第4話 ちゃんと話そう
あの日から、二日が経った。
直人とは、普通に連絡を取っていた。
『おはよう』
『今日寒いね』
『今終わった』
いつも通りのようで、少しだけ違う。文章が短い。必要なことしか送っていない。
だからといって、澪も怒っているわけではなかった。直人がまだ怒っているとも思っていない。
ただ、あの日の会話がそのまま二人の間に置かれているような感じがした。片づけてもいないし、捨ててもいない。そこにあるのをお互い知っているのに、まだ触れていない。
その日の午後、仕事中にスマートフォンが震えた。
休憩に入ってから確認すると、直人からだった。
『今日、少し会える?』
澪は画面を見た。胸の奥が、少しだけ緊張する。
でも、断ろうとは思わなかった。
『いいよ』
送信する。
すぐに返事が来た。
『いつものところで』
澪はそれを見て、スマートフォンを伏せた。
いつものところ。
文化会館。公衆電話の隣の、あの変なオブジェ。
変わらない場所だからこそ、少しだけ安心した。
仕事を終え、文化会館へ向かう。
冬の夕方は暗くなるのが早い。建物のガラスには中の明かりが映り、公衆電話の透明な囲いにも街灯がぼんやり反射していた。
澪は銀色のオブジェの前で立ち止まった。今日は自分が先だった。
スマートフォンを見る。約束の時間まで、あと二分。
いつもなら何も考えず待てるのに、今日は少し落ち着かない。
何を話すんだろう。何を言えばいいんだろう。
謝った方がいいとは思っている。でも、全部自分が悪かったとも思っていない。直人の言い方が嫌だったのも本当だ。
そんなことを考えているうちに、聞き慣れた声がした。
「澪」
振り返る。
直人が歩いてくる。
「お待たせ」
「うん」
それだけ。
会話が一度止まる。
いつもなら、そのまま自然に歩き出す。今日は、どちらも少しだけ動かなかった。
直人が先に言った。
「ご飯、食べる?」
澪は少し間を置いて頷く。
「……うん」
「じゃあ行こうか」
二人で歩き出す。
距離はいつもと同じくらい。でも、手は繋がない。
直人も澪も、何かを話そうとしているのに、その入口が見つからない。
文化会館を離れ、少し人通りの少ない道へ入る。
そこで直人が口を開いた。
「この前のことなんだけど」
澪は前を向いたまま答える。
「うん」
「やっぱり、言い方悪かったと思ってる」
澪が少しだけ直人を見る。
「……謝るの?」
「謝るよ。嫌な言い方したし」
あまりに普通に言うので、少し拍子抜けした。
「でも」
直人は続ける。
「心配したことは謝らない」
澪は思わず眉を上げた。
「……そこは謝らないんだ」
「うん」
「頑固」
「澪に言われたくないな」
「私は頑固じゃない」
「そういうことにしておこうか」
その言い方に、澪は少し笑った。直人も笑う。
二日ぶりに、二人の間の空気が少しだけ緩んだ。
それでも、まだ話は終わっていない。
澪は少し歩いてから言った。
「私も、言い方悪かった」
直人が見る。
「うん」
「直人が心配してるの、わかってた」
「うん」
「わかってたけど……」
澪は言葉を探す。
うまく説明できる気がしない。でも、ここでまた「別に」と言ったら何も変わらない気がした。
「自分では、ちゃんとやってるつもりだったから」
「うん」
「『無理してる』って言われると、なんか……できてないって言われたみたいで嫌だった」
直人はすぐには何も言わなかった。
澪は続ける。
「仕事も、自分で選んでやってるし。忙しかったけど、誰かに無理やりやらされてたわけじゃないし」
「うん」
「だから、止められると……自分で決められない人みたいで」
直人が小さく息を吐く。
「そう聞こえたんだ」
「ちょっとね」
「それはごめん」
直人はすぐに言った。
澪は少し目を瞬く。
「そんなつもりじゃなかった、って言わないんだ」
「言っても澪がそう感じたのは変わらないでしょ」
澪は黙った。
その答えが、少しだけ嬉しかった。
「もちろん、そんなつもりはなかったけど」
「言うんじゃん」
「そこは言わせてよ」
「はいはい」
また少しだけ笑う。
直人は前を向いて歩きながら言った。
「僕は、澪に仕事やめろとか、頑張るなとか言いたいわけじゃないんだよ」
「うん」
「澪が仕事ちゃんとしてるのも知ってるし、責任持ってるのもわかってる」
澪は何も言わず聞く。
「でも、澪って自分ができると思ったら、できるところまで全部やろうとするでしょ」
「……悪い?」
「悪くない」
直人はすぐに答えた。
澪が少しだけ顔を上げる。
「ただ、できることと、やって平気なことって同じじゃないと思ってる」
その言葉に、澪は黙った。
少し耳が痛い。でも、この前ほど腹は立たなかった。直人も、言葉を選んでいるのがわかるからだ。
「僕が止めたいんじゃなくて」
直人は少し考える。
「しんどいって言ってくれたらいいだけなんだと思う」
「言ったら何するの?」
「うーん」
直人が本気で考え始める。
澪は隣を見る。
「考えてなかったの?」
「そこまで具体的には」
「じゃあ何のために聞くの」
「ご飯食べさせる?」
「強制?」
「店は選ばせる」
「そこじゃない」
澪が笑い、直人も笑った。
「別に、解決できなくてもいいんだよ」
「え?」
「今日しんどかった、とか。今日は大変だった、とか。そういうの聞ければ」
澪は少しだけ首を傾げる。
「……それだけ?」
「それだけ」
「何か言わないの?」
「必要なら言うけど」
「休めとか」
「言うかもしれない」
「やっぱり言うんじゃん」
「でも、まず聞く」
直人が笑う。
「そのあとで、必要なら一緒に考える」
澪は少し黙った。
直人は、澪の仕事を取り上げたいわけじゃない。自分の判断に従わせたいわけでもない。
ただ、知らないままにしたくない。
たぶん、それだけなんだ。
澪は少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ……次からは言う」
直人が見る。
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「努力する」
「それなら十分」
直人はあっさり頷いた。
「でも」
今度は澪が言う。
「直人も、すぐ無理してるって決めつけないで」
「わかった」
「あと、ご飯食べたか毎日確認するの禁止」
「それはするつもりなかったよ」
「ほんと?」
「信用ないなあ」
「この前しつこかったから」
「しつこくしたくなる状態だったからね」
「ほら、また」
「ごめん」
澪がじっと見ると、直人が少し笑った。
「今のは言い方」
「ならいい」
そこまで話して、しばらく二人とも黙った。
今度の沈黙は、前回とは違った。重くない。ただ言葉が途切れただけだ。
澪は隣を歩く直人を見る。それから少し迷った。
言葉で何か言うのは、なんとなく照れくさい。
だから澪は、直人のコートの袖を軽くつまんだ。
直人が見る。
「ん?」
澪は何も言わない。
代わりに、片手を出した。
直人がその手を見る。ほんの少しだけ笑って、そのまま握った。
澪も握り返す。
それで十分だった。
二人は手を繋いだまま、店へ向かった。
「何食べる?」
直人が聞く。
「今日はグラタン」
「即答だね」
「昨日から食べたかった」
「じゃあ決まり」
少し歩いた先に、洋食店があった。
店内へ入ると暖房が効いていて、澪はコートを脱ぐ。席へ着き、メニューを開いた。
「ほんとにグラタンなんだ」
「言ったでしょ」
「いや、途中で変わるかと思って」
「変えないよ」
「珍しい」
「失礼」
注文したグラタンが運ばれてくる。
表面には焼き色がついていて、湯気が立っている。澪はスプーンですくい、息を吹きかけてから口へ運んだ。
「熱っ」
「大丈夫?」
「熱い。でもおいしい」
「ならよかった」
直人はそれ以上何も言わなかった。
ちゃんと食べてるね、とも。今日は食べられるんだね、とも。
ただ、澪が普通に食べているのを見て、少しだけ表情を緩めた。
澪は気づいた。でも何も言わなかった。
「そっち、一口ちょうだい」
「やっぱり来た」
「何が?」
「澪の一口ちょうだい」
「いいでしょ」
「いいよ」
直人は自分の料理を少し分ける。澪もグラタンを少し渡した。
「熱いから気をつけて」
「澪がさっき自分で熱いって言ってたからね」
「経験者からの助言」
「ありがとう」
いつもの会話が戻っていた。
食事を終え、店を出る。
外はさらに冷えていた。澪はコートのポケットに片手を入れ、もう片方は直人と繋いだまま歩く。
少しして、澪が思い出したように言った。
「そういえば」
「ん?」
「今度うち来る?」
直人が見る。
「澪の家?」
「うん。外寒いし」
「何するの?」
「何もしない」
「招待の仕方としてどうなの、それ」
「ご飯くらいは作るかも」
「かもなんだ」
「期待しないで」
「じゃあ期待しないで行く」
澪が直人を見る。
「でも来るんだ」
「行くよ」
直人が笑い、澪も笑った。
「じゃあ次の休み」
「了解」
「何食べたい?」
「もう聞くの?」
「作るかもしれないから」
「じゃあ、澪が作りやすいやつ」
「それ一番困る」
「なんでもいいって言うと怒られるし」
「学習したね」
「ちゃんと成長してます」
二人はそのまま駅まで歩く。
今度は、手を離すまでの間に変な間はなかった。
いつもの場所で足を止める。
「じゃあね」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
手を離す。
直人が改札の向こうへ歩いていく。澪も自分の乗る電車へ向かった。
数日前と同じ場所。同じ冬の夜。
でも今日は、少しだけ違った。
言わなくてもわかることは、たくさんある。
けれど、言わなければわからないこともある。
澪はそれを、ほんの少しだけ知った。
そしてたぶん、直人も同じだった。




