第5話 何もしない休日
待ち合わせは、澪の家から歩いて数分のところにあるスーパーだった。
休日の午前十一時。空は晴れているものの、外へ出た瞬間に引き返したくなるくらいには寒い。澪はコートのポケットに両手を突っ込みながら、スーパーの入口へ向かった。
遠くからでも、直人はすぐに見つかった。入口の脇でスマートフォンを見ている。澪に気づくと画面を閉じ、軽く手を上げた。
「おはよう」
「おはよう。早い」
「五分前だよ」
澪は自分のスマートフォンを見る。
「私も五分前」
「じゃあ完璧だね」
「珍しい」
「何が?」
「二人とも時間通り」
「普段からだいたい時間通りだと思うけど」
「直人、七分遅れたことある」
「まだ覚えてるんだ」
澪は少し笑った。
「もう忘れた」
「今言ったばっかりなのに?」
「細かいなあ」
「理不尽だなあ」
二人でスーパーへ入り、入口に積まれていた買い物カゴを直人がそのまま一つ取った。
「何食べたい?」
「作りやすいやつ」
「それ前も言った」
「あ、禁止だった?」
「困るって言った」
「なんでもいいもだめなんだよね」
「具体的に言って」
「難しい注文だなあ」
「食べたいもの言うだけでしょ」
直人はカゴを持ったまま、少し真面目に考えた。
「じゃあ……クリームシチュー」
「いいね」
「決まるの早いね」
「私も食べたい」
「それならよかった」
あっさり献立が決まった。二人はまず野菜売り場へ向かう。
「じゃがいも、にんじん、玉ねぎ」
澪が指折り数える。
「肉は?」
「鶏でいい?」
「いいよ」
「あと牛乳。ルーは家にある」
「パンは?」
「いる」
「サラダは?」
「作る」
「結構ちゃんとしてるね」
澪が振り返った。
「何だと思ってたの」
「何もしないって言ってたから」
「今日は何もしない予定だけど、ご飯は食べるでしょ」
「なるほど」
澪はじゃがいもの前で立ち止まり、二種類の袋を手に取って交互に見た。直人が隣から覗き込む。
「違うの?」
「こっちの方がちょっと安い」
「量は?」
「同じ」
「じゃあ安い方でいいんじゃない?」
「でもこっちの方が大きい」
「シチューなら大きさ関係ある?」
澪はじゃがいもを見る。
「……ないかも」
「そこ悩んでたの?」
「大事でしょ」
「同じ量で安いなら、僕ならもう決めてる」
「直人は雑だから」
「今の話でどうしてそうなるの」
結局、安い方をカゴへ入れ、そのままにんじん、玉ねぎ、鶏肉と順番に買っていく。
パン売り場へ来ると、今度は直人が止まった。
「これおいしそう」
棚から、小さめのパンがいくつか入った袋を取る。澪が値段を見る。
「高くない?」
「ちょっとだけ」
「普通のでよくない?」
「休日だよ」
「休日だから何」
「ちょっといいパン食べても許される日」
「誰に許してもらうの」
直人は少し考えた。
「澪?」
「じゃあ許さない」
「厳しいなあ」
そう言いながらも、直人は棚へ戻そうとしない。澪はそれを見て、ため息をついた。
「……そんなに食べたいの?」
「ちょっと」
「じゃあ買えば」
「許された」
「私のお金じゃないし」
「急に現実的」
「食べるのは私も食べる」
「半分出す?」
「それなら許す」
「交渉成立だね」
結局、少し高いパンもカゴへ入った。他にも牛乳とサラダ用の野菜、飲み物をいくつか買う。
会計を終えると、直人が重い方の袋を持った。
「そっち重くない?」
「大丈夫」
「牛乳入ってるでしょ」
「入ってるね」
「じゃあ半分持つ」
「澪の家まで数分でしょ」
「そうだけど」
「じゃあこれくらい持つよ」
澪は一瞬だけ袋を見た。無理に取り合うほどでもないと思い直して、自分の分だけ持つ。
「……じゃあお願い」
「はい」
二人は並んでスーパーを出た。
澪の部屋に着くと、直人は慣れた様子で靴を脱いだ。
「スリッパそこ」
「知ってる」
「一応言っただけ」
「はいはい」
直人は買い物袋をキッチンへ運び、コートを脱いだ。いつも掛けている場所へ手を伸ばしてから、念のため澪を見る。
「ここでいい?」
「うん」
澪もコートを脱いで、その隣へ掛けた。
「じゃあ作ろうか」
「手伝うよ」
「知ってる」
「今日は働かされる前提なんだ」
「一人だけ座ってるつもりだったの?」
「まさか」
「じゃあ働いて」
「はい」
買ってきた食材をキッチンへ並べ、澪は袖を少しまくった。
「じゃがいもお願い」
「どれくらいに切る?」
「これくらい」
澪が指で大きさを示す。直人は頷いて包丁を持ち、澪はその隣でにんじんを切り始めた。
しばらくして直人のまな板を見る。
「大きい」
「え?」
「じゃがいも」
直人が自分で切ったものを見る。
「これくらいって言ったじゃん」
「それより大きい」
「誤差じゃない?」
「煮える時間変わる」
「厳しいなあ」
「ちゃんと半分にして」
「はい、先生」
「先生じゃない」
直人は素直に大きめのじゃがいもを半分に切った。その間に澪はにんじんを切り終える。
「次、玉ねぎ」
「僕?」
「うん」
「澪は?」
「鶏肉切る」
「僕、玉ねぎ得意じゃないんだけど」
「切るだけじゃん」
「目痛くなる」
「みんななるよ」
それでも直人は玉ねぎの皮を剥き、半分に切って包丁を入れ始めた。数分もしないうちに眉間へしわが寄る。
「痛い」
「早いね」
「澪平気なの?」
「平気」
「強いね」
「玉ねぎに?」
「玉ねぎに」
澪が笑う。
「もうちょっとだから頑張って」
「応援が軽い」
「じゃあ代わる?」
「ここまで来たらやる」
「変なところで意地張るね」
直人は少し目を細めながら、最後まで玉ねぎを切った。
材料を鍋へ入れて炒め、水を加える。煮込んでいる間にサラダを作ることにした。
具が柔らかくなったところで、いったん火を止めてルーを溶かす。
直人は使い終わったドレッシングを冷蔵庫へ戻していた。
澪が鍋を覗き込みながら言う。
「そろそろ牛乳入れるね」
「うん」
澪が冷蔵庫へ向かうと、まだ直人が扉の前にいた。
「ちょっとどいて」
「今使ってる」
「牛乳取りたい」
「あ、ごめん」
直人が横へずれる。
澪は冷蔵庫から牛乳を取り出し、鍋の方へ戻ろうとした。狭いキッチンですれ違う形になる。
「後ろ通るよ」
直人の手が軽く澪の腰に触れる。澪は当然のように半歩前へ出た。
「狭いね、ここ」
「二人用に作られてないからね」
「一人暮らしだもんね」
「そう」
澪は鍋を覗き込む。
「でも料理するだけなら何とかなる」
「今日は僕が邪魔?」
「ちょっと」
「帰ろうかな」
「シチューできてからにして」
「食べるだけ食べさせてくれるんだ」
「洗い物してからね」
「結構働くなあ」
「手伝うって言ったの直人でしょ」
「そうでした」
シチューが出来上がる頃には、部屋の中に温かい匂いが広がっていた。
テーブルへ鍋を運び、サラダとパンを並べる。直人が買った少し高いパンも温めた。
「いただきます」
二人で手を合わせる。
直人がシチューを一口食べた。
「おいしい」
「ほんと?」
「うん」
「じゃがいも大きくなかった?」
「ちゃんと煮えてる」
「私が半分にしろって言ったからね」
「僕が切ったのに」
「最初は大きかったでしょ」
「でも切り直したのも僕だよ」
「じゃあ直人の功績」
「やっと認められた」
「半分だけ」
「結局半分なんだ」
澪が笑った。
パンを一つ取る。直人が言った通り、少し高いだけあっておいしい。
「これ、おいしい」
「でしょ」
「買って正解だったね」
「許してもらえてよかった」
「次も買う?」
「毎回だと特別感なくなるよ」
「そういうもの?」
「休日のちょっといいパンだからいいんじゃない?」
澪は少し考えて頷いた。
「なるほど」
「納得した?」
「ちょっと」
二人で食べる。澪は普通に一皿を食べきり、パンにも手を伸ばした。直人は何も言わない。食べている量を数えることも、前回の話を持ち出すこともなかった。
ただ、いつものように自分の皿を食べている。
澪もそれでよかった。
食事を終えると、二人で片づけることにした。澪が立ち上がろうとすると、直人も同時に腰を上げる。
「洗うよ」
「置いといていいよ」
「作ってもらったからこれくらいする」
「一緒に作ったでしょ」
「僕の功績、半分しか認められてないから」
「まだ言ってる」
「せめて洗い物で取り返そうかなって」
澪は笑った。
「じゃあお願い」
「任せて」
直人が皿を洗い、澪が横で拭く。何枚目かの皿を受け取ったとき、澪が手を止めた。
「ここまだ泡ついてる」
「ほんと?」
「ほんと」
「どこ?」
「ここ」
指で示す。
「ああ」
「ちゃんと流して」
「監督が厳しいなあ」
「仕事が雑」
「さっきじゃがいもでも言われた」
「事実だから」
「澪と一緒に暮らしたら毎日怒られそう」
何気なく出た言葉だった。
澪は手を止める。直人も、言ったあとで気づいたらしい。一瞬だけ二人の視線が合った。
でも、どちらも深刻な顔はしなかった。
「洗い物ちゃんとすれば怒らないよ」
「そこ改善すれば大丈夫?」
「あと靴下その辺に置かないなら」
「置かないよ」
「じゃあ大丈夫かも」
「条件少なくない?」
「増やそうか?」
「いや、いいです」
二人とも笑った。
それで話は終わった。
未来の約束になったわけでもない。ただ、そうなったら、という話をしただけだった。
片づけを終えると、澪はソファへ座った。
「疲れた」
「そこまで?」
「お腹いっぱい」
「それ疲れたって言う?」
「動きたくない」
直人も隣へ座る。
テレビをつける。たまたまやっていた番組をそのまま流し、澪はテーブルに置いてあった雑誌を手に取った。直人はスマートフォンを見る。
しばらく会話はなかった。
同じソファに座っているのに、二人とも別のものを見ている。それでも澪は、その時間を退屈だとは思わなかった。
ページをめくる音。テレビから流れる声。時々、直人がスマートフォンを触る音。
それだけでいい。
しばらくして、澪は雑誌から目を上げた。
「ねえ」
「ん?」
「飲み物取って」
直人が顔を上げる。
「近いの澪じゃない?」
「動きたくない」
「僕も」
「じゃんけんする?」
「そこまでする?」
「負けた方が取る」
「普通に澪が行った方が早いと思う」
「じゃあ直人お願い」
「話聞いてた?」
そう言いながらも、直人は立ち上がった。
「何飲む?」
「お茶」
「温かいの?」
「うん」
「了解」
キッチンへ行き、自分の分と澪の分を持って戻ってくる。
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
澪はカップを受け取って一口飲む。温かい。それからまた雑誌へ視線を戻した。
その後もしばらく、何もしなかった。
いつの間にか澪は雑誌を閉じ、テレビを見るでもなく、ぼんやり画面の方へ顔を向けていた。
暖房の効いた部屋。満たされたお腹。静かな休日の午後。
眠くならない理由の方が少なかった。
澪は小さくあくびをした。
「眠い?」
「ちょっと」
「寝たら?」
「寝たらもったいない」
「何が?」
「休日」
「寝るのも休日でしょ」
澪は少し考えた。
「……それもそうか」
「でしょ」
澪はソファの背にもたれた。しばらくすると、自然に身体が傾いていく。
肩が直人へ触れる。
そのまま少しずつ体重を預けると、直人は何も言わず、澪がもたれやすいように少し姿勢を変えた。
澪はその肩へ頭を乗せて、目を閉じる。
「直人」
「ん?」
「いる?」
一瞬だけ間があった。
「いるよ」
「そっか」
それだけ確認すると、澪はもう何も言わなかった。
テレビの音が遠くなる。直人の肩は温かい。
目を開けているつもりだったのに、いつの間にか眠っていた。
次に目を開けたとき、窓の外は少し薄暗くなっていた。
澪はぼんやり瞬きをする。テレビはまだついている。でも音がさっきより小さい。
「……寝てた?」
「寝てた」
隣から声がする。
澪はまだ直人の肩にもたれていた。
「どれくらい?」
「三十分くらい」
「起こしてよ」
「気持ちよさそうだったから」
「休日終わる」
「まだ終わってないよ」
澪は身体を起こし、大きく伸びをした。直人がこちらを見て、少し笑う。
「なに」
「髪」
「え?」
「ちょっとすごい」
澪は慌てて頭を触った。
「変?」
「ちょっと」
「最悪」
「別にいいじゃん。僕しかいないし」
澪は手櫛で髪を直しながら、直人を見る。
「……ならいいか」
「いいんだ」
「直人しかいないし」
「それは光栄です」
「大げさ」
澪はまたソファへ座り直した。
そのあとも特に何かをするわけではなかった。少しテレビを見て、途中で今日買ったお菓子を開けて、二人で食べた。
夕方が夜へ変わり始めた頃、直人が時計を見る。
「そろそろ帰ろうかな」
「うん」
澪も時計を見た。いつの間にか、結構な時間が経っていた。
直人がコートを着る。澪も玄関までついていった。
「次いつ会う?」
直人が靴を履きながら言う。
澪は少し考えた。
「仕事終わりなら……水曜?」
「僕も水曜なら大丈夫」
「じゃあ水曜」
「文化会館?」
「いつものとこ」
「了解」
直人が靴を履き終わり、立ち上がった。
「今日はありがとう」
「何が?」
「ご飯」
「手伝ったでしょ」
「じゃあ半分ありがとう」
「半分なんだ」
「半分は僕の功績だから」
「まだじゃがいも引きずってる?」
「結構根に持つタイプです」
「知らなかった」
「今知ったね」
二人で笑った。
直人がドアへ手を伸ばしかけ、その前に澪の方を振り返る。
澪も自然に顔を上げた。
直人が少し顔を近づけ、唇が触れる。
一瞬で離れるようなキスではなかった。かといって、息を奪うようなものでもない。ただ唇と唇を重ねたまま、数秒。
触れているだけなのに、さっきまで肩を借りて眠っていたときとは少し違う熱がある。
直人がゆっくり離れる。
澪はそのまま直人を見た。
それから今度は、自分の方から少しだけ顔を寄せる。
直人もすぐに気づいた。
もう一度、唇が重なる。
さっきより短い。
それでも、離れたあと澪は少しだけ満足した。
「じゃあね」
直人が言う。
「うん」
「また水曜」
「うん」
ドアが開き、冷たい空気が少しだけ玄関へ入り込んだ。
「おやすみ」
「おやすみ」
直人が出ていく。
澪はドアを閉め、鍵をかけた。
部屋へ戻ると、さっきまで二人で座っていたソファが目に入る。テーブルには二人分のカップが残り、テレビもついたままだった。
急に静かになった気がする。
でも、寂しいとは少し違う。
今日一日、ここに直人がいた。
スーパーで買い物をして、二人でシチューを作って、食器を洗って。何もせずに座って、少し眠った。
本当に、それだけだった。
澪は二つ並んだカップを見る。
「……あとでいいか」
片づけるのをやめて、ソファへ戻った。
直人が座っていた場所をなんとなく見る。
それから、いつもの自分の場所より少しだけそちらへ寄って座った。
まだ少し、温かい気がした。




