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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第2章 森の魔女の娘
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第10話 帰る場所


 立てるようになった。


 正確には、何かにつかまっていれば、しばらく立っていられるようになった。


 最初に成功したのは、ロザリーが使っている低い机だった。両手で縁を掴み、力を入れて身体を持ち上げる。足元は頼りなく震えているのに、頭の中では立ち方なんて知っている。


 知っているのに、できない。


 それがどうにも納得できなかった。


「エルナ?」


 少し離れたところで薬草を選り分けていたロザリーが顔を上げた。


 澪――今ではエルナと呼ばれることにもすっかり慣れた――は、机につかまったまま振り返ろうとした。


 その瞬間、身体の均衡が崩れた。


 尻もちをつく。


「……っ」


 痛い。泣くほどではない。でも、かなり恥ずかしい。


 ロザリーが笑いを堪えるような顔で近づいてくる。


「大丈夫?」


「……だい、じょ」


 言いたかった。


 実際に口から出たのは、ほとんど音になっていない。


 ロザリーはますます嬉しそうに笑った。


「大丈夫ね」


 そう言って抱き上げられる。


 エルナは少し不満だった。前世で二十六年生きた記憶がある人間が、立つだけで褒められている。


 おかしな話だ。


 けれど、一年前は首を動かすことさえできなかったのだから、それと比べれば随分進歩している。


 這えば行きたいところへ行けるようになった。壁や家具につかまれば立てる。調子がいい時は、二歩か三歩なら何にもつかまらず歩くこともできる。


 その二歩か三歩のあと、大抵座り込むことになるのだけれど。


 身体は、少しずつエルナの意思についてくるようになっていた。


     *


 言葉も、一年前とは比べものにならないほどわかるようになった。


「これは触っちゃだめ」


「ごはんにしましょう」


「眠い?」


「今日は雨だから、おうちにいようね」


 そのくらいなら、ほとんど迷わず理解できる。


 ロザリーが使う知らない単語はまだいくらでもあったし、長い話になると途中で意味を見失うこともある。それでも、日々の暮らしにはもうそれほど困らなかった。


 問題は、自分が話す方だった。


 言いたいことは山ほどある。


 その瓶は危ないからもう少し奥に置いた方がいい。


 今日の粥は昨日より少し塩辛い。


 今から眠ると夜に寝られなくなる気がする。


 全部、頭の中では言える。


 口を開けば、


「あ」


「ん」


「や」


 せいぜいそんなものだった。


 たまに単語らしきものが出ても、発音はひどい。


 ロザリーはそれでも根気よく拾ってくれる。


「これ?」


 違う。


「こっち?」


 違う。


「お水?」


 それ。


 エルナが何度も頷くと、ロザリーが得意そうな顔をする。


「やっぱりお水ね」


 別に最初から当てたわけじゃない。


 そう思うけれど、それを伝える術はない。だから黙って水を飲む。


 そんなやり取りも、いつの間にか日常になっていた。


     *


 その日の朝は、少しだけ様子が違った。


 ロザリーが機嫌よく鼻歌を歌っている。台所には、普段より甘い匂いがしていた。何かを煮ているらしい。


 椅子につかまって立ちながら、エルナはそちらを見る。


「気になる?」


 ロザリーが振り返った。


 エルナは頷く。


「まだ秘密」


「……?」


「あとでね」


 意味はわかる。


 けれど、理由がわからない。


 ロザリーは朝から妙に楽しそうだった。


 昼になると、その理由がわかった。


 いつもの食事に加えて、柔らかく煮た赤い果実が小皿に盛られていた。潰せば簡単に崩れるほど柔らかい。


 エルナの前へ置きながら、ロザリーが言った。


「今日は、あなたがうちに来て一年なの」


 エルナは顔を上げた。


 聞き取れた単語を頭の中で並べる。


 今日。


 あなた。


 家。


 一年。


 ロザリーはエルナの向かいに座り、少し考えるように話し始めた。


「去年の今日、森であなたを見つけたのよ」


 森。


 見つけた。


 去年。


 そこまで聞けば、わかった。


 あの日だ。


 冷たい森。動かない身体。泣くことしかできなかった自分。そして、木々の間から現れたロザリー。


 エルナは黙って彼女を見た。


「本当のお誕生日は、私にはわからないの」


 誕生日。


 その言葉は、以前にも何度か聞いたことがあった。意味までわかるようになったのは最近だ。


「あなたがいつ生まれたのかも、誰が産んだのかも、わからないから」


 ロザリーの声は淡々としていた。


 かわいそうな子だ、と言うような声音ではない。ただ事実を話している。


「だからね」


 ロザリーが笑う。


「あなたがうちに来た日を、お誕生日にしようと思うの」


 エルナは瞬きをした。


 誕生日。


 前にもあった。


 水瀬澪として生まれた日。ケーキを食べた年もあった。家族に祝われたこともある。直人にも祝ってもらった。


 最後の誕生日に何を食べたかまで、思い出そうとすれば思い出せる。


 それとは別に。


 今日から、もう一つ誕生日ができるらしい。


「本当は、何日くらい違うのかわからないけど」


 ロザリーが少し笑った。


「今日で一歳ってことにしましょうか」


 エルナは、もう一度瞬きをした。


 一歳。


 そう言われると妙な気分だった。


 前世の二十六年分の記憶があるのに、この身体は確かに一歳ほどなのだ。


「エルナ」


 ロザリーが呼ぶ。


「一歳、おめでとう」


 ロザリーが立ち上がり、棚から小さなものを持ってきた。


「これも」


 エルナの手のひらに乗せられる。


 小さな鳥だった。


 木を削って作ったものらしい。羽の形も嘴も簡素で、よく見れば少し左右が違う。けれど、丸みのある形は手によく馴染んだ。


「作ったの」


 ロザリーが少し照れたように言う。


 エルナは鳥を見る。それからロザリーを見る。


「気に入らなかった?」


 違う。


 エルナは首を横に振った。


 もう一度、小さな鳥を見る。


 何か言いたかった。


 ありがとう。


 それだけなのに、今の口ではうまく言えない。


「あ……り」


 声を出す。


 ロザリーが目を丸くした。


「え?」


「あ、り……」


 続かない。


 舌が思うように動かない。


 エルナは少し腹を立てた。


 けれどロザリーは、しばらく考えたあと、ふっと笑った。


「ありがとう、って言った?」


 エルナは勢いよく頷いた。


「そう」


 ロザリーの笑みが深くなる。


「どういたしまして」


 その顔を見て、エルナは手の中の鳥を握った。


 本当に生まれた日がいつなのかは、エルナ自身にもわからない。


 でも、ロザリーがあの森を歩いていなければ。泣き声を聞かなければ。あのまま立ち去っていたら。


 今日の自分はいなかった。


 そう考えれば、この日を二度目の誕生日と呼ぶのも、悪くない気がした。


     *


 誕生日から数日が過ぎた夜。


 エルナは、身体の重さで目を覚ました。


 眠いのとは少し違う。


 頭がぼんやりして、身体の奥が熱い。夕食もあまり欲しくなかった。


「エルナ?」


 ロザリーがすぐに気づいた。


 抱き上げられ、額に手を当てられる。その瞬間、表情が変わった。


「熱があるわね」


 やっぱり。


 エルナ自身も、熱だと思っていた。


 前世なら体温計を探して、水を飲んで、必要なら薬を飲む。それだけのことだ。


 今は何一つ、自分ではできない。


 ロザリーは慌ててはいなかった。エルナを寝床へ運ぶと、水を少しずつ飲ませる。火に小さな鍋をかけ、棚から何種類かの薬草を取り出した。


 匂いを嗅ぎ、葉を選び、細かく刻む。手際がいい。


 いつも森で植物を扱っているのは、こういう時のためでもあるのだろう。


 少しして、苦い匂いが部屋に広がった。


 冷ましたものをほんの少し飲まされる。


「苦いね」


 ロザリーが言う。


 苦い。


 かなり。


 エルナが顔をしかめると、ロザリーが小さく笑った。


「でも飲もうね」


 嫌だと言っても通らないらしい。


 そこから夜が長かった。


     *


 熱は、夜になるほど上がった。


 身体が熱いのに、ときどき寒い。何度も目が覚める。


 ぼんやりした視界の中に、いつもロザリーがいた。


 水を飲ませる。額や首を湿らせた布で拭く。汗をかけば着替えさせる。


 少し眠って、エルナが身じろぎするとまた目を開ける。


 何度目に起きた時だったか。


 ロザリーは寝床のそばの椅子に座ったまま、目を閉じていた。


 長い栗色の髪はいつものように綺麗にはまとまっていない。何本か頬へかかっている。


 疲れている。


 当然だった。


 自分が眠っている間も、ずっと起きていたのだろう。


 エルナは目を閉じようとした。


 でも、少し怖かった。


 眠る。


 目を覚ます。


 違う場所にいる。


 あの日以来、どこかでその二つが繋がっている。


 普段なら気にならない。でも熱で弱っているせいか、今夜は妙に思い出した。


 白い光。


 衝撃。


 暗闇。


 森。


 エルナの呼吸が少し乱れた。


「エルナ?」


 ロザリーがすぐに目を開けた。身体を起こし、額へ手を当てる。


「大丈夫。ここにいるから」


 言葉がわかった。


 全部。


 ここにいる。


 ロザリーがエルナを抱き上げる。


 熱のせいで身体はだるい。それでも、人の体温が心地よかった。


 背中をゆっくり撫でられる。


 エルナは目を閉じた。


 また起きた時も、いるだろうか。


 そんなことを考えた。


 眠りに落ちた。


 次に目を開けた時にも、ロザリーはいた。


 その次も。


 朝が近づくまで、ずっと。


     *


 窓の外が少し白んできた頃、熱はようやく下がり始めた。


 身体がまだ重い。でも、夜中よりずっと楽だった。


 エルナが目を開けると、ロザリーが気づいた。


「起きた?」


 声が少し掠れている。長い髪も乱れたままだった。


 ロザリーはエルナの額に触れ、ほっとしたように息を吐く。


「よかった。下がってきたね」


 その顔を見ていた。


 ずっといた。


 一晩中。


 自分が寝ても、起きても。


 ロザリーはいた。


 名前を呼びたくなった。


 いつも、自分を呼んでくれる名前ではなく。


 今度は自分から。


「……ろ」


 ロザリーが瞬きをした。


 エルナはもう一度口を動かす。


「ろ……ざ」


「え?」


「ろ、ざ……り」


 ひどい発音だった。


 でも、ロザリーには伝わったらしい。


 目を見開いたまま固まっている。


「……私?」


 エルナは頷いた。


「ろ……ざり」


 ロザリーの顔が崩れた。


「そう」


 笑っている。


 でも、少しだけ泣きそうにも見えた。


「ロザリーよ」


 自分を指して、ゆっくり言う。


「ロ、ザ、リー」


「ろ……ざ、り」


「うん」


 ロザリーが笑った。


「上手」


 上手ではない。


 全然。


 それでも、エルナはもう一度呼んだ。


 今度はさっきより少しだけ、うまく言えた。


     *


 数日後には、ほとんど元通りになった。


 ロザリーはまた薬草を刻み、洗濯物を干し、森へ出る。エルナは机につかまって立ち、何歩歩けるか試す。


 いつもの暮らしだった。


 部屋には乾かした薬草の匂いがする。暖炉のそばには薪が積んである。棚には瓶が並び、窓の向こうには森が見える。


 寝る場所も知っている。


 自分が使う小さな器もある。


 布も、着るものもある。


 棚の手が届かないところには、ロザリーにもらった木の鳥が置かれていた。


 今までも全部そこにあった。


 なのに、少しだけ違って見えた。


 最初の頃、この場所はただロザリーの家だった。


 自分は森から連れてこられ、ここに置いてもらっていた。


 でも今は。


 ロザリーが外へ出ると、その帰りを待つ。扉が開く音がすると、どこか安心する。


 名前を呼ばれれば振り返る。


 自分からも、まだ不格好だけれどロザリーと呼べる。


 一年前、森で目を覚ました時、自分には何もなかった。


 この世界の言葉も。


 名前も。


 帰る場所も。


 今は、ロザリーがいる。


「エルナ」


 外から戻ってきたロザリーが呼んだ。


 エルナはそちらを見る。


「ろざり」


 まだ少し拙い声で呼び返す。


 ロザリーが笑った。


 エルナも、ほんの少し笑った。


 ここはもう、ただロザリーの家というだけではなかった。


 自分が帰る場所でもある。


 それを家と呼ぶのだと、エルナはようやく知った。




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