第10話 帰る場所
立てるようになった。
正確には、何かにつかまっていれば、しばらく立っていられるようになった。
最初に成功したのは、ロザリーが使っている低い机だった。両手で縁を掴み、力を入れて身体を持ち上げる。足元は頼りなく震えているのに、頭の中では立ち方なんて知っている。
知っているのに、できない。
それがどうにも納得できなかった。
「エルナ?」
少し離れたところで薬草を選り分けていたロザリーが顔を上げた。
澪――今ではエルナと呼ばれることにもすっかり慣れた――は、机につかまったまま振り返ろうとした。
その瞬間、身体の均衡が崩れた。
尻もちをつく。
「……っ」
痛い。泣くほどではない。でも、かなり恥ずかしい。
ロザリーが笑いを堪えるような顔で近づいてくる。
「大丈夫?」
「……だい、じょ」
言いたかった。
実際に口から出たのは、ほとんど音になっていない。
ロザリーはますます嬉しそうに笑った。
「大丈夫ね」
そう言って抱き上げられる。
エルナは少し不満だった。前世で二十六年生きた記憶がある人間が、立つだけで褒められている。
おかしな話だ。
けれど、一年前は首を動かすことさえできなかったのだから、それと比べれば随分進歩している。
這えば行きたいところへ行けるようになった。壁や家具につかまれば立てる。調子がいい時は、二歩か三歩なら何にもつかまらず歩くこともできる。
その二歩か三歩のあと、大抵座り込むことになるのだけれど。
身体は、少しずつエルナの意思についてくるようになっていた。
*
言葉も、一年前とは比べものにならないほどわかるようになった。
「これは触っちゃだめ」
「ごはんにしましょう」
「眠い?」
「今日は雨だから、おうちにいようね」
そのくらいなら、ほとんど迷わず理解できる。
ロザリーが使う知らない単語はまだいくらでもあったし、長い話になると途中で意味を見失うこともある。それでも、日々の暮らしにはもうそれほど困らなかった。
問題は、自分が話す方だった。
言いたいことは山ほどある。
その瓶は危ないからもう少し奥に置いた方がいい。
今日の粥は昨日より少し塩辛い。
今から眠ると夜に寝られなくなる気がする。
全部、頭の中では言える。
口を開けば、
「あ」
「ん」
「や」
せいぜいそんなものだった。
たまに単語らしきものが出ても、発音はひどい。
ロザリーはそれでも根気よく拾ってくれる。
「これ?」
違う。
「こっち?」
違う。
「お水?」
それ。
エルナが何度も頷くと、ロザリーが得意そうな顔をする。
「やっぱりお水ね」
別に最初から当てたわけじゃない。
そう思うけれど、それを伝える術はない。だから黙って水を飲む。
そんなやり取りも、いつの間にか日常になっていた。
*
その日の朝は、少しだけ様子が違った。
ロザリーが機嫌よく鼻歌を歌っている。台所には、普段より甘い匂いがしていた。何かを煮ているらしい。
椅子につかまって立ちながら、エルナはそちらを見る。
「気になる?」
ロザリーが振り返った。
エルナは頷く。
「まだ秘密」
「……?」
「あとでね」
意味はわかる。
けれど、理由がわからない。
ロザリーは朝から妙に楽しそうだった。
昼になると、その理由がわかった。
いつもの食事に加えて、柔らかく煮た赤い果実が小皿に盛られていた。潰せば簡単に崩れるほど柔らかい。
エルナの前へ置きながら、ロザリーが言った。
「今日は、あなたがうちに来て一年なの」
エルナは顔を上げた。
聞き取れた単語を頭の中で並べる。
今日。
あなた。
家。
一年。
ロザリーはエルナの向かいに座り、少し考えるように話し始めた。
「去年の今日、森であなたを見つけたのよ」
森。
見つけた。
去年。
そこまで聞けば、わかった。
あの日だ。
冷たい森。動かない身体。泣くことしかできなかった自分。そして、木々の間から現れたロザリー。
エルナは黙って彼女を見た。
「本当のお誕生日は、私にはわからないの」
誕生日。
その言葉は、以前にも何度か聞いたことがあった。意味までわかるようになったのは最近だ。
「あなたがいつ生まれたのかも、誰が産んだのかも、わからないから」
ロザリーの声は淡々としていた。
かわいそうな子だ、と言うような声音ではない。ただ事実を話している。
「だからね」
ロザリーが笑う。
「あなたがうちに来た日を、お誕生日にしようと思うの」
エルナは瞬きをした。
誕生日。
前にもあった。
水瀬澪として生まれた日。ケーキを食べた年もあった。家族に祝われたこともある。直人にも祝ってもらった。
最後の誕生日に何を食べたかまで、思い出そうとすれば思い出せる。
それとは別に。
今日から、もう一つ誕生日ができるらしい。
「本当は、何日くらい違うのかわからないけど」
ロザリーが少し笑った。
「今日で一歳ってことにしましょうか」
エルナは、もう一度瞬きをした。
一歳。
そう言われると妙な気分だった。
前世の二十六年分の記憶があるのに、この身体は確かに一歳ほどなのだ。
「エルナ」
ロザリーが呼ぶ。
「一歳、おめでとう」
ロザリーが立ち上がり、棚から小さなものを持ってきた。
「これも」
エルナの手のひらに乗せられる。
小さな鳥だった。
木を削って作ったものらしい。羽の形も嘴も簡素で、よく見れば少し左右が違う。けれど、丸みのある形は手によく馴染んだ。
「作ったの」
ロザリーが少し照れたように言う。
エルナは鳥を見る。それからロザリーを見る。
「気に入らなかった?」
違う。
エルナは首を横に振った。
もう一度、小さな鳥を見る。
何か言いたかった。
ありがとう。
それだけなのに、今の口ではうまく言えない。
「あ……り」
声を出す。
ロザリーが目を丸くした。
「え?」
「あ、り……」
続かない。
舌が思うように動かない。
エルナは少し腹を立てた。
けれどロザリーは、しばらく考えたあと、ふっと笑った。
「ありがとう、って言った?」
エルナは勢いよく頷いた。
「そう」
ロザリーの笑みが深くなる。
「どういたしまして」
その顔を見て、エルナは手の中の鳥を握った。
本当に生まれた日がいつなのかは、エルナ自身にもわからない。
でも、ロザリーがあの森を歩いていなければ。泣き声を聞かなければ。あのまま立ち去っていたら。
今日の自分はいなかった。
そう考えれば、この日を二度目の誕生日と呼ぶのも、悪くない気がした。
*
誕生日から数日が過ぎた夜。
エルナは、身体の重さで目を覚ました。
眠いのとは少し違う。
頭がぼんやりして、身体の奥が熱い。夕食もあまり欲しくなかった。
「エルナ?」
ロザリーがすぐに気づいた。
抱き上げられ、額に手を当てられる。その瞬間、表情が変わった。
「熱があるわね」
やっぱり。
エルナ自身も、熱だと思っていた。
前世なら体温計を探して、水を飲んで、必要なら薬を飲む。それだけのことだ。
今は何一つ、自分ではできない。
ロザリーは慌ててはいなかった。エルナを寝床へ運ぶと、水を少しずつ飲ませる。火に小さな鍋をかけ、棚から何種類かの薬草を取り出した。
匂いを嗅ぎ、葉を選び、細かく刻む。手際がいい。
いつも森で植物を扱っているのは、こういう時のためでもあるのだろう。
少しして、苦い匂いが部屋に広がった。
冷ましたものをほんの少し飲まされる。
「苦いね」
ロザリーが言う。
苦い。
かなり。
エルナが顔をしかめると、ロザリーが小さく笑った。
「でも飲もうね」
嫌だと言っても通らないらしい。
そこから夜が長かった。
*
熱は、夜になるほど上がった。
身体が熱いのに、ときどき寒い。何度も目が覚める。
ぼんやりした視界の中に、いつもロザリーがいた。
水を飲ませる。額や首を湿らせた布で拭く。汗をかけば着替えさせる。
少し眠って、エルナが身じろぎするとまた目を開ける。
何度目に起きた時だったか。
ロザリーは寝床のそばの椅子に座ったまま、目を閉じていた。
長い栗色の髪はいつものように綺麗にはまとまっていない。何本か頬へかかっている。
疲れている。
当然だった。
自分が眠っている間も、ずっと起きていたのだろう。
エルナは目を閉じようとした。
でも、少し怖かった。
眠る。
目を覚ます。
違う場所にいる。
あの日以来、どこかでその二つが繋がっている。
普段なら気にならない。でも熱で弱っているせいか、今夜は妙に思い出した。
白い光。
衝撃。
暗闇。
森。
エルナの呼吸が少し乱れた。
「エルナ?」
ロザリーがすぐに目を開けた。身体を起こし、額へ手を当てる。
「大丈夫。ここにいるから」
言葉がわかった。
全部。
ここにいる。
ロザリーがエルナを抱き上げる。
熱のせいで身体はだるい。それでも、人の体温が心地よかった。
背中をゆっくり撫でられる。
エルナは目を閉じた。
また起きた時も、いるだろうか。
そんなことを考えた。
眠りに落ちた。
次に目を開けた時にも、ロザリーはいた。
その次も。
朝が近づくまで、ずっと。
*
窓の外が少し白んできた頃、熱はようやく下がり始めた。
身体がまだ重い。でも、夜中よりずっと楽だった。
エルナが目を開けると、ロザリーが気づいた。
「起きた?」
声が少し掠れている。長い髪も乱れたままだった。
ロザリーはエルナの額に触れ、ほっとしたように息を吐く。
「よかった。下がってきたね」
その顔を見ていた。
ずっといた。
一晩中。
自分が寝ても、起きても。
ロザリーはいた。
名前を呼びたくなった。
いつも、自分を呼んでくれる名前ではなく。
今度は自分から。
「……ろ」
ロザリーが瞬きをした。
エルナはもう一度口を動かす。
「ろ……ざ」
「え?」
「ろ、ざ……り」
ひどい発音だった。
でも、ロザリーには伝わったらしい。
目を見開いたまま固まっている。
「……私?」
エルナは頷いた。
「ろ……ざり」
ロザリーの顔が崩れた。
「そう」
笑っている。
でも、少しだけ泣きそうにも見えた。
「ロザリーよ」
自分を指して、ゆっくり言う。
「ロ、ザ、リー」
「ろ……ざ、り」
「うん」
ロザリーが笑った。
「上手」
上手ではない。
全然。
それでも、エルナはもう一度呼んだ。
今度はさっきより少しだけ、うまく言えた。
*
数日後には、ほとんど元通りになった。
ロザリーはまた薬草を刻み、洗濯物を干し、森へ出る。エルナは机につかまって立ち、何歩歩けるか試す。
いつもの暮らしだった。
部屋には乾かした薬草の匂いがする。暖炉のそばには薪が積んである。棚には瓶が並び、窓の向こうには森が見える。
寝る場所も知っている。
自分が使う小さな器もある。
布も、着るものもある。
棚の手が届かないところには、ロザリーにもらった木の鳥が置かれていた。
今までも全部そこにあった。
なのに、少しだけ違って見えた。
最初の頃、この場所はただロザリーの家だった。
自分は森から連れてこられ、ここに置いてもらっていた。
でも今は。
ロザリーが外へ出ると、その帰りを待つ。扉が開く音がすると、どこか安心する。
名前を呼ばれれば振り返る。
自分からも、まだ不格好だけれどロザリーと呼べる。
一年前、森で目を覚ました時、自分には何もなかった。
この世界の言葉も。
名前も。
帰る場所も。
今は、ロザリーがいる。
「エルナ」
外から戻ってきたロザリーが呼んだ。
エルナはそちらを見る。
「ろざり」
まだ少し拙い声で呼び返す。
ロザリーが笑った。
エルナも、ほんの少し笑った。
ここはもう、ただロザリーの家というだけではなかった。
自分が帰る場所でもある。
それを家と呼ぶのだと、エルナはようやく知った。




