第2話 冬支度
休日の駅前は、平日よりずっと人が多かった。
改札から吐き出される人の流れを避けながら、水瀬澪は柱のそばに立っていた。
今日は仕事ではない。淡い色のニットにロングスカート、その上から厚手のコートを羽織っている。いつもの仕事着よりも、少し柔らかい格好だった。
昨日よりは、少しだけ暖かい。
少しだけ。
スマートフォンを見る。待ち合わせの時間まで、あと一分。
顔を上げると、ちょうど人混みの向こうから直人が歩いてくるのが見えた。今日は黒いコートではなく、濃いグレーのものを着ている。こちらに気づくと、軽く手を上げた。
「お待たせ」
時間ぴったり。
澪は腕時計を見るふりをする。
「今日は時間通り」
「昨日遅れたからね」
「覚えてたんだ」
「七分って具体的に言われたら忘れないよ」
直人が笑い、澪もつられて笑った。
「今日は寒くない?」
「昨日よりは」
「ちゃんと着てきたんだ」
「昨日もちゃんと着てたよ」
「足りなかっただけで?」
「そう」
「それをちゃんと着てないって言うんじゃないかな」
「細かい」
言いながら澪は歩き出したが、直人が反対方向へ足を向けたので、その袖を軽く引いた。
「こっち」
「あ、そっちなんだ」
「見たいお店ある」
「了解」
直人はあっさり方向を変え、澪の隣に並んだ。
休日の駅前は、どこへ行っても人が多い。大きな紙袋を抱えた人、子どもの手を引く夫婦、友人同士らしい若い女性たち。その中を二人で歩く。
「何見るの?」
「冬物」
「ざっくりしてるね」
「まだ決めてないから」
「何か欲しいものある?」
「見てから考える」
「なるほど」
澪が向かったのは、駅から少し離れたところにある服と雑貨の店だった。入口には厚手のマフラーや手袋が並んでいる。
暖房の効いた店内へ入ると、澪はすぐにコートの前を少し開けた。
「暖かい」
「昨日も同じこと言ってたね」
「冬なんだから仕方ないでしょ」
「それも昨日聞いた気がする」
「忘れて」
「都合いいなあ」
澪は聞かなかったことにして、棚の上のマフラーを手に取った。毛足の長いもの、薄手のもの、柄の入ったもの。いくつか見て、それから隣の手袋へ移る。
直人が後ろから覗き込んだ。
「手袋、買う?」
「なんで?」
「昨日、手冷たいって言ってたから」
澪は一瞬だけ直人を見る。
「あれは待たせた直人が悪い」
「まだ言うんだ」
「冗談」
「はいはい。反省してます」
澪は笑いながら、手袋を二つ手に取った。一つは明るい色で、小さな飾りがついている。もう一つは落ち着いた色で、見るからに暖かそうだった。
「どっちがいいと思う?」
「澪は?」
「聞いてるの私」
「じゃあ……こっち」
直人が指したのは、明るい色の方だった。
澪が少し意外そうに見る。
「こっち?」
「うん」
「暖かそうなの、こっちだけど」
「でも澪、最初からそっちばっかり見てたよ」
「見てた?」
「見てた」
「……ばれた」
直人が笑う。
「昨日あれだけ寒がってたのに、結局見た目で選ぶんだね」
「だって毎日使うなら気に入った方がいいじゃん」
「それはそうだね」
「じゃあ、こっちにしようかな」
澪は手にはめて、鏡の前で片手を上げた。
「どう?」
「似合ってる」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあこれにする」
直人に言われたから、というより、自分でも気に入ったらしい。澪はもう一度手元を見てから、満足そうに頷いた。
「直人も何か見れば?」
「僕?」
「せっかく来たんだから」
「特に欲しいものないけどなあ」
「見るだけ」
「はいはい」
今度は澪が先にメンズの売り場へ歩いていき、直人がその後ろをついていった。
ニットやシャツ、マフラーなどが並んでいる。
直人はしばらく見てから、濃い色のニットを一枚手に取った。
澪はそれを見るなり言った。
「またそれ?」
「また?」
「直人、似たようなの持ってる」
「色違うよ」
「ほぼ一緒」
「全然違うと思うけど」
「一緒」
直人が自分の手元と澪を交互に見る。
「そんなに?」
「うん」
「じゃあ何がいいの」
「これ」
澪が少し離れたところから別のニットを持ってくる。
直人が一瞬黙った。
「僕、これ?」
「うん」
「ちょっと明るくない?」
「似合うと思う」
「ほんとに?」
「着てみて」
直人は少し迷ってから試着室へ入った。
数分後、カーテンが開く。
「どう?」
澪は黙った。
直人が眉を上げる。
「その間は何?」
「……思ったより似合う」
「思ったより?」
「かなり似合う」
さっきより少しだけ、澪の声が柔らかい。
直人は鏡を見る。
「そう?」
「うん」
「じゃあ候補に入れようかな」
「買えばいいのに」
「即決するほどかなあ」
「似合ってるよ」
「そんなに推す?」
澪は何も言わず、もう一度直人を見る。
確かに、よく似合っていた。普段、直人が自分で選ぶ服より少しだけ柔らかい色だ。顔映りもいい。
「やっぱり似合ってる」
直人が小さく笑った。
「そこまで言われると、買わない方が悪いみたいだね」
「悪くはないけど」
「じゃあ考えます」
「まだ考えるの?」
「慎重派なので」
澪は呆れたように笑った。
二人はそれからもしばらく店内を見て回った。澪は手袋を買い、直人は結局さっきのニットを手にした。
レジを出たところで、澪がすぐに袋を覗く。
「買ったんだ」
「うん」
「よかった」
「そんなに?」
「似合ってたから」
「じゃあ、澪と会うとき着ようかな」
澪が一瞬だけ直人を見る。
「うん。そうして」
それ以上は何も言わなかったが、声は少し嬉しそうだった。
買い物を終える頃には、昼を過ぎていた。
「お腹空いた」
「そろそろ食べようか」
「何食べる?」
「今日は僕が決めていい?」
「昨日遅れたから?」
「もうそれ関係なくない?」
「冗談」
近くの洋食店に入る。休日らしく店内は賑わっていたが、運よく二人掛けの席が空いていた。
澪はメニューを開きながら、さっきのニットのことを思い出す。
「ほんとに着てきてね」
「そんなに気に入った?」
「うん」
「僕より澪の方が気に入ってない?」
「似合ってたから」
「じゃあ次会うとき着ようかな」
「次?」
「休みの日とか」
「仕事の日でもいいじゃん」
「会社に?」
「上にコート着れば見えないでしょ」
「そこまで?」
「私が選んだんだから着てほしい」
言ってから、澪は飲み物へ口をつけた。
直人が少し笑う。
「わかった」
「なに」
「別に」
「笑った」
「嬉しいなと思って」
澪は少しだけ目を細める。
「なにが?」
「澪が選んでくれた服だから」
澪はもう一度カップへ口をつけた。
「……そう」
それ以上は言わない。直人も追わなかった。
料理が来る。澪はオムライス、直人は煮込みハンバーグだった。
「そっちもおいしそう」
「一口食べる?」
「食べる」
「今日は早いね」
「昨日も早かったよ」
「そうだった」
直人がハンバーグを一口分切って、澪の皿へ乗せる。澪はその代わりにオムライスを少し分けた。
「どう?」
「おいしい」
「でしょ」
「自分で作ったみたいに言うね」
「私が選んだから」
「店を?」
「料理を」
「なるほど」
食べながら、午前中に見たものの話をする。仕事の話はほとんど出なかった。休日だからというより、特に話す必要がなかった。
「このあとどうする?」
食事が半分ほど終わった頃、直人が聞いた。
「特に決めてない」
「じゃあ帰る?」
澪はスプーンを止め、少しだけ考えた。
「……まだ帰りたくない」
直人が顔を上げる。でも、驚いた様子はなかった。
「じゃあ、もう少し歩こうか」
「うん」
それだけ。
澪もそれ以上は説明しなかった。せっかくの休日だから。まだ時間も早いから。買い物だけで帰るのは少しもったいないから。
理由なら、いくつでもつけられる。
けれど本当のところは、ただもう少し一緒にいたかった。
店を出た二人は、特に行き先を決めず歩いた。
本屋へ入り、澪は雑誌を眺め、直人は新刊の棚を見る。しばらく別々に見ていたのに、気づけばまた同じところにいた。
次に入った雑貨屋では、澪が妙なマグカップを見つける。
「これ見て」
直人が寄ってくる。
「……使いにくそう」
「そこじゃないでしょ」
「何を見るの?」
「顔」
カップの側面に、なんとも言えない表情の顔が描かれている。
直人はしばらく黙って見た。
「……ちょっと例のオブジェに似てない?」
澪が吹き出す。
「似てないよ」
「いや、雰囲気はある」
「どんな雰囲気なの」
「説明できないところ」
「それオブジェ側の特徴でしょ」
「だから似てる」
「全然似てない」
澪は笑いながらマグカップを棚へ戻した。
結局、そこでは何も買わなかった。それでも楽しかった。
買い物が目的だったはずなのに、いつの間にか目的なんてなくなっていた。ただ並んで歩く。気になる店があれば入る。疲れたら少し休む。話したくなれば話す。何も話さない時間もある。
夕方になる頃には、窓の外の光が少しずつ薄くなっていた。
「そろそろ帰る?」
直人が聞く。
「うん」
今度は素直に頷いた。
駅へ向かって歩きながら、澪は買った袋を覗く。
「手袋、つけようかな」
「もう?」
「寒いから」
「いいと思うよ」
澪は立ち止まり、袋から手袋を出して両手につけた。
「どう?」
「似合ってる」
「知ってる」
「自分で言うんだ」
「直人が選んだんでしょ」
「最終的に決めたのは澪だけどね」
「じゃあ二人で選んだ」
「それでいいよ」
また歩き出す。
数分もしないうちに、澪は手元を見た。厚手の手袋は暖かい。ちゃんと暖かい。
けれど。
「……これだと手、繋ぎにくい」
直人が隣を見る。
「確かに」
澪は少し考えてから、右手だけ手袋を外した。
「せっかく買ったのに」
「片方あったかければいい」
「昨日と理屈が似てるね」
「いいの」
差し出した手を、直人が取る。今度は最初から温かかった。
「冷たくないね」
「今日は待たせてないから」
「まだそれ言う?」
「これで最後」
「ほんとかなあ」
二人で笑い、そのまま駅まで歩いた。
改札前。二人の帰る方向が分かれるところで、足を止める。
「今日は楽しかった」
澪が言った。
「うん。僕も」
「服、今度着てきて」
「了解」
「忘れないでよ」
「忘れないよ」
繋いでいた手を離し、澪は右手に持っていた手袋をつけ直した。
「じゃあね」
「また連絡する」
「うん」
直人が改札の向こうへ消えていく。澪も自分の乗る電車へ向かった。
帰りの車内。
座席に座った澪は、膝の上に置いた自分の手をなんとなく眺めた。
今日買ったばかりの手袋。特別高いものでもない。珍しいものでもない。
けれど、気に入っている。
澪は手袋の中で、そっと指先を動かした。
暖かい。
さっきまで握っていた直人の手を、少しだけ思い出す。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。




