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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
序章 前世の恋
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第3話 平気じゃない


 文化会館の前に着いたとき、澪は小さく息を吐いた。白い息が、すぐに夜の空気へ溶けていく。


 昨日より風は弱い。それでも冬の冷たさは変わらない。


 澪は公衆電話の隣にある、相変わらず何を表しているのかわからない銀色のオブジェのそばで立ち止まった。いつもの待ち合わせ場所だ。


 今日は澪の方が少し早かった。スマートフォンを見る。直人から連絡は来ていない。時刻はまだ約束の三分前だった。


 澪はそのまま画面を閉じた。


 なんとなく、目の奥が重い。


 今日は朝から忙しかった。電話が重なって、急ぎの書類が入って、午前中に終わるはずだった作業が午後までずれ込んだ。昼休みも、気づけばほとんど終わっていた。


 まあ、そういう日もある。


 澪はそう思っていた。たまに忙しい日があるくらい、働いていれば普通だ。


 少し疲れた。それだけ。


 自動扉が開き、会館の中から暖かな空気が流れてくる。澪がそちらを見た、そのとき。


「澪」


 聞き慣れた声がした。


 振り返ると、直人が歩いてきていた。濃い色のコート。その前が少し開いていて、中に見えるニットの色に澪はすぐ気づいた。


 数日前、一緒に選んだものだ。


「……着てる」


 思わず、そう言った。


 直人が自分の胸元を見る。


「約束したからね」


「会社に着てきたんだ」


「澪が仕事の日でもいいって言ったじゃん」


「言ったけど」


 澪は少しだけ笑う。


 思った通り、似合っている。店で見たときより、仕事帰りのきちんとした格好に合わせた方が、むしろ馴染んで見えた。


「やっぱり似合う」


「そう?」


「うん」


「じゃあ買って正解だったね」


「私が選んだからね」


「そこは譲らないんだ」


 直人が笑った。澪も笑い返す。そのはずだった。


 けれど、直人はすぐに少しだけ目を細めた。


「疲れてる?」


「ん?」


「今日」


 澪は一瞬だけ間を置く。


「ちょっとね」


「忙しかった?」


「まあ、それなりに」


 直人はそれ以上聞かなかった。


「そっか」


 それだけ言って、澪の隣へ並ぶ。


「ご飯どうする?」


「なんでもいい」


「また難しい答えだね」


「今日はほんとになんでもいい」


「じゃあ僕が決めていい?」


「うん」


 澪があっさり頷いたので、直人は少しだけ意外そうな顔をした。けれど何も言わなかった。


 二人は文化会館を離れ、駅の方へ歩き出した。


 いつもなら、店の前を通るたびに澪が何かしら言う。ここ前に行った。今日は魚じゃない。それおいしそう。


 でも今日は、直人が何軒か店を見ても、澪はほとんど反応しなかった。


「和食でいい?」


「うん」


「この店入る?」


「いいよ」


 いつもなら、もう少し何か言うのに。


 直人はそう思ったのだろう。けれど、まだ何も言わなかった。


 店に入り、窓際の二人掛けの席へ案内された。澪はコートを脱ぎ、椅子へ掛ける。暖房が効いていて、冷えていた頬がじんわり温まっていく。


「何にする?」


 直人がメニューを開く。


 澪も同じように開いた。写真を眺める。どれもおいしそうには見える。でも、あまり食べたいとは思わなかった。


「これでいいかな」


 適当に目についた定食を指す。


 直人が見る。


「ほんとにそれでいい?」


「うん」


「澪、魚の気分?」


「別に」


「別に?」


 澪は顔を上げた。


「なに?」


「いや。今日はずいぶんあっさり決めるなと思って」


「疲れてるから」


「ああ」


 直人はそこで一度引いた。


 注文を終える。


 料理が来るまで、仕事の話を少しした。直人の部署では、朝から打ち合わせが続いていたらしい。澪も今日あったことを簡単に話した。


 でも、いつもほど言葉が続かなかった。


 料理が運ばれてくる。温かい湯気が立った。


 澪は箸を持ち、一口食べる。味はちゃんとおいしい。なのに、次の一口へ手が伸びるまで少し時間がかかった。


「おいしくない?」


 直人が聞いた。


「おいしいよ」


「じゃあ食欲ない?」


「ちょっと疲れてるだけ」


 澪はもう一口食べる。


 直人は自分の皿へ視線を戻した。しばらく、二人とも黙って食べた。


 けれど澪の箸はやっぱり遅い。


「今日、昼は何食べた?」


 唐突に直人が聞いた。


「お昼?」


「うん」


「食べたよ」


「何食べた?」


 澪は少しだけ考えた。


「……お菓子」


 直人の箸が止まる。


「お菓子?」


「クッキー」


「それ昼ごはんじゃないよ」


「ちゃんと糖分は取った」


「そういう話じゃなくて」


 澪は少し笑った。


「忙しかったの。休憩取るタイミング逃して」


「何時に食べたの?」


「二時半くらい」


「それもクッキー?」


「うん」


「他には?」


「コーヒー」


「それは昼ごはんじゃない」


「わかってるって」


 澪は少しだけ眉を下げる。


 直人の声は強くない。けれど、さっきまでより明らかに真面目だった。


「今日だけ?」


「なにが?」


「ちゃんと昼食べなかったの」


「今日は特に忙しかったから」


「最近、帰るの遅い日多くない?」


 澪は黙る。


「そうだっけ」


「先週も二回くらい遅かったよね」


「忙しい時期なんだから仕方ないでしょ」


「仕方ないかもしれないけど」


 直人が少し言葉を切る。


「休憩まで飛ばすのは違うでしょ」


「今日はたまたまだよ」


「本当に?」


 その言い方に、澪は少し引っかかった。


「本当にって?」


「最近ずっと無理してない?」


「してないよ」


「してるように見えるけど」


 澪の中に、小さく苛立ちが生まれる。


 疲れていたせいもある。今日は朝からずっと、誰かに急かされるように動いていた。ようやく仕事が終わって、直人とご飯を食べているのに、ここでも自分のやり方を否定されているような気がした。


「これくらい普通だから」


「普通かどうかじゃなくて」


「直人に言われなくても、自分のことくらいわかってる」


 言ったあと、空気が少し止まった。


 直人が黙る。


 澪も、自分の声が思ったより強かったことに気づいた。でも、すぐには引けなかった。


 直人はしばらくしてから、静かに言った。


「……自分のことだからこそ、わからなくなることもあるじゃん」


「なにそれ」


「澪、しんどいときほど平気って言うから」


 澪は言い返そうとした。でも、一瞬言葉に詰まる。


「言ってないし」


「今日も最初、ちょっと疲れただけって言ったよね」


「それは本当にそうだから」


「昼ごはん食べる時間もなくて、今もほとんど食べられてないのに?」


「食べてるでしょ」


「ほとんど減ってないよ」


 澪は自分の皿を見る。確かに、半分も減っていない。


「じゃあどうすればいいの」


 澪は箸を置いた。


「仕事残ってても、ご飯食べるから帰りますって言えばいい?」


「そういうこと言ってるんじゃないよ」


「じゃあ何?」


 直人も少し困ったように黙った。すぐに答えは出なかった。


 それが余計に、澪を苛立たせる。


「直人は別の部署だから簡単に言えるんだよ。こっちは今日やらなきゃいけない仕事があったの」


「うん。それはわかってる」


「じゃあ」


「でも」


 直人が澪を見る。


「僕は、澪が倒れるまで頑張ってから『仕方なかった』って言うのは嫌だ」


 澪の胸が、少し詰まる。


「倒れてないでしょ」


「だから倒れる前に言ってるんだよ」


 また沈黙。


 今度はさっきより長かった。


 店の中では、周囲の話し声や食器の音が変わらず続いている。その中で、二人の席だけが妙に静かだった。


 直人が先に視線を落とす。


「……ごめん」


 澪は顔を上げた。


「言い方、きつかったかも」


「別に」


「でも、心配はしてる」


 そこは引かない。


 澪はそれが少し腹立たしくて、同時に直人らしいとも思った。


「……わかった」


 結局、それだけ言った。


 料理は少し残した。


 直人は何も言わなかった。


 店を出ると、外の空気は冷たかった。


 さっきまでなら、寒いと言えば直人が何かしら反応しただろう。でも澪は言わなかったし、直人も何も言わなかった。


 二人は並んで歩く。距離は近い。けれど今日は、手を繋がなかった。


 わざとではない。澪から出せなかった。直人も出さなかった。


 信号が赤になり、二人で立ち止まる。


 隣を見ると、直人は前を向いていた。怒っているようには見えない。ただ少し困っているような、考えているような顔をしている。


 澪は視線を戻した。


 言いすぎたかもしれない。


 そう思う。


 でも、自分だって遊んで仕事をしているわけじゃない。仕事が残っていればやるしかない日だってある。全部直人の言う通りにできるわけでもない。


 青になる。


 二人はまた歩き出した。


 会話はほとんどなかった。


 駅に着き、いつもの場所で足を止める。


「じゃあね」


 澪が言う。


「うん」


 直人も返す。


 一瞬、直人が何か言いかけた。澪は待つ。


「……ちゃんと寝てね」


 やっぱりそれか、と少しだけ思った。


 また言うの。


 そんな言葉が喉まで出かかった。でも、直人の顔を見てやめた。


 責めたい顔ではなかった。ただ、本当に心配しているだけだった。


「……わかった」


「おやすみ」


「おやすみ」


 それで別れた。


 今日は、手も繋がなかった。


 澪は電車に乗り、座席へ座って窓へ頭を預けた。


 疲れていた。身体も、頭も。


 電車の揺れが、いつもより眠く感じる。


 家に着き、コートを脱いで鞄を置く。着替える前にベッドへ腰を下ろしたところで、スマートフォンが震えた。


 見る。


『ちゃんと帰れた?』


 直人だった。


 澪は画面をしばらく見た。


 喧嘩したからといって、連絡しないわけではないらしい。


 直人らしい。


 澪は短く打つ。


『帰った』


 送信しようとして、少しだけ指を止める。それから一行足した。


『直人も?』


 送る。


 しばらくもしないうちに返事が来た。


『帰ったよ』


 それだけ。


 澪はスマートフォンを伏せ、ベッドへ仰向けに倒れた。


 天井を見る。


 疲れている。


 今日は本当に疲れていた。


 なのに頭の中には、直人の言葉が残っている。


『澪、しんどいときほど平気って言うから』


 そんなつもりはない。別に我慢しているわけでもない。できると思ったからやっただけだ。


 けれど、完全に否定できるかと言われると、少しだけ困る。


 澪は腕で目元を覆った。


「……平気だし」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


 その言葉が、さっきよりほんの少しだけ頼りなく聞こえた。




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