第1話 いつもの待ち合わせ
仕事を終えて外へ出ると、冬の空気が頬に冷たかった。澪はコートの襟元を少し寄せて、駅とは反対の方向へ歩く。向かう先は、会社から十分ほど離れたところにある古い文化会館だった。
建物の入口には深い軒があり、その下に今ではほとんど使う人もいなさそうな公衆電話がある。その横には銀色の大きなオブジェが置かれていた。何を表しているのか、何度見てもよくわからない。
最初にここで待ち合わせたとき、直人が「これ何だろうね」と言った。澪もわからなかった。結局、二人の間では『公衆電話の横の変なやつ』で通じるようになった。
澪はその変なやつの近くで足を止め、スマートフォンを見る。
『あと五分』
少し前に届いたメッセージが画面に残っている。
同じ会社で働いてはいるが、水瀬澪と藤崎直人は部署が違う。付き合っていることを隠しているわけではない。ただ、会社の出入口で毎回一緒になると、見つけた人に何かしら言われる。それが面倒で、仕事終わりに会う日は少し離れたここで待ち合わせることが多かった。
澪はスマートフォンをしまい、白い息を吐く。空は白っぽく曇っていた。雪でも降らないかな、と澪は一度だけ見上げる。けれど、降ってくる気配はなかった。
手をポケットに入れてしばらく待っていると、駅の方から見慣れた姿が近づいてきた。シャツにスラックス、その上からコートを羽織っている。仕事帰りらしい格好なのに、少し急いできたらしく歩く速度だけがいつもより速い。
澪を見つけた直人が、片手を上げた。
「ごめん、待った?」
「七分」
「そんなに? ごめん」
直人は素直に謝った。澪はポケットから片手を出し、そのまま彼の前へ差し出す。
「……冷えた」
直人がその手を取った。
「ほんとだ。冷たいね」
「あっためて」
「はいはい」
両手で包まれる。直人の手も冬の外気で少し冷えていたけれど、澪よりはずっと温かい。
「直人も冷たい」
「今来たところだからね」
「役に立たない」
「じゃあ返す?」
手を離そうとされて、澪は指を曲げて掴んだ。
「いい」
「どっちなの」
「さっきよりあったかいから」
「ならよかった」
そのまま手を繋いで、二人は歩き始めた。
「何食べたい?」
直人が聞く。
「温かいもの」
「ざっくりしてるね」
「寒いから」
「鍋とか?」
「鍋でもいい」
「辛いのは?」
「今日はそんなに」
「じゃあ辛くないやつね」
駅の方へ向かう道には、仕事帰りの人が増えていた。横から人が来ると、直人が澪の肩へ軽く手を添えて避けさせる。人の流れが途切れると、また自然に手を繋いだ。
歩く速さも、気づけば澪に合っている。最初からそうだったのか、それとも付き合ううちにそうなったのか、澪はよく覚えていない。
「今日どうだった?」
「普通」
「普通って便利だね」
「直人は?」
「僕も普通かな。午後ずっと資料直してたけど」
「また?」
「また」
「この前も直してなかった?」
「直したよ。そしたら追加が来た」
「かわいそう」
「心がこもってないなあ」
「こもってるよ」
「ほんとに?」
「少し」
「少しなんだ」
澪は笑った。
仕事の話をして、少し黙って、目についた店の看板を眺める。会話が止まっても、何か話さなければとは思わなかった。
風が強く吹き、澪は肩をすくめる。
「寒い」
「さっきからそればっかりだね」
「寒いから」
直人が繋いでいた手を離し、そのまま澪の肩へ腕を回した。少しだけ引き寄せられる。
「これで?」
「直人も冷たい」
「二人で冷えてどうするんだろうね」
「意味ない」
「じゃあ離れる?」
「それはもっと寒い」
「難しいなあ」
そう言いながら、直人は腕を離さなかった。
しばらく歩くと、通りの向こうに暖色の明かりが見えた。
「あそこは?」
直人が指す。和食の店らしい。入口に出ているメニューを二人で覗く。
「鶏と大根の煮物」
澪が言った。
「それ?」
「うん」
「決まるの早いね」
「温かそう」
「じゃあここにしようか」
二人で店へ入った。外から入ったばかりの店内は、それだけでほっとするくらい暖かかった。
案内された席でコートを脱ぎ、向かい合って座る。澪はさっき見た鶏と大根の煮物の定食。直人は別の定食を選んだ。
料理が来るまで、会社であったどうでもいい話をする。
「今日、コピー機の前で十分くらい止まってた人いた」
「故障?」
「紙詰まり」
「助けなかったの?」
「他の人が助けてた」
「見てたんだ」
「通りかかっただけ」
「十分?」
「二回通った」
「なるほど」
料理が運ばれてくる。湯気の立つ大根を見て、澪は少し機嫌がよくなった。
「おいしそう」
「温かいもの、達成したね」
「うん」
二人で食べ始める。
少しして、澪は直人の皿を見る。
「それおいしい?」
「おいしいよ」
「一口ほしい」
「どうぞ」
直人が取り分けようとすると、澪は自分の小皿を差し出した。
「ここ」
「はい」
一口分が置かれる。澪は食べて頷いた。
「おいしい」
「じゃあ僕も一口」
「これは私の」
「今僕の食べたよね」
「もらった」
「じゃあ僕にも」
澪は自分の皿を少し遠ざける。
「やだ」
「返してよ、一口」
「もう食べた」
「そういう意味じゃない」
直人が笑う。結局、澪は少しだけ取り分けた。
「少なくない?」
「一口」
「僕の一口より小さい」
「気のせい」
「絶対違うと思う」
そんなことで少し笑って、また食べる。
今日は記念日でもなければ、何か特別な予定があったわけでもない。仕事を終えて待ち合わせて、夕食を食べて、一緒に駅まで歩く。それだけの日だった。
食事を終えて外へ出ると、さっきよりさらに冷えていた。
「寒い」
「また言った」
「だって寒い」
「手は?」
直人が差し出す。澪はその手を取った。
「さっきよりあったかい」
「店の中にいたからね」
「今度は役に立つ」
「よかったです」
駅へ向かって歩く。
「次、休みいつ?」
「土曜」
「明日じゃん」
「うん」
「じゃあ、どっか行く?」
「朝から?」
「うん。たまにはちゃんと出かけようよ」
「ちゃんとって何」
「仕事終わりにご飯食べるんじゃなくて」
「基準そこなんだ」
澪が笑う。
仕事のあとに少し会うのは、もう二人にとって特別な予定ではなかった。
明日は、それとは別だ。
時間を決めて、朝からどこかへ出かける。
「じゃあ、考えとく」
「澪が?」
「何その言い方」
「いや、珍しいなと思って」
「やっぱ直人が考えて」
「そうなると思った」
そんな話をしながら歩く。
明日の待ち合わせ場所と時間だけを決めて、それぞれの改札へ向かった。
また明日。
それすら、二人にとっては大げさな約束ではなかった。




