょうど信号が青に変わり、車がまた動き出した。
「運転、疲れた?」
「全然」
「眠くない?」
「大丈夫」
「ほんと?」
「ほんと」
「ならいい」
澪は少しだけシートへ深く座った。車の中は暖かい。流れている音楽も、行きに澪が変えたままだった。
「次の休み」
しばらくして直人が言った。
「ん?」
「どこか行く?」
「また買い物?」
「今日は買い物だったから。今度はもうちょっと遠いところ」
澪は少し考えた。
「海見たい」
「海?」
「うん」
「この時期?」
「うん」
「寒いよ」
「知ってる」
「かなり寒いと思うけど」
「大丈夫」
「あとで寒いって言っても知らないよ」
澪は少し笑った。
「寒かったら直人のせいにする」
「理不尽だなあ」
「行く?」
直人も笑う。
「行こうか」
「ほんと?」
「うん。ちょっと遠いけど」
「どれくらい?」
「一時間半くらいかな」
「今日より遠いね」
「だから朝ちょっと早め」
「起きる」
「ほんとに?」
「直人よりは早い」
「そこまだ言う?」
「休みの日十時まで寝る人」
「毎回じゃないって」
澪は笑った。
それから少しして、車は澪の家の近くへ着いた。直人が道路脇へ停める。澪はシートベルトを外した。
「今日はありがとう」
「こっちの台詞じゃない? 買い物付き合ってもらったし」
「じゃあ半分ずつ」
「最近半分好きだね」
「じゃがいものせい」
「まだ続いてた」
二人で笑った。
澪はドアを開ける。外の冷たい空気が車内へ入ってきた。雪はもう止んでいた。
「じゃあ、海」
「了解」
「忘れないで」
「忘れないよ」
「おやすみ」
「おやすみ」
澪は車を降り、ドアを閉めた。直人が軽く手を上げる。澪も手を振った。
やがて車がゆっくり走り出す。澪は少しだけそれを見送ってから、家へ向かった。
次の休みは、海。それだけ決めた。
いつものように、また次に会う予定が一つ増えた。




